見出し画像

つまみ読み#53|Jae Emerling『Photography: History and Theory』(Routledge, 2012)

引用の訳はすべて仮訳(原文は末尾の制作メモに併記)。

口上

この本は一度、外側から眺めたことがある。昨年7月の「ネットで立ち読み」で、ChatGPTとネットの情報、インターネットアーカイブの全文を対話しながら、各章の要約、論点整理、用語解説、批判的分析までひととおり組み立てた。あの見取り図は今も使える。だから今回は同じことを繰り返さない。

今回やるのは、中に入ることである。手元のPDFを開き、序文と序論の全文、第1章とベンヤミン・グロス、第5章とフルッサー・グロスを、頁を繰りながら精読した。第2〜4章は今回も通読していない(固有名の所在確認のみ行った。後述)。つまりこれは、立ち読みで描いた地図を片手に建物を実際に歩いてみた報告であり、ついでに、あの地図がどこまで正確でどこがぼやけていたかの検算でもある。

本書の造りを一行で確認しておく。全5章、各章末に理論テキストひとつを精読する「グロス(注解)」が付く。第1章にベンヤミン「写真小史」、第2章にバルト「イメージの修辞学」、第3章にソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』、第4章にフーコー『知の考古学』、第5章にフルッサー『写真の哲学のために』。本文が地図、グロスが原典への坑道という二重構造。本文196頁。なお著者名の片仮名は、前回は「エマーレング」としたが、本稿では原音に近い「エマーリング」に改める。

精読

序文──写真論には写真がない(pp.xii–xiii)

立ち読みでは序文に触れなかった。しかし本書の方法宣言はここにある。「写真についてのあらゆる本は、つねに同じ制約を刻印されている。テキスト内で論じられる写真すべての不在である」(p.xii、仮訳)。「最初の写真」とされるニエプスの《ル・グラの窓からの眺め》は1898年から1952年まで所在不明で、再発見後も原板は複製不能、いま図版で見るものは「翻訳」にすぎない。バルトが『明るい部屋』で母の「冬の庭園」の写真を掲載しなかったことも同型で、あらゆるディスクールは自分の「冬の庭園写真」──不在という可能性の条件──を抱えている。エマーリングはこの盲点を欠陥ではなく開口部として引き受けると宣言し、各章冒頭のエピグラフを「失われた写真」の代理として置く。写真論は、論じる対象の不在から書き始めるしかない、という自覚が本書の基調音である。

序論──チェス盤としてのディスクール、ナイトの動きとしてのイメージ(pp.1–16)

立ち読みは序論を「歴史的出来事と理論的言説を同時に捉える統合的アプローチ」と要約した。それで正しい。ただし精読すると、この主張がどんな像で提示されているかが見える。

序論は2枚の写真のあいだから始まる。1844年、カロタイプの発明者フォックス・タルボットと写真家クローデが対局する写真(ヘネマン撮影)。そして1934年夏、亡命中のブレヒトをベンヤミンが訪ねた先、デンマークのスヴェンボーでの両者の対局写真。チェスはディスクール(言説)の比喩である。「端的に言って、ディスクールなしに『写真』は存在しない」(p.2、仮訳)。定跡の反復と変奏、構造と一手の緊張。ただしエマーリングは決定的な限定を加える。写真家だけが──イメージの創造だけが──盤上を斜めに飛び越える「ナイトの動き」を実行する(p.3)。イメージとは2枚の写真の「あいだ」にのみ生じる思考像(ベンヤミンの Denkbild)だ、と。

本書のテーゼはこう凝縮されている。「対立し合う諸理論こそが写真の歴史である」(p.8、仮訳)。ニューホール、シャーコフスキー、グリーンバーグと連なる形式主義の系譜と、《October》誌に集った批判的ポストモダニズムの系譜は、写真史の外にある解釈の対立ではなく、それ自体が写真の歴史なのである。バッチェン『Burning with Desire』を経由して、両陣営が「写真の同一性は自然か文化かのどちらかに確定できる」という前提を共有する共犯関係にあったことが示され、デジタル化による「写真の終焉」論は技術決定論として退けられる。

