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短編ミステリー「ホワイトキューブの悪魔」 第2話

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「成河眞維子様ですね?」
 呼ばれた眞維子は反射的に肩を震わせ、何でもない風に「はい」と答えた。
 声の主は彼女と同じくらい、二〇代後半といった年の頃の男。細身で背は高くないが、肩のラインが真っ直ぐで、皺ひとつない白いシャツと黒のベストがよく似合っている。
 見知った顔だ。ヤスミンの代理人、風間辰樹である。
「お久しぶりです。風間さん」
「お久しぶりです。といっても、先日の展示でお会いしましたよね」
 自身の存在が認知されていることを確かめ、眞維子は優越感に浸った。
「ですね。実はわたし、この個展にも一昨日来たばかりなんですが」
「そうでしたか。それは失礼しました」
「いえいえ。そのときはお会いしませんでしたし、いつもの芳名帳もありませんでしたから、わかりませんよね」
「なにぶん大きな会場ですからね。……実は、今回当選された方は成河様のような常連さんばかりで、ヤスミンも私もほっとしているんです。SNS上などに軽々しく情報を流される心配はなさそうですから」
「ヤスミンさん本人は今どうされているんですか? ……会場にいらっしゃるに決まってますね。すみません」
「いやそれが、ふらっと散歩に出かけてしまったんです。おかげで、会場や機材の最終チェックを私ひとりでやる羽目になりました」
「ひとり? スタッフくらい他にもいるでしょう。この美術館の職員さんとか」
「今日だけは誰もいないんです。ヤスミンの姿を見ていいのは当選者の皆様だけですから」
 風間は思い出したように「あ」と声を上げた。「ですので、ここでスマートフォンやカメラを預からせていただけないでしょうか。皆様を疑うわけではありませんが、念のため」
 不安を覚えつつも、眞維子は大人しくスマートフォンを差し出した。
「ありがとうございます。それに実は、私自身がここの職員なんです。無理を言って今日一日、地下展示室を好きに使わせてもらう許可を得たというわけで」
 ……代理人が美術館の職員?
 眞維子は控えめに眉を寄せた。羨ましい限りだ。
 とはいえ美術館の事務職員や学芸員の知り合いくらい自分にもいるし、いち若手職員にどれだけの権限があるだろう。結局のところ、今回の個展開催がヤスミンの実力と実績の賜物であることに変わりはないのだと、僻む気持ちを飲み込んだ。

 風間に案内され、地下へと続く階段を降りていく。
 個展会場たる地下展示室は、主に公募団体の貸し切り展示が行われる場だ。地上階とはバックヤード経由でしか行き来できない、ほぼ独立した施設である。マスコミ各社の後援による特別展が開催されるメイン会場は地上階にあり、すなわち地下展示室での個展の価値は地上階のそれよりも数段劣る。
 ……そのはずが、ヤスミンの個展は特別展同然の話題性をもって世間に広まっていた。セルフプロデュース力にも長けていることが、現代における人気作家の必須条件なのだ。

 会場手前のロビーで風間と別れた眞維子は、すぐさまヤスミンの作品世界に包まれることを期待しつつ、ひとり第一展示室へと足を踏み入れた。しかしその期待は裏切られる。
 展示の代わりに彼女を出迎えたのは、広大なホワイトキューブと三人の先客だった。
 手前にいるのは三〇歳くらいの男だ。ウエリントン型のごつい黒縁眼鏡を掛け、肩幅は合っているのに腹周りはぶかぶかな、安っぽい青のチェックシャツを着用している。その奥には白の頭髪をふわりと立て、上質そうな紫のワンピースに身を包む老婦人。そのまた奥に、短い金髪を剃り込みにし、英国紳士じみたコーデュロイのブラウンスーツを、どうやってか下品に着こなしている中年の男。
 スーツの男だけは見知っている。上津こうづ晴臣はるおみ。大規模なグループ展で高額な出展料を集めては、飲み会で出展作家に胡麻をすらせるのが趣味の、いけ好かないギャラリストだ。知人の紹介で眞維子も一度グループ展に参加したが、不愉快な思いをした上作品が売れる気配もなかったので、以後の付き合いを断っていた。

