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つまみ読み#62|マノヴィッチ&アリエッリ『人工美学 生成AI・アート・ビジュアルメディア』第1章・第5章(英語版PDF、2024/邦訳2026)

口上

この本には一度、先回りして触れている。問題編第3回「生成AIは、再魔術化のインフラである」を書くために、第3章「テクノアニミズムとピュグマリオン効果」だけを先に読んだ。自動ドアに礼を言うときの、あの「あたかも」の反転。テーゼの提示に必要な分だけ切り出して、あとは棚に戻してあった。読書編がようやくここまで来たので、今度は頭から開く。

底本は著者たちが公開している英語版PDF(CC BY-NC-ND)。手元には日本語版(ビー・エヌ・エヌ、高崎拓哉訳、2026年7月刊)の紙もある。監修は久保田晃弘——この連載で講義を追ってきた、あの久保田である。巻末には解説「生成AI時代のリアルタイム思考」も寄せている。もとはオンライン連載で、2021年12月に第1章が、2024年9月に最終章が出て、編集を経て一冊に束ねられた。連載が本になったものを読むのは難波に続いて二冊目だ。章ごとに単独の著者が立ち、第1章はアリエッリ(美学・芸術哲学)、第5章はマノヴィッチ(メディア理論・そして実作者)が書いている。

読み方の報告をひとつ。前二冊はスキャンとの格闘だった——二種類のOCRを突き合わせ、潰れた一字を600dpiまで拡大して「襞」を確定するような読みだ。今回はテキストPDFなので、引用は原文からそのまま確定する。そのかわり原文は英語である。以下の引用はすべて英語版からの拙訳とし、原書の頁に日本語版の頁を添える。公開前に高崎訳と全箇所を突き合わせた。そのうえで、引用は拙訳のままにする。高崎訳は敬体で、この「である」の文章に混ぜると文体が割れる。それに、〈不可視〉〈流暢性〉〈ロングテール〉〈すり替え〉といった、以下の論点が寄りかかる言葉のいくつかは拙訳の選語であって、邦訳の対応語はそのつど別の顔をしている。どちらが正しいという話ではなく、何を掴むための訳かが違うのだ。章題の訳も同じ扱いにする——第1章の邦題は「AIでもつくれる」、第5章は「表現から予測へ——AI画像の理論」である。

つまみ読みなので全九章はやらない。今回は第1章と第5章。第8章「道具から著者へ」と第9章——「美的アライメント」を正面から扱う章である——は次回#63に回す。

精読

一 鑑賞者の自動化——第1章「AIでも作れそう」(pp.8–24)

書き出しがいい。「美学とは何か。私たちが日常生活で行う数々の美的選択を考えてみてほしい——服を選び合わせること、写真に『いいね』すること、髪型や化粧、訪れる場所、買う物、聴く音楽を選ぶこと、等々」(p.8/邦訳p.14)。青田と難波を読んだ直後の目には、これが日常美学の土俵から書き始められていることがはっきり見える。そしてその土俵には、最初からSpotifyの推薦とInstagramのExploreタブとワンボタン写真補正が置いてある。日常の美的選択は、すでに計算の対象なのだ。

レンブラント風の新作肖像、DeepBachのコラール、GANが描く山水画。アリエッリはこれらを「計算的マニエリスム」(p.10/邦訳p.17)と呼んで、いったん突き放す。まったく新しい様式は生まれていない、既存の型の変奏である、と。だが返す刀で、現代アートに向けられてきた常套句を反転させる。

現代アートに向けられる常套句「うちの子でも描けそう」は、いま皮肉な反転を遂げて、偉大で様式的に複雑な——しかし計算的にはスケール可能な——伝統芸術の側に向かうように見える。〈AIでも作れそう〉。AIの創造能力の外に残るのは、少なくとも今のところ、デュシャンなのだ。

(p.11/邦訳p.18、拙訳)

明確に認識できる様式は、計算的な課題に還元できる「well-definedな問題」である。技術的熟練とは手続き的知識のことであり、AIはまさにそれを扱うために設計されている。逆に『泉』から《遺作》までを貫く「様式」は、データセットとしてあまりに異質で、手続きに落ちない(pp.10–11)。熟練が最初に落ち、逸脱が最後に残る。この順番は覚えておく価値がある。

章の背骨は「シンプルな地図」と題された四象限だ(p.14)。客体か主体か、認識か生成か。①客体を研究する(バッハ全曲から様式を抽出する)②客体を生成する(バッハ風の新曲を作る)③主体を研究する(誰が何を好むかを追跡する)④主体を生成する。この第四象限で、アリエッリは静かなことを書いている。

