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発表が終わって、問いが残った——「媒体と再魔術化」の持ち越し

(連載「美学と再魔術化」第1回)

呆けが解けてきた

7月9日、立教大学の奥野克巳ゼミ「聞き流す、人類学。」読書会で、発表をした。題は「媒体と再魔術化——写真家が読む宮台式人類学」。50分、鶴見川を歩きながら撮った写真を見せつつ、『宮台式人類学』を写真家として読む、という話をした。

それから二週間、呆けていた。植田正治を観て、森山大道を観て、YBAを再訪して、お伊勢参りまでした。その記録は前に書いた。

呆けが解けてくると、はっきりしてきたことがある。発表は終わったが、問いは終わっていなかった。むしろ、発表を畳まずに終えたせいで、問いだけが手元に残った。この連載は、その持ち越された問いを、本を読みながら追いかけるためのものだ。第1回は、何が持ち越されたのかを書いておく。

発表で言えたこと(最小限のおさらい)

再演はしない。骨格だけ書く。

カメラという媒体を通すと、世界がもう一度、不思議なものに見えてくる。その「再魔術化」を、発表では三つに分けた。

A=装置の再魔術化。フルッサーの線。装置が世界の見え方を作り変えながら、自分の働きを隠す。僕らは「ありのままを写した」と思い込む。

B=世界の再魔術化。資本と加速が通ったあとの焼け跡に、計算しきれないものが勝手に戻ってくる。放棄茶園に蜜香が生まれ、捨てられたゴミ箱がフクロウの水場になる。フェラルと呼ばれるものだ。

C=人の再魔術化。装置の外に出るのではなく、装置の内側から、切れたつながりへもう一度ピントを結び直す。コーンが双眼鏡で一羽の鳥に焦点を合わせた、あの瞬間。

僕の答えは「道B」だった。円環の外には出ない。出られないまま、そのつど結び直す。そして最後に、この三つを一つの言葉に畳まないこと、だけを確かめて終えた。

言い残したこと、その一:発表に生成AIが出てこない

いちばん大きな持ち越しは、これだ。

50分話して、僕は「生成AI」という言葉を一度も使わなかった。2026年のいま、「媒体と再魔術化」という題で話しながら、この時代最大の装置の名を出さなかったのだ。

半分は意図的だった。話が拡散するのが怖かった。でも半分は、間に合わなかっただけだと、いまなら分かる。

フルッサーの装置論は写真機を念頭に書かれている。けれど彼の言う「装置」は、カメラに限らない。写真家の自由が「プログラム化された自由」——装置があらかじめ「撮れる」と決めた範囲の中の自由——にとどまるのだとしたら、いまその記述にいちばんよく当てはまる装置は、カメラではなく生成AIだろう。

発表では、円環の図を見せた。間接化から始まり、装置の再魔術化(A)で装置が見えなくなり、インフラ化が進み、起爆=加速でふくらみ、世界の再魔術化(B)=フェラルが起きて、不安が来て、分かれ道に着く——という一周だ。

発表で使った円環の図。間接化から一周して、分かれ道に戻ってくる。生成AIの席は、この図のどこにも、まだ描かれていない。

では、生成AIはこの円環のどこに座るのか。

Aの席(装置)に座るのか。それとも「インフラ化」と「起爆」の側に座るのか。あるいは——これがいちばん不穏な可能性だが——円環の全部の席に、同時に座るのか。

これが持ち越しの一つ目。この連載の主語になる問いだ。

言い残したこと、その二:接ぎ木に、裏打ちがあった

発表の途中、僕は一度、正直に断りを入れた。B=非計算可能性という言い方は、バーマンその人の主線ではなく、ヴェーバーとベイトソンから僕が継いだ「接ぎ木」です、と。図でも、バーマンの主線は実線、僕のBは破線で描いた。

ところが、発表準備の終盤、蔵書の索引を調べていて、見つけてしまったものがある。

奥野ゼミの中心文献のひとつ、チン、マシューズ、ブバントの共著論文「Patchy Anthropocene」(2019)に、こういう一節があった。

近代的理性が精霊と怪物の死を宣告したまさにその地点で、グレート・アクセラレーションのグラフが人新世の不気味の谷の輪郭を描き出した。そこに精霊と怪物がやはり棲んでいる。(拙訳)

脱魔術化を徹底した科学のモデルそのものが、精霊を呼び戻している——僕はそう読んだ。ウェーバーからバーマンへ続く〈再魔術化〉と同じ運動を、マルチスピーシーズ人類学の側が、自分たちの言葉で先に言い当てていたのだ。

つまり僕の接ぎ木は、外からの持ち込みではなかった。ゼミの中心文献に、すでにあった主題だった。これは追い風だ。同時に、怖いことでもある。「知らずに言っていた」のだから。

だからこの連載では、最初にブバントの名前を出しておく。その上で、自分の角度——装置、媒体——を出し直す。それが誠実なやり方だと思う。

言い残したこと、その三:不安の正体

発表の結びで、僕はこう言った。不安は、終わりではありません。回り続けることの、なかにあります——。

格好はついた。でも、あの不安の正体を、僕はまだ言えていない。

ヒントは、この春に別の場所で考えていた問題にある気がしている。AIの承認ボタンの前に置かれた人間の話だ。今年の4月、僕はHITL(human in the loop)について立て続けに書いた。AIを導入しても最後に人間が確認すれば安心、という言い方の危うさについて。人間がループの中に「いる」ことと、人間が実質的な統制を「している」ことは、同じではない、と。

発表の言葉に翻訳すると、こうなる。道B——装置の外に出ず、内側から結び直す——を選ぶ人間には、「いま結び直すべきだ」と教えてくれる何かが要る。コーンの双眼鏡が鳥を捉えた瞬間のような、焦点の合図が要る。

それは何か。たぶん、違和感だ。

違和感はどこから来るのか。これが持ち越しの三つ目で、次回の主題になる。

連載「美学と再魔術化」を始める

というわけで、連載を始める。問いは二つ。

生成AIは、再魔術化の円環のどこに座るのか。

違和感は、どこから来るのか。

この二つを、環境美学・日常美学・人工美学の本と、郡司ペギオ幸夫の本を読みながら追いかける。読む本のリストと順番は、連載の中でおいおい書く。まず次回は、AIの側——HITLの側——から、置き去りにした空欄を確かめに行く。


HITLへの持ち帰り(この連載では毎回、末尾に一段だけこれを書く)

発表の「道B」——円環の外に出ず、装置の内側からそのつど結び直す——は、読み返すと、そのままHITLの人間の姿勢の記述になっている。承認ボタンの前の人間は、ループの外に立つ審判ではない。装置の内側にいて、焦点の合う一瞬を待っている者だ。つまり、鑑賞者に近い。この直感が正しいかどうかを、これから確かめていく。

2026/07/23

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