『皆様、お待たせいたしました』
 天井のスピーカーから風間の声が響く。
『申し訳ありませんが、もう少しだけお待ち願えますか。五分ほど経ちましたら隣の第二展示室へ移ってください。その際、最後の方は扉を閉めるようお願いします』
「はあ。自分達で時計を見て、勝手に隣へ移動しろって? 案内も何もないんですか」
『申し訳ございません、赤井坂あかいさか様。準備に手間取っておりまして……しかも、他にスタッフがおりませんもので』
「作家本人がいるでしょうに」
 赤井坂と呼ばれたチェックシャツの男が、不満げに鼻を鳴らした。直後に老婦人が小さく首を傾げ、「風間さん。こちらの声が聞こえていらっしゃるの?」と、天井に向けて尋ねる。
『この管理事務室から地下展示室の様子が把握できるよう、簡易的なカメラとマイクを設置しております。本日の催しを私とヤスミンのみで回すためですので、ご了承ください』
「監視されているようで何だか不気味ですな。高柳たかやなぎさん」
上津が媚びるような声色で囁いた。しかし老婦人――高柳というらしい――は特段気分を害した様子もなく、「そう?」と不思議そうに言うばかり。
 眞維子は訝しく思う。……高柳はともかく赤井坂や上津の態度は、ヤスミンのファンのものには思えない。作家本人ではなく風間のことがいけ好かないだけかもしれないが。

 手持ち無沙汰に五分を過ごした後、率先して第二展示室に向かった。
 鑑賞者としても公募展の出展者としても、この地下展示室には何度か訪れたことがある。それゆえの義務感のようなものがあり、スタッフでもないのに三人を先導し、開けた扉を自ら支えた。
 高柳と上津は当然のようにすたすた入室していき、最後に下手な作り笑いを浮かべた赤井坂が「すみませんね。閉めるのは僕がやりますよ」と、さほど嬉しくない申し出をする。
 ともあれ眞維子は言われるがまま手を離し、ようやく念願の展示会場に辿り着いた。

 第二展示室に足を踏み入れた途端、世界が一変したような感覚を覚えた。画家本人でもないくせに、背後の赤井坂の反応を窺ってみたい気分になる。
 室内の様子は、一言で表すなら中世の魔女の部屋。
 前方の展示部分を照らす照明はやや紫がかっていて、言い知れぬ不安感をかき立てる。床にはランダムな形の石材が――いや、そう見えるよう描かれたフロアシートが敷かれている。手描きではなく印刷だということくらい理解していたが、それでも一瞬、踏みしめるのを躊躇した。
 視線を上げれば、壁にも同じ質感の、より整然と並んだ石材が描かれている。それ自体見事な出来ではあったが、注目すべきはそれよりも、石造りの背景に思いがけないほど馴染んでいる室内装飾品だ。豪華な装飾の鏡、さらには、重厚感ある金の額縁に彩られたヤスミンの絵画作品。 
 絵画だけではなかった。木製の重量感あるテーブルや暖炉を模した大道具の上には、石や銅の彫刻作品がひっそりと並べられている。すぐ近くにキャプションは見当たらない。
 もったいないという感想を、眞維子は密かに飲み込んだ。寺社仏閣の例にあるように、元ある場や目的に応じて作られ、鑑賞されるのが美術作品の本来の姿であったはず。現実的に考えれば、作品が飾られた際の印象を明確にイメージさせることは、現代アート作品の販売戦略として有効でもある。
 然るにそうした背景に理解のある彼女が、それでもなおこの展示に難癖をつけるならば、その観点はひとつしかなかった。
 ……この展示は、昨年の冬に浅草のホールで見たものと同じなのだ。照明は今回の方が随分明るいようだが。
 つまり、主役となる作品も同じである。
 奥の壁に目をやると、そこには目測でF一〇〇号――一六二×一三〇センチ程度の絵画が飾られていた。

 その画面の中、もといカンヴァスの向こうに広がる世界には、ひとりの女がいる。
 ペインティングナイフで描かれたと思しき背景の直線的な絵肌には、一切の迷いがない。モノトーンで構成されているにもかかわらず、濁りがないどころか透明感すらたたえる画面からは、絵具をいたずらに混ぜすぎない、豪胆な作家の気性が伝わってくる。
 一方で女の体のラインや、簡素な黒いローブの立体感は、筆による滑らかな描線で躍り出さんばかりに流麗に描かれていた。しかし女の表情は静謐そのもので、色白の肌をざっくりと裂く眦、そこから覗く黒い瞳には、鳥肌が立つような冷たさがある。
 つまるところ、美しかった。描かれた女も、作品の全容も。
 眞維子にとって初見の作品ではない。初めて見たときの記憶はきちんと保持している。にもかかわらず、息ができないほど目を奪われた。妬み嫉みにまみれた心を、その眼光に非難されているかの如く錯覚する。絵画の一部でしかないその女に、魂を吸われる思いがした。いつしか足が自然と前を向く。
 すると、視覚に脳のキャパシティを奪われて何も聞こえなかったはずの耳に、突如重厚な音が突き刺さった。
 クラシック音楽としか、音楽に関心のない眞維子には分からない。穏やかかつ全身に響き渡る、幾重にも重なった音。それは次第にテンポを上げていく。低音のハーモニーが床から足を通って脳天へと突き抜ける。もっと近くへ。そんな脳の命令とは裏腹に、いつしか歩みが止まった。
 音楽の停止とともに、眞維子の足も真下の床へと釘付けになる。一瞬視界に入った高柳や上津も同じようにしていた。美しいものの前で人はみな同じ反応をするのだ。

