半田広宣氏追悼~客観世界とは、すでに反転した後の世界である
ヌーソロジー、天岩戸、唯識、聖書構造論をつなぐ
半田広宣氏が亡くなった。
残念である。
私にとって半田広宣という人は、単なるオカルト解釈者ではなかった。
いわゆるスピリチュアル屋でもなかった。
ニューエイジの夢想家でもなかった。
彼は、オコツト情報という、通常なら眉唾、妄想、奇書、怪情報として処理されるものを、物理学、幾何学、哲学、現象学、精神分析、意識論の領域へ引きずり出し、何とか構造として読み解こうとした人だった。
つまり、彼がやっていたことは、オカルトの信仰ではない。
オカルト情報の構造解読だった。
そして私が聖書解釈でやっていることも、実はそこに近い。
私は聖書を信じているのではない。
聖書という情報体を、エヌマ・エリシュ、古事記、唯識、グノーシス、法思想、近代国家、AI文明論と重ね合わせることで、その背後にある構造を読もうとしている。
半田広宣は、オコツト情報を物理学で解凍しようとした。
私は、聖書情報を神話学と法思想で解凍しようとしている。
道具は違う。
対象も違う。
だが、見ている問題はおそらく同じだった。
人類は、外部客観から卒業できるのか。
これである。
量子の謎とは、世界の謎ではなく、観測者の位置の謎である
半田氏の生前最後のnote記事は、「量子の謎は、なぜ解けないのか」というものだった。
そこで彼は、量子力学の謎を、ミクロな粒子の奇妙な振る舞いとしてではなく、人間が「見えの空間」と「説明の空間」を取り違えていることから生じる認識の自己矛盾として読んでいた。
これは重要である。
普通の人間はこう考える。
外に世界がある。
その外界を目が見る。
脳が処理する。
その結果として、私の中に世界像が生まれる。
だが半田は、ここをひっくり返す。
最初にあるのは外界ではない。
最初にあるのは「見え」である。
脳が見えを作っているのではない。
脳の方が、見えの中に現れている。
ここで近代的人間の足場は崩れる。
我々が「客観世界」と呼んでいるものは、最初から外にある世界ではない。
それは、見えが説明空間へと反転された後に成立した世界である。
つまり、
客観世界とは、すでに反転した後の世界である。
ここで私は、日本神話の天岩戸を思い出す。
天岩戸とは、客観世界が起動した神話である
天照大神が岩戸に隠れる。
世界は暗くなる。
神々が集まる。
アメノウズメが踊る。
鏡が置かれる。
天照は、外に何か光り輝く神がいると思い、岩戸から覗く。
そこで自分自身の鏡像を見る。
この瞬間、反転が起きる。
本来、天照は「見え」そのものだった。
光そのものだった。
世界が現れる場そのものだった。
ところが鏡によって、その光は外部対象になる。
主体だったものが、対象になる。
見えそのものだったものが、見られるものになる。
これが天岩戸である。
表層的には、太陽が戻り、世界に光が戻った神話である。
だが深層では逆である。
見えが鏡像化され、客観世界が起動した事件である。
つまり、天岩戸とは、半田広宣が語った「見えの空間」と「説明の空間」の反転を、日本神話が神話的に語ったものではないか。
そしてこの反転は、シッチン小説的なメソポタミア神話の持続として見ると、さらに分かりやすい。
マルドゥクの帰還と、岩戸開き
シッチン小説を、史実の証明としてではなく、神話を持続としてつなぐ中間まとめ文章として読むなら、天岩戸の構造は見えてくる。
ドゥムジを殺したマルドゥクは、イナンナを中心とするエンリル派に追い詰められ、ギザのピラミッドに幽閉される。
しかし、マルドゥクの妻子が命乞いをする。
王権への望みは捨てるという条件で、処刑ではなく追放で済む。
ここで情が入る。
本来なら、マルドゥク的王権はそこで封印されるべきだった。
