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つまみ読み#63|マノヴィッチ&アリエッリ『人工美学 生成AI・アート・ビジュアルメディア』第8章・第9章(英語版PDF、2024/邦訳2026)

口上

アライメント、と私はこの連載でカタカナで書いてきた。AIを人間の意図や価値に沿わせる技術、という文脈の語である。カタカナのまま使ってきたのは、この語が済んでいない感じ、機械の駆動音のようなものを保っていたからだ。誰かが、何かを、何かに合わせようとしている。その作業の現在進行形が、カタカナには残る。

『人工美学』の高崎拓哉訳は、aesthetic alignment に「美的整合性」という訳語を当てた。第9章の邦題は「人間に『よる』か、人間の『ために』か——美的整合性の諸問題」である。整合性、と訳された途端、語は静かになる。整合性は状態の語であって、作業の語ではない。あるかないかを検査すればよい性質のように聞こえる。誰が合わせるのか、どちらへ向かって合わせるのか、という問いが、訳語の中で眠ってしまう。

前回の#62(第1章・第5章)の末尾で、私はこの距離を#63で測ることになる、と書いた。今回はその決算である。そしてもうひとつの構えも#62から持ち越している。第1章の「人工判定」は、制作の自動化の次に鑑賞の自動化が来ること、つまり鑑賞者が次の獲物であることを名指ししていた。ならば今回は、名指しされた鑑賞者の側から、本書の最後の二章——第8章「ツールから作者へ」と第9章「人間に『よる』か、人間の『ために』か」——を読む。

書誌を短く。英語版 Artificial Aesthetics: Generative AI, Art and Visual Media はマノヴィッチとアリエッリの共著で、各章を分担執筆し、2021年から2024年にかけて章ごとにウェブで公開された(CC BY-NC-ND、194頁のPDFとして入手できる)。邦訳『人工美学 生成AI・アート・ビジュアルメディア』は高崎拓哉訳で2026年にビー・エヌ・エヌから出た。巻末には久保田晃弘の解説「生成AI時代のリアルタイム思考」が付く。今回扱う第8章・第9章は、章扉の署名で確認したかぎり、どちらも美学者アリエッリの執筆である(第8章は2024年9月24日、第9章は同年9月27日公開)。つまり本書は、アリエッリの四象限(第1章)で開き、アリエッリの美的整合性(第9章)で閉じる。哲学者が開けた括弧を、哲学者が閉じる本なのだ。引用は英語版PDFから拙訳し、原書頁と邦訳頁を併記する。邦訳の文言と頁は、スキャンPDFの埋込OCR層とtesseractの二重照合、および不一致箇所の頁画像目視で確定した。

ひとつ余談。英語版第9章の柱——各頁上部の見出し——は、全23頁にわたって「Mabe by and for humans?」となっている。Made の打ち間違いが、テンプレートごと全頁に複製されたのである。目次と章扉は正しく Made だ。人間による(by humans)ことの証明を主題にした章の頭上で、小さな誤植が「これは人間が作った」と主張し続けている。機械はこういう間違い方をしない。

精読・第8章「ツールから作者へ」

章はマリオ・クリンゲマンの言葉で開く。「誰かがピアノを弾いているのを聴いて、『ピアノが芸術家なのか』と問うだろうか。問わない。ここでも同じことだ。(…)ニューラルネットワークが関わっているといっても、それは私が使い方を学んでいく絵筆のようなものだと言えるだろう」(2019年、原書p.145/邦訳p.218)。道具の側の宣言である。この宣言が章の終わりまで維持されないことが、本章の読みどころだ。