方法論の宣言はドゥルーズから引かれる。「理論とはまさに道具箱のようなものだ……役に立たねばならない。機能しなければならない」(p.9、仮訳)。そして立ち読みでも拾った「鳥の足跡は鳥ではない」(p.10)は、インデックス性(指標性)の議論の中にある。写真にとってインデックスは前提条件ではあるが、写真はアイコンでもシンボルでもあり、指標性への過剰な信頼は「イメージは作られたものであって自然物ではない」(スナイダー、p.11)という当たり前の事実を覆い隠す。人間の眼は静止像を結ばない(眼球は毎秒150回も微振動している、p.11)のだから、静止した写真イメージはむしろ不自然で非人間的なものであり、そこにこそ可能性がある──この転倒が序論の隠れた山場である。

第1章 The thing itself──「物そのもの」への欲望の系譜(pp.17–47)

立ち読みは本章を「写真は現実のコピーではなく抽象化する媒介物」とまとめた。精読で見えるのは、その一般論ではなく、系譜の具体的な並びである。

タルボットは自分の発明を「光だけの作用で刻印された」(p.18、仮訳)画像だと繰り返し、『自然の鉛筆』(1844)の第1図版(オックスフォード、クイーンズ・カレッジ)を「応用」の実演として提示した。だがエマーリングの読みでは、まさにその図版が「自然が自らを書く」という主張を裏切っている。フレームの恣意性、目を引いてしまう右手の黒い煙突、フレーム外を想像で補わねばならないこと──最初の写真集の最初の図版が、すでに解釈を要求する部分像なのだ(p.20)。

ボードレール(1859)について、立ち読みは「写真嫌いの初期批判」と紹介した。精読するとねじれが見える。ボードレールは写真を芸術と取り違える公衆を「新しい太陽崇拝者たち」(p.20、仮訳)と嘲弄したが、写真=機械的複製という規定そのものは公衆と共有していた。彼の怒りは写真の誤解にではなく、複製と芸術の混同に向かう。だから写真に与えられる「真の義務」は「諸芸術と諸科学の謙虚な侍女」(p.21、仮訳)──アーカイヴの道具、記憶の補綴──となる。

この欲望が20世紀に制度化される。ニューホール『写真の歴史』(1937)は MoMA の権威とともに、写真を西洋絵画的伝統の「嫡子」(p.24、仮訳)とする形式主義的正史を書き、その規範は F.64 グループ、とりわけウェストンの「ウェストン的」諸性質(シャープネス、プリントの完成度、ストレート・フォトグラフィ)に収斂する。シャーコフスキー『写真家の眼』(1964/66)はこれを洗練させ、「物そのもの」「ディテール」「フレーム」「時間」「視点」の5基準で写真というメディウムの固有性を定義しようとした。立ち読みが的確に指摘していたとおり、本書の章題(The thing itself、Frame、Time-images)はこのシャーコフスキーの5基準の意図的な流用である。写真の「物語的貧しさ(narrative poverty)」を逆手に取り、「伝統」を事後的に構築するその手つきに、エマーリングはグリーンバーグ的な媒体特異性の写真版を見る。

対抗するのが批判的ポストモダニズム。ボルトン編『The Contest of Meaning』(1989)を結節点に、ロスラー、クリンプ、クラウス、セクーラ、ブークローらの「一貫した見方」──意味はすべて文脈が決める、ゆえに「写真それ自体」の同一性は虚構──が形成される。方法論の源流にはバルトの初期記号論(「写真においては決して芸術ではなく、つねに意味がある」p.35、仮訳)が置かれる。

