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短編ミステリー「ホワイトキューブの悪魔」 第3話

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「う、うわ。いったい何が起きたんです?」
 赤井坂が上ずった声で言って、横たわる女に駆け寄った。
「救急車を呼ばないと」
 比較的落ち着いた様子の高柳がそう呟くと、同意した上津が上着のポケットに手を突っ込み、「あっ」と間抜けな声を漏らした。スマートフォンを没収されたことを忘れていたらしい。
「代理人、緊急事態だ。この部屋の声も聞こえてるんだろ? 早く救急車を呼べ」
 天井に向けて叫ぶも、返事はない。盛大に舌打ちして部屋を飛び出そうとした上津を、赤井坂が引き留めた。
「待ってください。実は僕、医者なんです」
「あんたが? 本当かよ」
 赤井坂は女の傍にしゃがみ込み、呼吸や脈拍の有無、瞳の様子を確認するような仕草をしてから、頭部にそっと触れた。そこで未だ鳴り続けていたBGMが不穏な転調を遂げ、見計らったかのようなタイミングで告げる。
「既に亡くなっています。側頭部にひどい陥没骨折の跡がありますね。これが致命傷かと」
 赤井坂の視線が動いた。その先には例の階段。
「あの高さの階段をうっかり転がり落ちたとして、こうはならないと思います。……恐らくは誰かに殺されたのでしょう」
 唾を飲み込む音が聞こえた。他の誰かのものだと思ったが、眞維子自身のものだったかもしれない。

 ……訳が分からない。絵の女が、この部屋で何者かに殺された? 暗闇の中でいったい何が起きたというのだ。
 パニックに陥りかけた眞維子の耳に、スピーカー越しの風間の声が届く。
『ヤスミンが……殺された、ですって?』
「やっと出てきたか。あんた今まで何してたんだ」
 眞維子は上津の声に被せて問うた。「待ってください風間さん。ヤスミンと言いましたか? やっぱりあの、死んだ女性がヤスミンなんですか」
「ちょっと。今はそんな話をしている場合じゃないですよ。……あの、風間さん。救急車より警察を呼んだ方がいいと思います」
 赤井坂に口を挟まれ、回答を得られなかった眞維子は少しむっとする。しかし正しいのは間違いなく彼のほうだと納得し、それ以上問い詰めるのは控えた。

 しばし呆然としていたのか、やや経ってから再び風間の声がした。
『今から警察を呼びます。皆様はひとまず、第一展示室に戻ってお待ちください』
「はあ? ここじゃ駄目なのか」
「犯行現場で余計な動きをするな、ってことじゃないんですか。僕達……いや、あなた達の中に殺人犯がいるかもしれないわけですし」
「あなた達? 他人事みたいに言うなよ」
 上津と赤井坂が険悪な雰囲気になりかけたところで、高柳が「何にせよ、ご遺体のそばにいるのは落ち着かないわ」と静かに言った。
 途端に上津が第二展示室を出ていき、結局は一同、その後に続いて第一展示室へ向かうことになった。

「兄ちゃん、あんた本当に医者なのか?」
「嘘なんかついてどうするんですか。本当ですって」
「だったら医師免許でも見せてくれよ」
「見せろったって、あれは持ち歩くものじゃないんです。運転免許証とは違いますから」
 第一展示室に着くなり、上津が赤井坂に突っかかる。
「怪しいな。この状況で、当選者の中に偶然医者が紛れてるなんてことがあるか? 俺はギャラリストで、あのご婦人……高柳さんはコレクターだぞ」
「愛好家に職業は関係ないでしょう。というか、コレクターって職業じゃないですし。それに美術作品の購買層として、病院一般にはそこそこの存在感があるはずですよ」
「それはそうだが、俺から見ればあんたとそこのお嬢さんが怪しいんだよ」
 突如矛先を向けられ、眞維子は驚きと同時に苛立ちを感じた。過去のグループ展の出展作家を覚えていないらしい上津にも、彼に覚えられていない自分自身にも。
「俺は当然やってない。高柳さんは信頼できる方だ。なら、あんた達二人のどちらかが殺人犯の可能性が高いだろ」
「見た目でいえば、あなたのほうがよほど怪しいですよ。あのご婦人が知り合いだからって何なんです? むしろ、味方は多いほうがやりやすいと思いますけど」
「二人とも、少し落ち着いたほうがいいわ」
 口論を始めた上津と赤井坂を、高柳が妙な冷静さを保ちつつ諫める。
 張り詰めた空気の中、眞維子もまた平静を取り戻す。そしてある可能性を考えた。
 ……死んだ女は本当にヤスミンなのか?
 風間は確かにそう言っていた。女があの大作のモデルであることは間違いないし、ヤスミンの姿のお披露目を題目とするイベントで、全くの別人が大仰に登場するとは思えない。そもそも眞維子はかねてより、あの絵のモデルがヤスミン本人である可能性を考えていたのである。
 しかし、もしも……
『皆様、またも大変お待たせいたしました』
 風間の声を聞き、上津が「遅えよ」と悪態をついた。その表情はどこか安堵しているようにも見えたが、次の瞬間、凍りつくことになる。