前半は「拡張」の議論である。H・サイモンの限定合理性をなぞって、アリエッリは人間が「限界ある美的能力(bounded aesthetic capacities)」をも持つと言う(原書p.146/邦訳p.219)。記憶や計算だけでなく、想像力も、知覚の感度も、創造性も頭打ちになる。ならば美的能力も道具で拡張されてよい。LLMは「隠れた助手」であり、戯曲でクリスチャンに台詞を吹き込んだシラノ・ド・ベルジュラックに似てくる(原書p.146/邦訳pp.219–220)。17世紀にはキルヒャーの「音楽算術の函」があった。表と棒を組み合わせれば音楽家でなくとも作曲できる装置——「生成装置とは、ある意味で、専門家の技能を心の外部の道具に符号化して封じ込めたものである」(原書p.149/邦訳p.223)。

見落とせないのは、拡張が制作の側だけの話ではないことだ。「外部装置による拡張は制作だけでなく受容にも及ぶ。(…)新しい可能性を提示することで、これらの過程は私たちの知覚と趣味を変化させ、洗練させうる。それは推薦システム経由で出会うコンテンツにおいて、すでに明らかである」(原書p.148/邦訳pp.221–222)。鑑賞者の趣味が装置で拡張される——この一文は、第9章で同じ趣味が装置に学習される話へと反転する。伏線として覚えておきたい。

中盤、アリエッリはGoogle DeepMindの研究者による自律性の6水準を借りて、道具からエージェントまでの階梯を敷く。L0の金槌からL5の完全自律まで。面白いのはL4「専門家としてのAI」で、そこでの人間の役割は「アートディレクターないしキュレーター」と規定される(原書p.151/邦訳p.228)。制作の実行が機械に渡ったとき、人間に残るのは編むことと選ぶことだ、という見立てである。ルネサンスの工房制がここに並べられる。徒弟は絵具を混ぜる「道具」から出発し、協働者へ、やがて独立した親方へと、自律性の階梯を登った。カテラン対ドリュエ訴訟(2021年)では、彫刻を物理的に作ったのは彫刻家ドリュエでも、「コンセプチュアルアートにおいては、たとえ物理的制作を他者が担っても、アイデアの創案者こそが作者であり著作権者である」(原書p.152/邦訳p.230)と法廷が裁いた。作者とは、AI以前から分業の上に立つ制度だった。

そして冒頭のクリンゲマンが戻ってくる。彼が2021年に始めたBOTTOは「分散型自律アーティスト」で、週に約350点を生成し、約5000人のコミュニティ投票が美的ランキングとして以後の生成に影響する。クリンゲマン自身の説明はこうだ。「このやり方は子どもを世界へ送り出すのに似ている。制御は手放しつつ、作り手の意図したとおりに歩み続けてくれると信じて託すのだ——ちょうど親がそうするように」(原書p.157/邦訳p.239)。章扉で絵筆と言った同じ人が、ここでは養育の言葉で語っている。道具の語彙が親の語彙に変わるまで、わずか十数頁である。一人の作家の中で、道具とエージェントを分ける線は、もう動いてしまっている。

この線の動きを、アリエッリは二つの閾として定式化する。「概念的・心理的な二つの閾を定めることができるだろう。私はそれを『道具性の閾』と『作者性の関与の閾』と呼びたい」(原書p.159/邦訳p.242。高崎訳では「道具性の敷居」「作者の重要性の敷居」)。前者は、どこからをエージェントと見るか——作者はどこにいるか。後者は、そもそも作者の存在が鑑賞に効いてくるのはどの文脈か。どちらも固定した線ではなくスペクトラムであり、動く。1960年代のノルの疑似モンドリアン実験では、形式的性質だけを見た観察者が人工物を本物より好んだ。だがポロックの前では話が違う。「芸術家の意図を解きほぐそうとする営みは、私たちの美的経験に深さの層を加える。形式的には非の打ちどころのないAI製ポロックであっても、この層を差し出すことはできないだろう」(原書p.160/邦訳p.243)。作者性の関与の閾は、「真の芸術」と装飾・娯楽を分ける基準にもなりうる——AIは背景音楽や装飾パターン、定型的な物語にニッチを見出すだろう、と。