ところが、完全処理されなかった。
情によって、岩戸は閉じ切られなかった。
数十年後、マルドゥクは帰還する。
そして、単なる野心ではなく、エンキが定めた牡羊座の到来を根拠に、王権、すなわち五十階位を主張する。
ここが問題である。
マルドゥクは、「俺が王になりたい」と言ったのではない。
「時代が来た」と言った。
「天の周期がそう示している」と言った。
「牡羊座が根拠である」と言った。
つまり、自分の欲望を、外部客観へ偽装した。
ここで世界はエヌマ化する。
岩戸が開いた。
封印されたはずの王権が戻った。
情によって開けられた裂け目から、客観法則を名乗る王権が出てきた。
これがエヌマ世界である。
マルドゥク的世界とは、勝者が怪物を倒し、名を得て、階位を得て、中心に座り、制度を作り、人間を労役配管へ組み込む世界である。
つまり、外部客観の世界である。
聖書は、エヌマ世界への反対神話である
ここで聖書が出てくる。
聖書は、単なる一神教の経典ではない。
深層においては、エヌマ世界への反対神話である。
エヌマ世界は、マルドゥク的である。
王権、階位、名、秩序、制度、労役、中心化の世界である。
その対極に、聖書はイナンナ/ドゥムジ的な聖婚・生命・関係性の記憶を置く。
それが、イエスとマグダラのマリアの配置である。
ここで大事なのは、史実として二人が夫婦だったかどうかではない。
そんなことは、制度側の学者が好きに議論していればよい。
問題は、なぜ聖書の深層に、殺された男と、その死と復活に立ち会う女という配置が置かれているのか、である。
イエスは殺される。
マグダラのマリアは、十字架、埋葬、復活の境界に立つ。
彼女は死と復活の「見え」に立ち会う。
これは、イナンナ/ドゥムジの残響である。
だが高きところは、ここをすぐに儀礼化する。
「伴侶」は霊的親密性です。
「接吻」は知恵の伝達です。
「愛された者」は弟子としての優位性です。
「女の証言」は象徴です。
「聖婚」は秘儀です。
笑うしかない。
軽蔑を込めて。
生命の事件を、制度が扱える儀礼語へ変換する。
これが高きところの仕事である。
だが、それこそ偶像崇拝である。
儀礼とは、制度側の本音の目的関数の暴露である
儀礼とは、神聖なものではない。
生命の事件を、制度が管理可能な形式へ変換する装置である。
生命がある。
関係性がある。
喪失がある。
愛がある。
性がある。
死と復活がある。
それをそのまま扱うと、制度はいらなくなる。
祭司もいらない。
教会もいらない。
学者もいらない。
解釈権者もいらない。
儀礼管理者もいらない。
だから制度は、生命を儀礼へ変える。
接吻を知恵の伝達にする。
伴侶を霊的親密性にする。
女を象徴にする。
男の死を贖罪教義にする。
復活を教会の所有物にする。
これが偶像崇拝である。
偶像崇拝とは、木や石を拝むことではない。
本来、生きた関係性だったものを、外部化された形式へ置き換え、その形式に従わせることである。
つまり、儀礼とは制度側の本音の目的関数の暴露である。
彼らは生命を理解したいのではない。
生命を管理したいのだ。
彼らは神を守りたいのではない。
神との直接接続を妨害したいのだ。
彼らはマリアを理解しているのではない。
マリアを象徴に変えて、もう一度殺しているのだ。
持続の中に自分がいるのであって、自分の中に持続があるのではない
半田氏の最後のYouTubeでの語りも、非常に重要である。
彼はそこで、現在中心の三次元的な認識を批判した。
人間は現在に生きていると思っている。
現在が大事だと思っている。
現在を追いかけている。
だが、それは逆だ、と。
現在が過去を見ているのではない。
過去から現在が見られている。