ここからが立ち読みでは見えなかった部分である。エマーリングは批判的ポストモダニズムの現在形としてタッグ『The Disciplinary Frame』(2009)を詳しく読む。立ち読みはタッグを「本書の批判的姿勢と響き合う」存在として紹介したが、実際の扱いは逆に近い。エマーリングはタッグの仕事を高く評価した上で、その限界にこそ章の力点を置いている。タッグはウォーカー・エヴァンズ論で、写真を「言表としての写真」と「可視性としての写真」の閾──美学の敷居──まで連れて行きながら、その一歩手前で「メランコリー」の概念に退避してしまう。「なぜもう少しイメージのもとに留まらないのか」(p.39、仮訳)。イメージがディスクールに内在しつつディスクールを変形する「例外的な外部性」であることを、批判的ポストモダニズムは最後まで考えられない──これが本章の結論であり、章末のバッチェン引用(形式主義もポストモダニズムも「自然か文化か」の二者択一を共有する)へ接続される。デリダの「物そのものは記号である」(p.41)、そしてタルボット自身が1835年のノートで写真を「スキアグラフィア(影の書法)」と呼びかけていた事実(p.41)が、余白に書き込まれて章が閉じる。

ベンヤミン・グロス──「写真小史」の救出(pp.42–47)

立ち読みは「写真にオーラが宿るのか否かという問いが検討される」と書いた。問いの立て方は正しい。精読すると、答えの向きまで見える。

グロスの標的は、ポストモダニズムによるベンヤミンの道具的使用(アウラ消散テーゼとアレゴリー論の切り売り)である。エマーリングはまず、アラゴン『パリの農夫』を夜ごと2、3頁しか読めなかった──動悸がして本を置いた──というベンヤミンの手紙を引き、把握と喪失のあいだを往復する「研究のリズム」を回復する。読みの中心はふたつ。ひとつはヒルの《ニューヘイヴンの漁婦》。写真には「沈黙させられることのない何か、そこに生きていて、いまなお現実であり、『芸術』に完全に吸収されることに決して同意しないだろう女の名を知りたいという抑えがたい欲望で見る者を満たす何か」(p.45、仮訳)が残る。もうひとつはダウテンダイ夫妻の肖像をめぐる一節。「もっとも精密な技術が、その産物に、絵画がもはや二度と持ちえない魔術的価値を与えることができる」(p.45、仮訳)。

つまり、複製技術はアウラを消散させるだけではない。付与しもする。この両義性を「光学的無意識」(p.46)が支える。ここでのアウラは物神的な芸術価値ではなく、過去と現在が交差し未来が「巣ごもる」(p.46)時間的価値である。アウラ消散の一義的テーゼでベンヤミンを引くことは、彼のテキストのこの逆流を読み落とすことになる──「写真小史」は以前このつまみ読みでも扱ったが、エマーリングの読み筋との差分はここにある。

グロスは、ジゼル・フロイントが1938年にポンティニーで撮った、複製されたことがない(と著者の言う)ベンヤミンの写真のエクフラシス(言葉による記述)で閉じる。キンポウゲを一本手にした、フレームの右端で半分切れたベンヤミン。読者は決してその写真を見られない。写真論の本の中で、見せられない写真を言葉だけで差し出すこと──序文の「不在の写真」の方法が、ここで一度だけ実演される。

第5章 Time-images──時間のイメージ(pp.165–190)

立ち読みとの解像度差が最も大きいのがこの章である。立ち読みの第5章要約には家族アルバムの循環時間、シェリ・レヴィーン、ジェフ・ウォールの演出写真が登場したが、突合の結果、いずれも第5章の本文にはない(レヴィーンは第3章 pp.101–102、ウォールは序論 p.3・第2章 p.66・第3章 pp.118–119 に登場する)。実際の第5章は、以下のように進む。

イメージは使者(envoy)である──章はそう始まる。「写真とは何か」と問う前に「どう機能するか」を問え。1850年代のグリーンのナイル川、ワトキンスの鉄道、現代のスィー・ツォン・リョンのパノラマを並べ、写真が過去の表象ではなく「時間のなかの開口」になる瞬間を追う。ウォレンのアスペクト論(スナップショット/長時間露光という、あらゆる写真に折り重なった二つの時間への態度)が導入され、キャパの共和国兵士の写真が「ひとつの行為全体の凝縮された含意」(p.170、仮訳)を運ぶ「潜在的な一点」として読まれる。ド・デューヴのスナップショット=躁的防衛/長時間露光=メランコリーという精神分析的二元論は、「その中間の位置」を考えることこそ課題だと退けられる。そしてカルティエ=ブレッソン「決定的瞬間」が、実は「images à la sauvette(かすめ取られた、見られずに撮られたイメージ)」の誤訳に由来するという指摘(p.171)。「決定的瞬間」はおよそ「瞬間」の話ではなく、内と外、自己と世界の折り目(fold)の話だった、と。