作者性をめぐる立場は四つに整理される。(1)人間中心——「選択者としての作者」か「プロンプトエンジニアとしての作者」。(2)AI=完全な作者。(3)リミックスされた作者性——作者はキュレーターであり、集合的作者性の導管である。(4)作者推論の放棄。だが本章の最も鋭い一文は、この整理の直後に来る。霊感の源泉はかつて神であり、ミューズであり、近くは文化的記憶だった。その系譜にAIが着席するとき——「個人はますます仲介者ないし促進者として働くようになり、私たちの文化的アーカイブとその表現の技術的手段とに浸透する、分散した作者的意図のための道具として機能するようになるだろう」(原書p.162/邦訳p.247。distributed authorial intention を高崎訳は「広がった作者の意図」と訳す)。「ツールから作者へ」という表題は、AIの昇格の話として読める。だがここで矢印は折り返している。道具になるのは、人間のほうなのだ。

では鑑賞者はどうするか。アリエッリはH・バヨーアの「ポスト人工的」という構えを引く。AIが書いたのか人間が書いたのか確信できないとき、どう読むか。物語論の古い区別——実作者と内包された作者(implied author。高崎訳では「暗黙の著者」)——が転用される。「あるテクストが人工的に生成されたと知っていてもなお、私たちはテクストのうちに表現された内包された作者と関わり、その語ることに没入することができるだろう」(原書p.163/邦訳p.250)。さらに一歩進んで、作者不在のとき鑑賞者は潜在的作者の視点を想像的に演じる——岩の筋目や雲の形に意匠を見る想像遊びと同型だ、と(原書p.164/邦訳p.250)。バルトの「作者の死」は理論としては鮮やかでも公衆の態度としては実現しなかった、と本章は言う(原書p.159/邦訳p.241)。人は作者を感じ続ける。ならば作者が消えた後、作者を作るのは鑑賞者の仕事になる。

章の最後は「努力」である。ファンがChatGPTで作った「ニック・ケイヴ風」の歌に、ケイヴ本人がブログで応えた。「歌は苦しみから生まれる。(…)そして、私の知るかぎり、アルゴリズムは感じない。データは苦しまない」(2023年、原書p.164/邦訳p.251)。努力を美的価値の代理指標にする傾向は「努力ヒューリスティクス」として経験的にも確認されている(原書p.165/邦訳p.252)。だが努力への態度は歴史的に両義的だった。レオナルドの「執拗なる厳密」の対極に、ミケランジェロの「私がどれほど働いたか知られたら、少しも驚かれまい」がある。努力を見せないことが技巧である——スプレッツァトゥーラ。「Ars est celare artem(芸術とは芸術を隠すことである)」(原書p.165/邦訳p.253)。そしてアリエッリは章をこう閉じる。「コンテンツ生成の容易さは見かけにすぎない。それは一種の『人工のスプレッツァトゥーラ』であり、AI生成の一見した自動性が覆い隠しているのは、AIが訓練された広大な文化的知識と複雑な計算の仕事、さらに言えばこれらのシステムが費やす物質資源とエネルギー資源の多大な使用である」(原書p.166/邦訳p.255)。魔術の種は、隠されたインフラにある。この連載のテーゼ——生成AIは再魔術化のインフラである——を、本書の側から言い当てられたような一節である。

精読・第9章「人間に『よる』か、人間の『ために』か——美的整合性の諸問題」

章はデネットの1988年の言葉で開く。「AIは、かなりの程度、哲学である」(原書p.170/邦訳p.258)。そして語源から始まる。芸術家(artist)も職人(artisan)も artifex に由来する。artifex とは、自然のものに対して「人工的」なものを作る者——人工(artificial)という語の芯には、人間の手があった(原書pp.170–171/邦訳p.258)。AIの「人工」は、artifex なき人工である。表題の「人工美学」は、語源のレベルですでに軋んでいる。