『彼女は確かに死んでいました。……殺したのはあなたですね』
 場違いなまでに平坦な風間辰樹の声が、茫漠たるホワイトキューブに響き渡った。
『ほら、あなたには彼女を殺す理由があるでしょう?』
 四人の男女は順繰りに顔を見合わせる。誰もが同じ疑問を持っていた。
 ……あなたとは誰のことだ?

 眞維子は突如、全身の毛穴がさっと開く感覚を覚えた。あるいは汗腺から冷や汗が産出される感覚かもしれない。風間は自分のことを言っているに違いないと思ったのだ。
 ……あの暗闇の中、創作の源たる頭を殴りつけて彼女を殺害したのはあなたでしょう? 知っているんですよ。あなたが醜い嫉妬心を持ちながら、熱心なファンを装ってヤスミンに粘着していたことくらい。
 そんな風に吊るし上げられた気がした。それが事実でないことは、眞維子自身が最もよく分かっているわけだが。
「あなたって、いったい誰のことを言っているんですか」
 赤井坂が鼻の頭の脂汗を拭いつつ尋ねる。
『さあ。それを知りたいのは私のほうです』
「何だそれ。あんたさっき、あなたには彼女を殺す理由がある、とか言ってただろ」
 続いて発言した上津も、赤井坂と同じく妙に動揺しているように見えた。
『ですから……あなた方は皆、ヤスミンに対する屈折した感情を抱えていらっしゃるはずですよね。私が聞きたいのは、それを殺人の動機へと昇華させてしまったのは誰なのかということです』
「誤解です。僕にはそんな感情も動機もありません」
 赤井坂が両手をぶんぶん振って否定すると、スピーカーから大袈裟なため息の音がした。
『赤井坂慶史けいじ様。確か、横浜市内の病院に勤められているお医者様でしたね。三年前より欠かさず、ヤスミンの展示にお越しくださっています。しかし昨年……』
 風間はそこで言葉を切り、ふ、と含みのある笑いを漏らした。
「ちょっと。やめてください」
 困惑ぎみに話を聞いていた赤井坂が、慌てて口を挟んだ。すぐに「勤め先なんて個人情報ですよ。漏らされちゃ困ります」と、取り繕うように付け足す。
「兄ちゃん、本当に医者だったのか。去年いったい何があったんだ?」
「聞かないでください。このまま暴露大会が始まってもいいんですか? 風間さんの口ぶりからすると、あなたにも何かネタがあるわけでしょう」
 からかうような笑みを浮かべていた上津だが、言い返されるとすぐに表情を引き締めた。図星のようだ。
『失礼。思えば、殺人犯以外の方の恥まで晒すのは人道に外れますよね。やめておきます』
 風間が嫌味ったらしく言ったが、眞維子の耳にはろくに聞こえていなかった。