しかもその過去は、単なる昔の出来事ではない。
「決して現在になったことがない過去」である。
ドゥルーズのいう純粋過去であり、ベルクソン的な持続である。
そして半田は言う。
持続の中に自分がいるのであって、自分の中に持続があるんじゃない。
これは、ほとんど唯識である。
末那識は、阿頼耶識を観る。
そして、その阿頼耶識の断片を見て、これが自我だ、と勘違いする。
本当は、阿頼耶識の中に自我がある。
持続の中に現在がある。
深層記憶の中に、個人という仮構が浮かんでいる。
ところが末那識は、それを逆に読む。
私の中に記憶がある。
私の中に過去がある。
私の中に心がある。
私の中に世界経験がある。
これが誤認である。
つまり、末那識とは、阿頼耶識を見て「私」と誤認する反転装置である。
近代的人間とは、その誤認を文明規模に拡大した存在である。
外部客観とは、その誤認が制度化された世界である。
ここで、半田広宣のヌーソロジーと唯識、そして私の聖書構造論はつながる。
半田は、三次元現在中心の人間を疑った。
私は、外部客観に従う文明を疑う。
唯識は、末那識の自我誤認を疑う。
全部同じ問題である。
神話は、単体で読むと誤認を生む
ここで神話の問題に戻る。
神話はストーリーである。
ストーリーである以上、主人公がいる。
敵がいる。
勝敗がある。
善悪がある。
因果がある。
救済がある。
すると末那識は、すぐにそれを掴む。
この神が正しい。
この物語が真実だ。
この教義に従えばよい。
この主人公が救い主だ。
この敵を倒せばよい。
これが誤認である。
神話は、本来、阿頼耶識の構造を物語形式に圧縮したものである。
ところが単体で読むと、末那識は物語内のキャラクターを実体視する。
エヌマだけ読めば、マルドゥク信仰になる。
聖書だけ読めば、外部人格神信仰になる。
古事記だけ読めば、皇統神話になる。
仏教だけ読めば、宗派になる。
グノーシスだけ読めば、秘教になる。
ヌーソロジーだけ読めば、体系信仰になる。
だから単体では駄目なのだ。
神話は重ねなければならない。
世界各地の神話や形而上学が韻を踏んでいるのは、そのためである。
構造は、一つの物語の中には出ない。
複数の神話のあいだに出る。
対応として出る。
反復として出る。
ズレとして出る。
神名の違い、配置の違い、機能の分解と合成の違いとして出る。
神話を信じる者は、神話に閉じ込められる。
神話を重ねる者は、神話を生んだ構造を見る。
その構造こそ、阿頼耶識である。
古事記は、神話のミタマを機能分類した本である
ここで古事記の特殊性が見える。
古事記は、他地域の神話とは作りが異なる。
エヌマは、機能をマルドゥクへ集中させる。
王権、命名、秩序形成、勝利、階位、人間労役化が、マルドゥクへ回収される。
聖書は、神、契約、律法、預言、メシア、教会、黙示録という形で、外部客観の発生と成就を語る。
だが古事記は違う。
古事記は、神話の主人公たちを、そのまま人格として信じさせるよりも、むしろミタマ、すなわち機能ごとに分解・配置しているように見える。
アマテラスは、太陽主権であり、見えの場であり、鏡によって外部化される光である。
スサノヲは、荒ぶる力であり、追放者であり、海であり、嵐であり、出雲へ降りる反中央の力である。
ツクヨミは、月、夜、時間、沈黙の秩序である。
イザナギとイザナミは、生成と死、国生みと黄泉、境界と禊である。
オオクニヌシは、国造り、関係性、医薬、縁結び、地下化された主権である。
アメノウズメは、踊り、笑い、性、場の起動、岩戸開きの関係性操作である。
つまり古事記は、神々を「誰か」として読むより、「何の働きか」として読むべき文書である。
これは、神話による末那識の誤認を避けるための編集だったのではないか。