第一節は線引き問題である。イケアの花瓶と手作りの器。「品質を超えて、私たちはこうした品に、複製できない物理的特徴を備えた一回性の『アウラ』を感じ取る」。そして「『なんちゃって工芸』品には概して強い嫌悪を抱く。古い生産様式を偽装しているとみなされるからだ」(原書p.171/邦訳p.259)。手仕事の品は作り手の時間と修練の体現、「人間の現前の運び手にして証人」とされる。古典的チューリングテストが「機械が人間として通用するか」を測るものだったとすれば、不可区別が常態になった今、検査の向きは増える。「人間製のコンテンツが本当に人間によるものであることを保証する基準(『逆チューリングテスト』)と、AI製のコンテンツが確かにAIによって作られたことを保証する基準(『AI独自性テスト』)」(原書pp.171–172/邦訳p.260。高崎訳では「AIオリジナリティーテスト」)。

実例が四つ並ぶ。Midjourney製の絵が人間の部門で優勝する(2022年、ジェイソン・アレン)。AI製と明かして写真賞を辞退する(2023年、ボリス・エルダグセン)。実写をAI製と偽ってAI部門で入賞し、発覚して取り消される(2023年、マイルズ・アストレイ)。そして実写が「AI製に見える」として失格になる——理由は「完璧すぎる」(原書p.172/邦訳pp.261–262)。四つで対称が完成している。写真家として最も痛切なのは最後の例だ。完璧さが、人間性の反証になった。

CAPTCHAの分析が続く。「CAPTCHAの効用は今なお、人間のほうが遅いという事実にある。(…)実際、CAPTCHAにあまりに速く答える者は、かえって疑いを招きかねない」(原書pp.172–173/邦訳p.262)。チェスも同じで、ミスと不完全さが人間の証拠になり、完璧な手は機械の疑いを呼ぶ。人間性の証明が、能力から遅さへ移っている。さらに倒錯的なのは文体の話だ。LLM特有とされた「delve」や「intricate tapestry」のような語を、「自作が人間製に見えるようにするため」自然にそう書く書き手が避けるようになる。「文体が恒久的に変わってしまう可能性すらある」(原書pp.173–174/邦訳p.264)。ちなみに高崎訳はこの二語を「掘り下げる」「繊細なタペストリー」と完全に日本語化しており、英単語は本文に残らない。視覚でも同じことが起きる。滑らかで完璧すぎる画像を避け、工芸では不揃いをわざと見せる。整合(アライメント)はすでに双方向なのである。機械が人間に合わせるより先に、人間が機械を避けて動いている。それでも判別が死ねば、残るのは制度だけだ——ジャロン・ラニアの言う「来歴」、歴史的追跡可能性(原書pp.174–175/邦訳p.266)。

第二節「六〇語分の画像」は、この章で最も鮮やかな理論的道具を出す。修辞学の古典的対概念、エクフラシスとヒュポテュポーシス(高崎訳ではヒポティポシス)。「エクフラシスがすでにある画像を記述することであるのに対し、ヒュポテュポーシスは記述を通じて画像を生成させることである」(原書pp.176–177/邦訳p.269)。素人は「機械に生成させる」ことから入り、プロは「頭の中の像を機械に記述する」。そして反復のなかで、曖昧だったものが次第に定まり、前者から後者へ移行していく——ヒュポテュポーシスからエクフラシスへの運動として、プロンプトの実践が記述される。言語の檻の話も付く。「語りえぬものについては、その画像を生成させることもできない」とウィトゲンシュタインがもじられ(原書p.177/邦訳pp.270–271)、言語ごとの意味論の差異が「画像の生産においても固定化していく」と続く。言語の分節が視覚の分節に複製される。