ある人の美的判断をモデル化することで、振る舞いや判断を〈生成〉することも可能になる。(…)ある主体の美的モデルに従って訓練された人工システムは、人間の主体に照会することなく、みずから評価を下せるようになるだろう。

(p.15/邦訳p.25、拙訳)

「人工判定(artificial judgment)」システムは、提出された人工物を「人々がどれほど評価するか」、どう判断するか、何と言うかまで予測して教えてくれるだろう、と続く(p.15/邦訳p.25)。しかもこのアルゴリズムは、人々自身が「気づいてさえいない」選好——鑑賞行動にこそ現れる選好——まで特定できるかもしれない(p.16/邦訳p.26)。生成されるのは作品だけではない。鑑賞者が生成されるのだ。

ではすべてが自動化されるのかといえば、アリエッリはバクサンダルを持ち出して踏みとどまる。批評とは事実の記述でも主観の報告でもなく、対象と人間の反応との関係を照らす言葉である。「ひとは絵を記述するのではない。絵を見たという私たちの思考を記述するのだ」(p.17/邦訳p.27、バクサンダル)。そしてカントの型を借りた一文が来る。

意味を欠いたパターンの記述が空虚であるように、人間の解釈を欠いたパターンの生成は盲目である。

(p.17/邦訳p.28、拙訳)

いまのAIメディア生成では、人間が選択し、調整し、微調整して望む結果を得ている。シューベルト「未完成」の補完でも、生成された旋律を選別したのは作曲家だった。そしてこの評価の工程を漸進的に自動化できるとすれば「主観的反応のアルゴリズム的分析だけである」(p.17/邦訳p.28)。ループの中の人間は、この本の見取り図では、まだ自動化されていない最後の工程として現れる。

章の後半は実験美学百五十年の駆け足の系譜だ。フェヒナーの黄金比は追試に失敗し、バーリンの逆U字も普遍規則にはならなかった。残った知見のひとつがこれである。「私たちはより典型的なものを好む。そして総じて流暢性——経験を処理する容易さ——は美的選好と相関する」(p.19/邦訳p.31)。慣れは快い。ハアパラの親しみ(#60)が、ここでは実験室の言葉で言い直されている。

もうひとつ、終わり近くの区別が効いている。価値判断と選好は別の層だ、という区別である。「私はアクション映画の熱心な消費者でありながら、めったに観ないアート系映画のほうが美的に優れていると考えているかもしれない」(p.22/邦訳p.36)。消費行動のデータは、価値判断ではなく瞬間的な選好を写す。人工判定システムがビッグデータから学ぶとき、それは何の写しを学んでいるのか。この警告は、章のなかでは控えめだが、第9章のアライメント論への伏線として読める。

二 見えなくなるまで——第5章「表象から予測へ」(pp.72–93)

マノヴィッチの章は、〈AI〉という言葉の観察から始まる。特定の技術を指す言葉ではない。「〈AI〉が指すのは、人間の認知能力を自動化する技術と方法のうち、動き始めてはいるがまだ完成しきっていないものである」(p.72/邦訳p.112)。1961年のSketchpadは描きかけの矩形を自動補完した——当時なら間違いなく〈AI〉だ。今では誰もそう呼ばない。うまく働くようになった自動化は、〈AI〉と呼ばれなくなる。そして予言が置かれる。

一定の期間ののち、生成AIの技術は当たり前のものと見なされ、ユビキタスになり、それゆえ不可視になるだろう——そして別の文化的なコンピュータ利用が〈AI〉と見なされるようになるのだ。

(p.73/邦訳p.113、拙訳)

これはメディア理論の言葉で書かれた、インフラ化の記述である。私が問題編第3回で「生成AIは再魔術化のインフラである」と書いたとき、インフラの第一の性質は不可視性だった。青田の椅子と同じだ——使用中のインフラは見えない(青田p.83)。マノヴィッチは同じことを時間軸で言う。〈AI〉とは、インフラになる途中のものに付く仮の名前なのだ、と。

章の中核は、画像制作の歴史を五段階に束ねる系譜である(p.80/邦訳pp.124–125)。手で描く。補助装置を使って描く。機械で記録する(写真・X線・リモートセンシング)。シミュレートする(3DCG)。そして予測する。「シミュレーションから予測へ」。〈予測〉は比喩ではなく、AI研究者が実際に使う技術用語だ。テキストを打つと、ネットワークはそれに最もよく対応する画像を予測する。だからマノヴィッチはこれを「予測メディア(predictive media)」と呼ぶことを提案する(p.80/邦訳p.125)。