一柱の神にすべてを集中させれば、マルドゥクになる。
一つの教義にすべてを集中させれば、教会になる。
一つの法にすべてを集中させれば、国家になる。
一つの体系にすべてを集中させれば、偶像崇拝になる。
だから古事記は、機能を分けた。
太陽主権。
荒ぶる力。
地下主権。
死と黄泉。
禊と再生成。
祭祀起動。
武力交渉。
國譲り。
これを分配した。
古事記とは、阿頼耶識の深層神話記憶を、末那識が人格神として誤認しないように、ミタマ=機能へ分解して配置した神話編集装置である。
そう読める。
半田広宣は、物理学側から天岩戸を開け直そうとした
半田広宣がやっていたことは、まさにこの反転の認識だったと思う。
彼は量子論を、ミクロ物理の謎としてではなく、見えと説明空間の反転として読んだ。
彼は現在を、意識の表面的な流れとして見た。
彼は三次元ゲシュタルトを、一時期のブームに過ぎないと言った。
彼は近代的人間の終わりを見ていた。
彼は、持続の中に自分がいる、と言った。
つまり彼は、天岩戸以後の客観世界を、物理学側から疑っていた。
そして、近代が長く続かないことも見ていた。
自由、平等、博愛。
啓蒙思想。
科学。
医学。
資本主義的家族。
男と女の共同体。
三次元現在中心の人間。
これらは、すでに崩れている。
AIの登場によって、それはさらに明らかになった。
人間という存在そのものが、永遠の主体ではなく、一時期のブームに過ぎなかったのではないか。
三次元の客観世界を絶対視する認識形式そのものが、歴史上の一時的な流行に過ぎなかったのではないか。
半田は、そう見ていた。
これは、ヌーソロジー版の黙示録である。
世界の終わりではない。
三次元現在中心の人間というブームの終わりである。
追悼とは、彼を偶像にしないことである
だから、半田広宣氏を追悼するということは、彼を聖人化することではない。
ヌーソロジーを教義化することでもない。
彼の言葉を儀礼化することでもない。
彼の体系を偶像にすることでもない。
そんなことをすれば、それこそ高きところの作法である。
半田広宣を追悼するとは、彼が最後まで見ようとしていた反転を見ることである。
外界が先ではない。
見えが先である。
現在が先ではない。
持続が先である。
自分の中に記憶があるのではない。
持続の中に自分がいる。
人間が神話を読んでいるのではない。
神話が人間を読んでいる。
客観世界が現実なのではない。
客観世界とは、すでに反転した後の世界である。
そして、その反転を神話的に語ったものが天岩戸であり、制度的に語ったものがエヌマであり、反対神話として語ったものが聖書であり、機能分類として編集したものが古事記であり、認識論として語ったものがヌーソロジーであり、心識論として語ったものが唯識である。
ここまで来ると、半田広宣の死は、単なる思想家の死ではない。
彼は、最後に「持続」を語り、「死が生を観察している」と語り、「人間というブームの終わり」を語り、そして去った。
出来すぎている。
だが、持続の側から見れば、そういうこともあるのだろう。
私たちは現在に生きていると思っている。
だが、本当は現在が見られている。
死から。
持続から。
阿頼耶識から。
神話から。
黙示録から。
半田広宣は、その視線の方向を、物理学とヌーソロジーで示そうとした。
私は、それを聖書、古事記、エヌマ、唯識で読み直す。
追悼とは、花を置くことではない。
言葉を飾ることでもない。
彼が見ていた反転を、自分の場所で引き受けることである。
半田広宣氏に、敬意を表する。
そして、こう言っておきたい。
客観世界とは、すでに反転した後の世界である。
天岩戸は、まだ閉じていない。
いや、正確には、我々はいまようやく、岩戸が何だったのかを思い出し始めている。