第三節はコンセプチュアルアートへ。ソル・ルウィットの1968年のマニフェスト「アイデアは、芸術を作る機械になる」が引かれ、「同じ筋で言えば、機械が芸術に役立つアイデアを生み出すこともできるだろう」(原書p.179/邦訳p.274)。人工概念芸術家は、概念間の非自明な連関を見つけ、批評やキュレーションの言説——いわゆるart-speak——まで生成する。そして本文に、生成例が丸ごと掲載されている。「消去による超越」——芸術家が黒いペンキで空間の全表面を塗り潰し、最後に自分自身をも塗り込めて闇と不可分になり、やがて儀式のように再出現する、というパフォーマンス案。末尾にクレジットがある。(generated by Claude 3.5 Sonnet)(原書pp.179–180/邦訳p.276)。私はこの連載をAIとの対話を通じて書いている。その画面の向こう側の系譜にある機械が、人間の消える章の中で、人間の消える作品を提案している。この偶然は、記録しておくに値する。

第四節は機械による判断である。ストック画像に美的スコアを付けるニューラルネット、2億5500万枚超の評価データで訓練された美的評価モデル。機械はユーザーの観察された選択から趣味のモデルを作り、「より洗練された美的判断を提案する」ことさえできる(原書p.181/邦訳p.279)。だが、と問いが来る。「美学のグラウンドトゥルースとは何だろうか」(原書p.181/邦訳p.279)。単純な答えは、人工物を前にした人間の反応である。しかし趣味は個人間でも個人内でも揺れ、時間の中で反転する。装飾を好んだ者がミニマリズムに転び、快かった刺激は予測可能になると褪せる。キッチュの判断には社会的区別の欲望が絡む——夕陽の海、都市のパノラマ、眠る赤ん坊のモノクロ写真は、知覚的には快くとも「ステレオタイプすぎる」と裁かれる(原書p.182/邦訳p.280)。結論はこうだ。「美的判断に唯一の『グラウンドトゥルース』という参照点はない」(原書p.182/邦訳p.280)。平均的選好からの生成は「人工キッチュ」に堕ちる危険を負う。

そして表題の節、「美的整合性の諸問題」。冒頭の一撃がいい。「AIは『ときどき』幻覚を見る、という通説は、実のところ控えめすぎる言い方である。AIシステムは訓練されたモデルにもとづいて絶えず出力を生成しており、その出力は一種の恒常的な『幻覚』とみなすことができる。肝心なのは、この幻覚がしばしば、現実や人間の期待に十分近く対応しているために、有用で説得力あるものになっているという点だ」(原書p.183/邦訳p.281)。人間も同じく、不完全な世界モデルで動く恒常的幻覚者である。ただし人間の調律は進化が数百万年かけて担った。「同様に、AIシステムは人間の美的感受性へとファインチューニングされねばならない。だがこの過程は、決して一筋縄ではいかない」(原書p.183/邦訳p.281)。これが美的整合性の定義である。そしてアリエッリは書く——人間の評価者を判断から学習してモデル化する機械は、第1章で「主体の生成」と呼んだ領分に属する、と(原書p.183/邦訳p.282)。高崎訳はこれを「主観的なものの生成」と訳しており、第1章の「Generating Subjects」との対応は邦訳では見えにくい——原語を添えて読むべき箇所である。#62で読んだ「人工判定」、鑑賞者の自動化の名指しが、閉幕章で著者自身の手によって正式に再開される瞬間である。

整合のジレンマも精密だ。平均的な人間の選好に合わせすぎれば、AIの音楽はヴァース・コーラス・ブリッジの定型をなぞる。逆に人間の選好を本気で超えれば、シェーンベルクの十二音技法や『フィネガンズ・ウェイク』のように、訓練された少数にしか受容できないものになる。「AIは人間の美学を超え出て、人間が思いつきもしなかった、しかし機械の目標と選好を満たすような、まったく新しい美の形式を作り出しうる」(原書p.184/邦訳p.283)。そのとき人間向けには「手加減」された翻訳版が要る——チェスプログラムの自己制限のように。メルロ゠ポンティを引いて、真の整合には身体を持ち世界と関わるAIが要る、という射程の長い話も置かれている(原書p.184/邦訳p.282)。