 眞維子は今更、あるものに気づいた。それは女の絵の脇に置かれた石造りの――ではなくそれを模した――高さ三メートルほどの階段。以前の展示にもあったが、今この場では異なる意味合いを持つ。一体誰がこれを上るというのだ?
 見計らったようにまた音楽が流れ、階段の上部に人影が現れた。身を低くして潜んでいたのかと得心する前に、叫びが喉をついて出かける。
 ……まさか本当に? この演出下で現れる人物など、ヤスミン以外あり得ないではないか。

 影はすぐに、絵の女と瓜二つの形を成した。スポットライトを絶妙な角度で浴び、人間らしい表情や凹凸を失って立つ姿は、静謐という言葉を擬人化したようだ。その切れ上がった、大胆な化粧に彩られた視線は天井あるいは空に向けられていて、目に映るのは横顔とかすかに光る耳元のみ。
 なのにその、こちらを見もしない瞳に、眞維子の心はどうしようもなく惹きつけられた。つい身を震わせ、それから確信した。あのヤスミンが確かに目の前にいると。
 眞維子が久方ぶりの瞬きをしようとしたとき、ヤスミン――少なくとも彼女はそう信じている――は、薄い唇を僅かに曲げた。微笑んだのだ、天を見上げたまま。
 その瞬間、芸術作品は生命の輝きを得た。自分は生きた人間であると証明した。
 直視できずに思わず俯く。高鳴る鼓動を抑えようと努めたが、心臓は言うことをきかない。半ば無意識のうちに、あの神秘的な存在をもう一度見ようと顔を上げる。
 だがその願いが叶うことはなかった。

 ぶつん。
 ……照明が落ち、光の差さない地下展示室は一瞬にして闇に包まれる。

 トラブルかと思い、暗闇の中無意味に視線を巡らせた眞維子だが、やがて新たなBGMがフェードインするように始まったことで、そういう演出なのだと思い直す。
 少しずつ音量を上げていくBGMに煽られながら、眞維子は世界が再び美しさに支配されるのを心待ちにした。病的な熱に浮かされ、ヤスミンへの種々の不健全な感情も、自身の未来への不安も何もかも忘れかけていた。

 しかし熱は急速に冷まされる。
 何かがぶつかるような、あるいは誰かが暴れるような物音が耳に入り、微かな振動を靴底に感じた。この暗闇の中、セットの移動か衣装替えでも行っているのだろうか? 鑑賞者に展示の裏側を悟らせるとはお粗末な。
 勝手に失望感を抱いていたところ、物音どころではない轟音が響いた。何か重いものが、高いところから落下するような……
「おい。何だ、今の音は」
 上津が大きな声を上げるが、「ミスじゃないの。見逃してあげなさいよ」と高柳に諭され、素直に引き下がる。彼は高柳に頭が上がらないらしい。
 その後には発言しづらく、ますます音量を上げるBGMの中、眞維子は照明が点くのをただ待った。胸を満たしていた期待が、不安に上塗りされていくのを感じながら。 
 
 永遠とも思える数分間を暗闇の中で過ごした頃、照明が再び点灯する。
 眼前に広がる異状あるいは惨状を、理解するにはしばしの時間を要した。明るさへの順応に手間取ったためではない。視神経を通して確かに受け取ったはずの視覚情報を、脳が正しく認識できなかったのだ。
 そのうち男の悲鳴が上がる。上津の声だ。それで現実に引き戻され、眞維子は遅れて、自身の喉から飛び出す叫び声を聞いた。 
 階段の真下に女が倒れていた。目を見開いて、頭から血を流し、睡眠時とは明らかに異なる非合理な姿勢で。
 倒れていた? 違う。その状態を表すのにより適切な言葉を、眞維子は既に見つけている。あの締まりのない表情に生気のない肌色、間違いない。しかし口に出すのは憚られた。

 ……絵の女が死んでいる、だなんて。


次話
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