写真家として、この系譜のなかの自分の位置を測り直さずには読めない。私は第三段階の住人である。その二つ先で、画像は撮られるのではなく予測されるようになった。

では予測メディアで何が作れるのか。マノヴィッチは実作者として答える。Anadol Studioの《Unsupervised》はMoMAコレクション数万点で訓練したモデルから、モダニズム百年のパターン空間を泳ぐ映像を生成した。Pereulkovの《Artificial Experiments 1–10》は、ソ連の非公式芸術家たちの絵画わずか40点でStable Diffusionをファインチューンし、誰の既存作にも似ていないのに彼らの「DNA」を宿す画像を作った。1910年代のフォトコラージュ、ポストモダンのブリコラージュ、90年代末のネットアート——蓄積された文化的人工物の山から新しい芸術を作るという営みの、これは最新の一手である(マノヴィッチが1998年に「データベース・アート」と呼んだ系譜だ)。そして成功の鍵は生成ではなく選定にある。

《Artificial Experiments 1–10》の成功の鍵は、このようなデータベースの制作にある。

(p.79/邦訳p.123、拙訳)

40点を選ぶこと、各画像に「厚い筆致」「赤い照明」と記述を書き添えること。その一つひとつが概念的・美的な決定である。だから「巨大ネットワークの偏りとノイズは克服し最小化できるのであって、私たちの想像力を支配させておく必要はない」(p.79/邦訳p.123)。

章の後半は、その偏りの解剖である。Midjourneyには「house style」がある——開発側が実際に使っている言葉だ(p.83/邦訳p.129)。名前を足し、媒体を指定し、様式語を積めばそこから離れられる。だが珍しいもの、稀なもの、モデルが見たことのないものを頼むと、二つのことが起きる。品質が崩れるか、望んだ内容がありふれた細部にすり替えられるか(p.86/邦訳p.133)。

生成AIはしばしば、私たちが意図したものよりもステレオタイプ的な、あるいは理想化されたメディアを生成する。

(p.88/邦訳p.134、拙訳)

マノヴィッチは自分の1981年のペン画で実験してみせる。AIはこの絵を拡張できない。彼の線は訓練データのなかで稀であり、稀なものは予測できないからだ。そして最も不穏な観察がこれである。

そうした〈すり替え〉はあまりに微細で、広範な観察なしには——場合によっては、コンピュータで大量の画像を定量分析しなければ——検出できない。

(p.89/邦訳p.136、拙訳)

18世紀の統計学からデータサイエンスまで、頻出するものはうまく扱えるが「稀で例外的なものをどうすればいいか知らない」(p.89/邦訳p.136)。予測メディアは平均の芸術なのだ。

最後の節はスタイルと内容の関係を揺さぶる。写真家148人の名前を同じプロンプトに順に差し込む実験では、名前が構図や階調だけでなく内容まで変えた。フリードリヒ風の「朽ちる芍薬」は、色調は本人でも線と細部は別人になる。結論はこうだ——生成AIが画像群から「スタイル」を完全に抽出できるという通念は正しくない。「ある種の芸術家においては、スタイルと内容は切り離せないように思われる」(pp.92–93/邦訳pp.140–141)。形式と内容の古い問題が、プロンプト欄の中で再演されている。

論点

1 鑑賞者の自動化——仮説の鏡像

この連載の作業仮説は「HITLの人間は承認者ではなく鑑賞者である」だった。第1章の四象限は、その鑑賞者にモデルの照準が合っていることを図示する。主体を生成する。人間に照会せずに評価を下す人工判定(p.15)。人間が気づいていない選好まで鑑賞行動から抽出する(p.16)。つまりこの本の見取り図では、ループの中の人間の席——選択し、調整し、微調整する評価の工程(p.17)——は「まだ自動化されていない」というかたちでしか確保されていない。鑑賞者は自動化の最後の砦であると同時に、次の獲物として名指しされている。仮説は補強されたのではない。挟み撃ちにされたのだ。

2 インフラの語彙なしに書かれたインフラ論

全194頁を走査した。この本に「magic」も「enchantment」も出てこない。そして「infrastructure」も一度も出てこない。テクノアニミズムの章(第3章)を持つ本が、魔術の語彙を持たない——脱魔術化を徹底した久保田講義がテクノアニミズムの席を空けて終わったのと、同じ配置がここにもある。付け加えれば、この本の日本語版を監修し、巻末に解説を寄せているのは、その久保田その人である。だが語がないだけで、記述はある。「ユビキタスになり、それゆえ不可視になる」(p.73)は、インフラの定義そのものだ。AI効果とは、驚きが慣れに変わり、装置が背景に沈む過程の名前である。再魔術化のインフラというテーゼは、この本の語彙の空白部分に、ちょうど嵌まる。