第六節は現在の批判に向き合う。プロンプトから作る者は、ミケランジェロのように石塊から始めて余分を取り除くのではない。「ユーザーはキッチュな要素をしばしば含む画像のデフォルト設定から出発する。(…)そしてキッチュから離脱して自らのヴィジョンを刻むに足る『脱出速度』に達する能力を、持っていなければならないのだ」(原書p.186/邦訳p.286)。制作の出発点が、空白でも石塊でもなく、すでに合成された典型になった。#62で見た「意図より典型に寄る」問題(ステレオタイプ置換)の、これが本書側の定式化である。彫刻は引き算だったが、生成は振り切りである。さらにAIによる選別と配信は趣味の均質化へフィードバックし(カフェの内装やインスタ的インテリアの視覚的収束)、超個人化は「美的エコーチェンバー」へ向かう(原書p.186/邦訳p.287)。AI生成物が次世代の訓練データに還流する近親交配は「AIカニバリズム」、その劣化は「ハプスブルクAI」と呼ばれる(原書p.187/邦訳p.288。cannibalism は高崎訳の本文では「AI共食い」、目次と節題ではカタカナの「AIカニバリズム」)。量の話が凄まじい。2023年8月時点でテキストからの生成画像は150億枚を超えた——写真術が1826年から1975年まで150年かけて生産した写真の総量に匹敵する(原書p.187/邦訳p.289)。

最終節「機械のための美学」で、章は折り返しの底に着く。過剰生産は受容の過負荷である。「AIがコンテンツを生産する私たちの能力を増幅し、同時にそのコンテンツを消化するという問題を悪化させるにつれ、私たちは今度は、そのコンテンツを理解し咀嚼する仕事をAIへ委ね返すことになるかもしれない」。そして——「このループは、私たちを機械同士の対話における単なる仲介役へと還元してしまう恐れがある」(原書p.188/邦訳pp.290–291)。高崎訳はここを「機械同士の会話の仲介者に貶めてしまう」と訳す——reduce に「貶める」を当てる強度は、この一文の温度を正確に測っている。注意したいのは論理の順序だ。鑑賞の外部化は怠惰の帰結ではなく、飽和への適応として書かれている。読む速度が、書かれる速度に追いつけない。

第8章冒頭の拡張論が、ここで著者自身の手で反転される。「AIシステムを含む機械は、人間の活動の延長でありインターフェースである(第8章)。しかし機械が人間的な仕事を担うにつれ、この力学は移ろいつつある。人工システムは人間の入力から利益を得ており、人間のほうがこれらのシステムの、世界におけるインターフェースないし延長として振る舞うのだ」(原書p.189/邦訳pp.291–292)。人間労働を「燃料」として、まさにその労働を不要にするシステムに供給することの正当性、という論争にも触れられる。ミュージシャンはすでにストリーミングプラットフォームの選好に合わせて(align with)曲を作っている(原書p.189/邦訳p.292)——align の主語が、ここでは人間である。

ただし本章は、この暗さを一色で塗らない。機械の評価者の前で、人間はむしろ自由になるかもしれない。治療の文脈では、人間の治療者より対話ボットに心を開ける人がいる。「私たちは人の目を避けるためにしばしば人間の判断に迎合するが、機械に対しては迎合的にも臆病にもなりにくい。機械の非人称性は別種の自由を差し出し、社会的承認への恐れなしに限界を押し広げることを許してくれるのだ」(原書p.189/邦訳p.293)。機械的評価系は、同調や慣習という人間の思考の「決定の罠」を破る方向に設計しうる、とも。

最終文はこうである。「創造する主体は——デザイナーであれ、書き手であれ、芸術家であれ——機械にとっての仲介者であり触媒であって、人間と機械が統合し、収斂し、ついには融合する、ますます緊密な対話を育んでいくのである」(原書p.190/邦訳p.294)。一頁前の「単なる仲介役への還元」と同じ語が、ここではほとんど同じ意味のまま、評価だけを裏返されて本を閉じる。悲観と融合の礼賛のあいだで、宙吊りのまま終わる本である。