 ……皆が揃いも揃って、ヤスミンへの屈折した感情を抱いている? 自分達は無作為に選ばれた四人ではなかったのか。
 ならば誰の作為で、何故そんな人間ばかりが集められたのか?
『赤井坂慶史様。上津晴臣様。高柳千歳ちとせ様。成河眞維子様。……彼女を殺した犯人は、あなた方四人の中にいるはずです。できれば今すぐ名乗り出てください』
「何言ってんだ」
「名乗り出るわけがないでしょう」
 先ほどまでやり合っていた上津と赤井坂が、ほとんど同時に言った。
『なら、皆様の手で見つけ出してください。自分達の中に潜む殺人犯を……そして私に突き出してください。それまで誰ひとり、美術館の外には出せません』
「何を馬鹿なこと言ってるんですか。そんなの警察の仕事ですよ」
 赤井坂が勢いよく展示室の入口に向き直った。そのまま、だぼついたシャツの布地を揺らしてずかずか歩いていく。
 しかし展示室の外に出て三〇秒もしないうちに、なぜか戻ってきてしまった。
「どうしたんですか?」
 眞維子が尋ねると、赤井坂はきょとんとした顔で言った。
「出られませんでした。出入り口前に、壁かシャッターみたいなものが下りていて」
『防犯シャッターですね。私が閉めました』
 上津が「は?」と素っ頓狂な声を上げる。
『他の出口を探しても無駄ですよ。地下には展示会場だけでなく、貴重品の収蔵室もございます。ですから盗難が起きた際、犯人を逃さないための仕組みが整っているのです』
 眞維子は思わずバッグに手を入れた。
『あ。お忘れではないと思いますが、皆様のスマートフォンは今、私の手元にあります。観念して第二展示室に戻り、捜査ごっこに興じていただけませんか』
「ふざけるな。そんな遊びに付き合えるか」
「こんな脅迫めいたことをしては、あなたが何かの罪に問われるのではないの? 何にせよ付き合う義理はないわ。そのうち、外の誰かが事態に気づくでしょうし」
 上津のわめきに、高柳の冷静な意見が続く。
『ごもっともですね。関係のない方にとっては、これがくだらない遊びに思えるというのも理解できます』
 これまで淡々としていた風間の声が、わずかに震えた。
『こちらの事情に巻き込んで申し訳ございませんが……殺された彼女と私は、単なる画家と代理人の関係ではありません。私にとって彼女はひとりきりの大切な女性でした。そんな彼女を殺した犯人が暴かれる様を、何としてもこの目で見たいのです』
「え? 恋人ってことか。そりゃ気の毒」と、上津が同情の言葉を述べかけて、続く音声に遮られる。
『それが叶わないようであれば、仕方ありませんね。……展示資材のうち、よく燃える素材のものを集めておこうかと思います』
 眞維子は頭の中で風間の台詞を反芻したが、なかなか意図を理解できなかった。というより、自分の解釈が信じられなかった。
「えっと。犯人が分からないままなら、展示資材に火をつけて全員まとめて燃やしてやるぞ、ってことですか?」
 そんな馬鹿な、と言い捨てるのは簡単だ。しかしどうにも馬鹿にできないだけの真剣さが、風間の口調にはあった。
「さすがに曲解でしょう。やるわけないし、はったりにしてもお粗末すぎますし」
 ここにいない風間の表情を窺うように、赤井坂がちらりと天井を見た。
『いえ、正解ですよ』
 返答はたった一言。異様な沈黙が場を支配した。

 ……恐らく誰も風間の言葉を信じてなどいない。一方で、全くの冗談だと切り捨てることもできずにいる。そう察した眞維子は、次に発言する誰かの言葉が、自分達の行動を左右することになると感じていた。
 そして覚悟を決め、口を開く。
「あの、皆さん。わたし……疑問に思っていることがあるんです」
 三人の視線が一斉に彼女へ向いた。
「殺された女性は本当にヤスミンだったんでしょうか?」
「そうなんじゃない?」
「さっき代理人がそう言ってたろ」
 高柳は不思議そうに首を傾げ、上津は呆れた風に頭を掻きながら言った。
「ええ。風間さんがそう言っただけですね」
「どういうことですか。あんまりあの人の神経を逆撫でしないでくださいよ」と、赤井坂が眉を寄せる。
「この状況、訳が分かりませんよね。分かっているのは女性がひとり殺され、わたし達が犯人として疑われているということくらい。でも、疑われるべきは私達だけでしょうか? よくよく考えてみれば風間さんだって怪しいし、仮に殺されたのがヤスミンじゃなく他の誰かだったなら、ヤスミン本人こそ怪しいですよね」
「僕の忠告、聞いてました? そのくらいにしないと火をつけられちゃいますって」
『構いませんよ。少し聞き捨てなりませんが、捜査ごっこの端緒を切ってくださるなら許容します』
 思いの外穏やかな風間の声に、眞維子は確信する。彼は間違いなく冷静だと。では何故妙な脅しをかけてまで、こんな馬鹿馬鹿しいごっこ遊びを持ち掛けてきたのか……その理由を知りたくてならなかった。
「皆さん、ヤスミンに何か思うところがおありなんですよね? わたしもです」
 三人は否定も肯定もしなかった。
「だったらこの遊びに乗ることで、鼻をあかしてやりませんか。ヤスミンが何か企んでいるなら、捜査ごっこの中で暴いてやればいい。本当にただの被害者だったなら、犯人を見つけることで、わたし達はヤスミンの恩人になれますよね。その場合、本人は既に亡くなっているわけですが」

「不謹慎ながら、面白い考え方ではありますね。彼の思う壺のような気もしますが」
 赤井坂がやや賛同の姿勢を見せる。眞維子はここぞとばかりに猫撫で声を出した。
「じゃ、手伝ってくれたら嬉しいです。赤井坂さんでしたよね? 初め死体を検分されていたとき、凄く頼もしかったですよ」
「そりゃどうも。……ま、いいか。閉じ込められた上手元にスマートフォンがないんじゃ、他にやれることもないですしね」
「確かにそうね。どうせ待つしかないなら……」
 高柳の口元が動くのを見てか、上津も「まあ」と、了承に近い相槌を打った。

 こうして、眞維子は図らずも風間の思い通りに場を誘導することとなる。
 すぐに死体のある第二展示室へと向かい、今度は一番に足を踏み入れた。


次話
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