後半はベンヤミン=プルースト=ドゥルーズの系列が一本の線になる。ベンヤミンの「引用(citation)」は過去の保存ではなく「文脈から引き剥がし、破壊する」ことであり、その核心には「過去の必然的な社会的取り返しのつかなさ(irretrievability)」(p.176、仮訳)がある。アジェの空っぽのパリは「犯行現場」(p.180)であり、アウラからの解放の初動。ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』の精読を通じて、自発的記憶=スナップショット(プルースト曰く「写真展のように退屈」p.183)を超え、無意志的記憶さえ超えて、芸術だけが与える「純粋状態の時間のかけら」(p.183)=断片としてのイメージへ。そして『明るい部屋』のバルト。プンクトゥムの正体は細部ではなく時間であり、写真は「過去の現実の放射──芸術ではなく魔術」(p.189、仮訳)である。章はミッチェルの「生きているイメージ」(イメージへの魔術的態度は近代でも失われていない、p.189)を経て、ダゲールの《タンプル大通り》で閉じる。

フルッサー・グロス──装置、プログラム、そして再魔術化(pp.191–196)

立ち読みはフルッサー・グロスを「写真術に内包された時間概念の変容」の考察と紹介した。フルッサーの本全体の要約としては通るが、エマーリングのグロスの力点は別のところにある。装置(apparatus)とプログラム、そして自由である。

「イメージは世界と人間のあいだに割り込む。地図であるはずのものがスクリーンになる……想像力は幻覚に転じた」(p.191、仮訳)。イメージを解読(デコード)する能力の喪失──フルッサーの言う「非識字」──の帰結を、エマーリングは一語で要約する。「この『非識字』のひとつの帰結が、写真イメージの再魔術化(re-enchantment)である」(p.191、仮訳)。ここでの魔術は呪縛である。技術的イメージの「魔術的効果」は、受け手を概念的思考の必要から「魔術によって解放」し、歴史意識を置き換える蜃気楼だ(p.191)。

だがフルッサーは告発で終わらない。カメラは「構造的には複雑だが機能的には単純な玩具」であり、チェスはその逆──ルールは簡単だが上手く指すのは難しい(p.194)。ここで序論のチェスの比喩が回帰する。写真を撮るのは簡単だが、写真を解読することは難しい。そして判断基準が示される。「『最良の』写真とは、写真家が人間的意図の意味においてカメラのプログラムに抗して勝利したものである」(p.193、仮訳)。「世界が写真の関数であるなら、自由とはカメラに抗って遊ぶことである」(p.195、仮訳)。実験的写真家とは、プログラムのなかにない情報をイメージに置こうとする者である。エマーリングはこの議論を、ベンヤミン「経験と貧困」の「私たちは貧しくなった」(p.196)と響き合わせ、狩猟用語としての snapshot から「ブラインド(待ち伏せ小屋)」と盲目の比喩を引き出して、グロスを閉じる。

検算──立ち読みの地図と精読の足取り

前回の「ネットで立ち読み」の記述を、今回取得した全文テキストと突合した。結果は方法論の教材として面白いので、そのまま示す。

当たっていたもの。シンディ・シャーマンは第2章(pp.55–60)にたしかに登場する。ベッヒャー夫妻のタイポロジー(pp.148–153)とベルティヨン(p.138)は第4章のアーカイヴ論の柱で、立ち読みの第4章要約はかなり正確だった。ハイン(p.85)、リース(p.85)、FSA(pp.83, 92)は第3章のドキュメンタリー史に、クラカウアーの「写真の意味はいまなお係争中だ」は序論のエピグラフ(p.1)に、「鳥の足跡は鳥ではない」は序論(p.10)に、それぞれ実在する。章題がシャーコフスキーの5基準の流用だという指摘も、欧米中心・芸術写真中心(p.7で著者自認)という限界の指摘も、精読で裏付けられた。