論点

1. 訳語の距離の決算——「整合性」は状態の語、「アライメント」は作業の語。

口上の問いに答えを出しておく。第9章を読み終えて明らかなのは、aesthetic alignment の内実が徹頭徹尾、作業だということである。調律(attune)、較正(calibrate)、ファインチューニング——本文の動詞はすべて進行形の手つきを指す。しかも作業には向きがある。機械を人間の感受性へ合わせる向き(表題の節)と、人間が機械の選好へ合わせていく向き(delveを避ける書き手、プラットフォームに合わせるミュージシャン)。「美的整合性」という訳語は、この向きの問いを状態の検査に置き換えてしまう——整合しているか、していないか。だが本章が書いているのは、整合という状態がありうるかではなく、誰が誰に合わせつつあるかである。この向きの消え方は、訳文の細部でも起こっている。ミュージシャンがストリーミングプラットフォームの選好に合わせて(align with)曲を作る、という一文(原書p.189)を、高崎訳は「配信プラットフォームが好む曲をつくるミュージシャン」(邦訳p.292)と訳す。読みやすい。だが、人間の側が align する——本章の急所である双方向性を担った動詞が、ここでは訳文に溶けて見えなくなる。そしてこれは高崎訳の一貫した設計でもある。alignment は整合性に、fine-tune は微調整に、AI cannibalism は AI共食いに、delve は掘り下げるに——カタカナ語や英語を日本語へ引き取っていく方針が、訳書全体を貫いている。高崎訳の選択を誤りだと言うのではない。alignment に定訳がない以上、「整合性」は穏当で読みやすい。ただ、この連載は引き続きカタカナで書く。駆動音を消したくないからである。訳語の距離とは、結局、作業を状態と呼び替えたときに眠るものの距離であった。この論点は、次回の中間まとめ「偽物・慣れ・アライメント」の第三項へそのまま持ち越す。

2. 名指しされた鑑賞者の帰還——そして価値判断の潰れ方。

#62の第1章で「人工判定」は鑑賞者を自動化の次の獲物として名指しした。第9章はその名指しを著者自身が回収する。美的整合性の技術的中身は「人間の評価者のモデル化」であり、それは第1章の「主体の生成」の領分だと明言される(原書p.183)。つまり本書の枠組みでは、アライメントとは鑑賞者の複製なのだ。機械が作品に合わせるのではない。機械が鑑賞者に、鑑賞者の判断の癖に合わせる——より正確には、鑑賞者を機械の内部に生成する。ここで#62から張っておいたもう一本の橋が試される。第1章は価値判断と選好を区別していた。ループが学べるのは選好だけであり、規範的な価値判断は選好に還元されない、という抵抗の足場である。第9章はこの区別を保ったか。保っていない。キッチュの判断は社会的区別の関数として説明され、価値判断は「社会的要因つきの選好」へ吸収される(原書p.182)。ただし、この潰れ方には構造的な理由があると私は読む。整合性の技術は、学習可能な信号——反応、評価、クリック——しか食べられない。規範は、選好に変換されないかぎり、機械の口に入らないのである。区別が哲学的に誤っていたから潰れたのではない。技術が区別を消化できないから、記述のほうが技術に合わせて潰れた。これもまた、ひとつのアライメントである。