3 違和感の限界事例——検出できないすり替え

HITLの鑑賞者が感じ取るべきものを、第5章は具体的に与えてくれる。ステレオタイプ置換(p.88)。頼んだものが、気づかぬうちに、より典型的な細部で組み立てられている。これは難波の勤勉美——実際に勤勉かではなく勤勉に見えるか(難波p.61)——の画像版であり、第1章の流暢性——典型的なものは処理が容易で、容易なものは快い(p.19)——と合流する。すり替えられた画像は、むしろ心地よいのだ。そしてマノヴィッチは、その置換が「観察では検出できない」ことがあり、機械の定量分析が要ると言う(p.89)。違和感の感受者には限界がある。だがここで鑑賞を機械に外注すれば、その機械の判定を誰が鑑賞するのかという再帰が始まる。中間まとめ「偽物・慣れ・アライメント」の心臓部はこの三角形——偽物は慣れに埋まり、慣れはアライメントに固定される——になるだろう。

4 写真家はいま、系譜のどこに立つか

手で描く、装置で描く、記録する、シミュレートする、予測する(p.80)。私は写真のプロフィールに「撮る/撮られる/撮らされる/撮れちゃう」の四つのshootを往復する行為と書いてきた。「撮らされる」は装置のプログラムに撮らされること、「撮れちゃう」はカメラの自動性が私を追い越すことで、どちらもフルッサー的な第三段階の内側の出来事だった。予測メディアはその外に出る。撮る前に、画がすでに決まっている。シャッターの偶然が入り込む隙間のない画像。だとすれば「撮れちゃう」の先には「撮らずに済んでしまう」がある。第6章「人間の知覚と人工の眼差し」と第7章のメディア進化論がこの線の続きを持っているはずで、いずれ拾いに戻ることになりそうだ。

5 難波の空欄への最初の返答——選んで、任せる

前回の持ち越しはこうだった。難波の三アプローチのうち(2)「対抗できるような美的選好を創造すること」だけが空欄で、「その具体的な姿はまだ見えない」(難波pp.190–191)と本人が書いていた。第5章はその空欄に最初の実例を置く。Pereulkovの40点。データベースを編むことが制作であり、それによって巨大モデルの偏りに「想像力を支配させておく必要はない」(p.79)。廃墟のデザイン——他なるものの意図が忍び込んでくるに任せる意志——と並べると、輪郭が見えてくる。選ぶところまでが意志で、生成は予測に任せる。ただし楽観はできない。可能性の宇宙がどれほど広くても、「ごく少数の可能性だけが何百万人ものユーザーによって繰り返し実現され、その他の可能性のロングテールは実現されないまま残される可能性が高い」(p.75/邦訳p.116)。対抗する美的選好は、モデルとだけでなく、使用の平均化と戦うことになる。

次回への持ち越し

第8章「道具から著者へ」と第9章へ進む。走査によれば「alignment」31回はほぼすべて第9章に、「loop」も第9章に集中している。美的アライメントを正面から論じる章と、この連載の中心語彙が、ようやく正面から出会う。人工判定(第1章)に名指しされた鑑賞者の側から、その章を読む。なお第9章の邦題は「人間に『よる』か、人間の『ために』か——美的整合性の諸問題」。aesthetic alignmentは、邦訳では「美的整合性」である。この連載が「アライメント」とカタカナで書いてきたものと、「整合性」という翻訳語のあいだの距離も、#63で測ることになる。

HITLへの持ち帰り

この本は、ループの中の人間を「まだ自動化されていない評価工程」として描く(p.17)。承認ボタンの先の空欄——問題編第2回で空欄のままにした場所——は、この本の見取り図では、漸進的自動化の対象として予約席になっている。〔https://note.com/wayofseeing/n/n72288f8e2367?sub_rt=share_sb

抵抗の足場もこの本の中にある。価値判断と選好は別の層であり、消費行動のデータは後者しか写さない(p.22)。ループが学習できるのは、クリックと滞在時間に現れた選好である。違和感が価値判断の層から届く信号なのだとしたら——めったに観ないアート系映画のほうが優れていると知っている、あの層からの信号だとしたら——それはデータになりにくいものとして、しばらくは人間の側に残る。ただし第5章が釘を刺す。違和感には検出限界がある(p.89)。鑑賞者は万能の砦ではない。だからこそ、どの違和感を機械に測らせ、どの違和感を手放さないかという配分の設計が、承認ボタンの先の仕事になる。


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どっとはらい

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