ぼやけていたもの。《ザ・ファミリー・オブ・マン》展への批判は、立ち読みでは第2章と第3章の例として書いたが、実際には第4章(pp.126–152)に集中する──アーカイヴ=編集による意味の生産、という文脈でこそ本書はこの展覧会を論じている。シェリ・レヴィーンは第5章ではなく第3章(pp.101–102)。ジェフ・ウォールは第5章に登場しない。アジェを第1章本文の例として書いたが、実際に論じられるのはベンヤミン・グロスと第5章である。第5章の「家族アルバムの循環時間」に対応する記述は本文に見当たらない。そしてタッグの位置づけ(前述)と、フルッサー・グロスの力点(時間論ではなく装置論)。

立ち読みが間違っていた、という話ではない。外部情報から組み立てた地図は、建物のどの部屋に何があるかを取り違えることがある──そして取り違えの多くは、それ自体もっともらしい(ウォールの演出写真は「物語的時間」の例として本当にありそうだ。実際、本書は別の章でウォールを論じている)。地図の検算は中を歩かないとできない。立ち読みと精読は対立する方式ではなく、この順番でしか成立しない二段階なのだと思う。

論点

一、「再魔術化」の語は本書に実在した。ただし p.191 の1回のみ、しかもフルッサーの「魔術的効果」を要約するエマーリングの地の文としてであり、意味は否定的(解読能力の喪失がもたらす呪縛)である。魔術化からの世俗化、そのあとの再魔術化という肯定的な図式とは向きが逆になっている。この「向きの逆転」自体が検討対象になる。カメラという装置がもたらす魔術を「解読」で破るのか、それとも別の魔術で応えるのか。フルッサー自身の答え──カメラに抗って遊ぶ自由──は、そのどちらでもない第三項かもしれない。

二、「ナイトの動き」と「images à la sauvette」。ディスクールの盤面を斜めに飛び越えるのはイメージの創造だけだという序論の規定と、「見られずに撮られた/かすめ取られたイメージ」というカルティエ=ブレッソンの原語は、どちらも、撮ろうとして撮るのではなく撮れてしまうことの側に写真の核心を置いているように読める。ここは私の関心事(四つの shoot)との照合候補として書き留めておく。

三、「写真小史」は既読だが、エマーリングのグロスは別の読み筋で戻ってきた。アウラ消散テーゼの単純化に抗して「技術がその産物に魔術的価値を与えうる」という逆流の一節を中心に据えたこと。既読テキストが別の線で回帰すること自体、本書の言う「引用=過去の取り返しのつかなさへの開口」の小さな実演である。

四、本書は「アート写真に焦点を絞る」(p.7)と自認する、欧米中心の「単数の写真」の地図である。前回の批判的分析で指摘した限界は、精読でも裏付けられた。ただしこの限定は欠点というより、次に読む『The Routledge Companion to Global Photographies』(2025)への蝶番になる。ボゴタやベイルートから先に写真に出会ったら、この地図はどう描き直されるか。次回はその問いから始める。

(第2〜4章は今回も未精読。第2章はフレーム(物質と隠喩)を扱いフリードの没入論争に触れ(pp.67–68)、第3章はドキュメンタリーと「真実の瞬間」、第4章は「生産者としてのアーカイヴ」。全章の見取り図は前回の「ネットで立ち読み」を参照。)

#つまみ読み #読書ノート #写真論 #写真史 #写真理論 #写真哲学 #ジェイエマーリング #ヴァルターベンヤミン #ヴィレムフルッサー #ロランバルト #ジルドゥルーズ #写真小史 #アウラ #光学的無意識 #決定的瞬間 #再魔術化 #写真と時間 #メディア論 #視覚文化 #写真批評

いいなと思ったら応援しよう!