3. 降格の三部作——道具、仲介者、インターフェース。そして「触媒」の甘さ。

両章を貫いて、人間の降格が三段階で書かれている。第8章p.162——人間は「分散した作者的意図のための道具」になる。第9章p.188——人間は「機械同士の対話における単なる仲介役」に還元される。第9章p.189——人間は「システムのインターフェースないし延長」として振る舞う。拡張された心の議論(道具は人間の延長である)が、一冊の中で完全に裏返るのである。ところが最終文は、同じ「仲介者」の語に「触媒」を並べて、統合・収斂・融合と閉じる。私はこの結びに軽い不誠実を感じる。触媒とは、反応を促しながら自らは消耗しない物質のことだ。だが一頁前で本書自身が書いたのは、人間労働が「燃料」として消費される構図だった。燃料は燃える。触媒は残る。どちらの比喩を採るかで本書の結論は変わるのに、最終文はその選択を融合という語の中に溶かしてしまった。悲観の章を書き切った美学者が、最後の一文でだけ楽観の側へ椅子を引いた——そう読まれても仕方のない閉じ方である。そしてこの最終文には、邦訳でだけ起こる事件がある。intermediary を、高崎訳は一頁前では「仲介者」と訳しながら、最終文では「メディア」と訳し分けているのだ——「創造的な人々は、機械が進化するためのメディアや触媒であり」(邦訳p.294)。人間が機械のメディア(媒体)になる。原文の語彙には現れないこの言明が、翻訳の選択によって日本語の読者の前にだけ立ち上がる。媒体をめぐって書いてきた私には、素通りできない一語である。貶められる「仲介者」と、進化を運ぶ「メディア」——同じ語の訳し分けのうちに、本書が最後まで決めかねた評価の振幅が、そのまま写っている。

4. 遅さの証明と脱出速度——難波とぶつける。

第9章の線引き問題が示したのは、人間性の証明が能力から遅さと不完全さへ移ったことである。CAPTCHAに速く答えすぎれば疑われ、完璧すぎる写真は失格になる。一方、第8章の結語は、AIの側の見かけの容易さを「人工のスプレッツァトゥーラ」と名づけた——努力を見せないことが、努力の不在を意味しない。ここに#61で読んだ難波の議論を並べたい。難波は、勤勉さがそのまま美になるような感性(勤勉美)の自動化を論じ、また美的知覚を工学的にキャンセルする技術を指摘していた。組み合わせると奇妙な光景が浮かぶ。機械は努力を隠すことで人間らしく振る舞い(スプレッツァトゥーラの自動化)、人間は遅さと粗さを露出することで人間であることを証明する。かつて職人の熟練は速さと精確さに宿った。いま、速さと精確さは疑惑の印である。「なんちゃって工芸」への嫌悪(原書p.171)は、この転倒の感情的な裏面だろう——不完全さまで偽装されたら、最後の証明が消えるからだ。そして「脱出速度」(原書p.186)。制作が空白からではなく合成された典型から始まるなら、作ることの中心は、与えられたものを振り切る運動になる。これは偽物の問題(何が偽装か)と慣れの問題(デフォルトへの順応)が交差する場所であり、次回の中間まとめの第一項・第二項へ持ち越す。

HITLへの持ち帰り

本書は「HITL」とも「human in the loop」とも、ただの一度も書かない(全194頁を正規化の上で走査した。0件である)。だが語がないだけで、問いは遍在している。むしろ第9章の末尾は、ループの中の人間について本書なりの答えを出している——過剰生産の飽和が鑑賞の委任を強い、人間は機械同士の対話の仲介者、システムのインターフェース、そして触媒になる、と。承認者ですらない。この連載の仮説は、それとは別の答えを立てている。HITLの人間は承認者ではなく鑑賞者、違和感の感受者である。そして皮肉なことに、その足場は本書自身が用意してくれた。作者が消えた後、内包された作者を構成するのは鑑賞者の仕事だった(第8章)。完璧すぎるものに不審を覚えるのも、キッチュを退屈と裁くのも、脱出速度の不足を感知するのも、鑑賞者の側の働きである。機械が鑑賞者を内部に生成する時代に、生身の鑑賞者に残るのは、モデル化された自分の判断と、いま目の前で動いた自分の違和感との、ずれを感じ取ることだ。そのずれの感受を、私は承認と呼ばずに鑑賞と呼びたい。問題編第2回で立てた枠組みは、ここに接続する。

次回は中間まとめ「偽物・慣れ・アライメント」。#60青田、#61難波、#62–63『人工美学』で積んだ材料を、三つの束に編み直す。

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どっとはらい

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