ルミナール戦記 外伝―救済という名の呪い―第7話「雨の気配」

救うたびに、私は人間から遠ざかっていく。
前回のお話
第7話「雨の気配」
雨は、本来——洗い流すものだ。
だが、雨は、まだ降っていなかった。
セラフィール港の朝。空は低く、灰色だった。
潮の匂いに、別の匂いが混じり始めていた。
湿った石畳。濡れる前の土の匂い。
そして遠くから近づいてくる、何か。
メイサは窓辺に立っていた。
彼女のいるこの部屋は、表向きは「特別待遇室」と呼ばれていた。
だが、扉は外から施錠され、四隅には生体監視装置が埋め込まれ、窓には鉄格子が走っていた。
寝台は清潔だった。食事は定時に運ばれた。
軍服は毎朝、洗いたてのものに替えられた。
だが、彼女の意思で扉を開けることは、できなかった。
ネクシア連邦軍大佐の格に相応しい、優遇された一室。
そして、出ることを許されない、一室。
メイサは、ここを独房と呼んでいた。
誰に教わったわけでもない。ただ、自分の身体が、そう呼ぶのが正しいと、知っていた。
鉄格子の向こうに、空があった。
雨雲がゆっくりと流れていた。
彼女は鉄格子に、軽く指を触れた。
鉄が、一瞬、青く光った。指先から漏れた、ごく微弱なプラズマだった。鉄格子の表面に、彼女の指紋の形に、薄く、焦げ目が残った。
彼女はそれを見た。まばたきもしなかった。
日常だった。
彼女の身体は、いつも、そうだった。
完全に制御されている、と本人は思っていた。
だが完全に制御するためには、常にわずかな漏れを許容する必要があった。
蓋を完全に閉じれば、内側から破裂するから。
彼女の身体が、わずかに強張っていた。
——何かを、待っている。
誰が、待っているのだろうか。彼女は、待たれることに慣れていなかった。
ましてや、自分が、何かを待つことに。
窓辺に立ったまま、メイサは深く息を吸った。
まだ、その匂いは来ていなかった。
ただ、気配だけが近づいていた。
雨の気配。
彼女の指先が、無意識に、鎖骨の傷を撫でていた。
その傷は、塩水で抉られたばかりだった。
昨夜の、彼女自身の塩水で。
なぜ雨を待っているのだろうか、と彼女は自分自身の身体に問いかけた。答えはなかった。
ただ、身体が知っていた。彼女の頭よりも先に、何かを覚えていた。
壁の赤い光点が、いつも通り瞬いていた。
彼女の心拍は平常値に戻っていた。だが皮膚の下で、何かがまだ震えていた。
その震えの名前を、彼女は知らなかった。
午後。
補給基地の中庭で、ラトが木箱を組み立てていた。
古い板材を釘で打ち付けている。
慣れた手つきだった。彼の指の油汚れが、新しい板の白さに、薄く移っていた。
メイサが近づいた時、彼は釘を一本、口にくわえていた。
「……大佐」
慌てて釘を手に取り直す。
「すみません、見苦しいところを」
「いえ」
メイサは首を振った。
「何を」
「妹に送る分の、箱です。リンゴ、入れるための。
昨日、いくつか買えたので。傷まないうちに送ってやろうと」
箱は小さかった。子供の両手で抱えられるくらいの。
「手伝います」
メイサは、自分でもなぜそう言ったのか分からなかった。軍服の袖を、わずかに捲った。
「え。いや、大佐に、そんな」
「他にすることがないので」
嘘だった。
彼女にはいつもすることがあった。
報告書、訓練、自己点検、強制冷却の予定確認。
軍人としての時間は、常に埋まっていた。
だが今、彼女は嘘をついた。
ラトのそばに、いるために。
ラトはしばらく、彼女の顔を見ていた。
そして何かを納得したように、頷いた。
「じゃあ、こっち押さえててください。釘、打つので」
二人は並んでしゃがんだ。
メイサの白い指が、板の角を押さえた。
ラトの油汚れの指が、その隣で釘を構えた。
二人の指は触れていなかった。
だが距離は二寸もなかった。
釘が打たれる音。硬い、規則正しい音。
その音と音の間に、二人の呼吸が聞こえた。
ラトの手元で、釘が一本、滑った。
弾かれた釘が、メイサの方へ飛んだ。鋭利な先端が、彼女の頬の高さを、横切ろうとしていた。
メイサの手が、それを掴んでいた。
彼女が見る前に、彼女の手が、動いていた。
指先が釘の中ほどを、空中で正確に挟んでいた。
音は、なかった。風切り音すら、止まっていた。
彼女はそれを、ラトの手のひらに、静かに戻した。
「すみません」
ラトは、軽く謝った。
「いえ」
メイサも、軽く、答えた。
彼女は、自分が今、何をしたかを意識していなかった。ラトも、それを、特別な動作として、見ていないようだった。
二人は、また、板に向き直った。
釘が打たれる音が、再開した。
ラトは何も話さなかった。メイサも何も話さなかった。
ただ、近かった。
その近さを、二人とも追い払わなかった。
メイサの指が押さえている板の角が、わずかに、温かくなっていた。彼女の体温が、普通の人間のそれよりも、少し高かった。
冷却装具が外れて二日目だった。
彼女の身体は、まだ、戦場の余熱を、完全には抜き切れていなかった。
彼女が指を引いた時、板の表面に、指の形が、薄く、残っていた。木目が、わずかに、変色していた。
焦げる、というほどではなかった。ただ、彼女が触れた、という記録だけが、そこにあった。
ラトは、それを見た。
一瞬だけ、視線を、止めた。
そして、何も言わなかった。
彼は、それを、知っているようだった。
あるいは、知っていることを、知られないようにしていた。
空気が湿っていた。風が止まっていた。雨が来る前の、静けさだった。
「……大佐」
ラトがふと手を止めた。
「はい」
「雨、降りそうですね」
メイサは空を見上げた。灰色の雲が低く垂れていた。
「ええ」
「俺、雨、好きなんですよ」
ラトは釘をまた打ち始めた。
「子供の頃、雨の日に、兄貴が迎えに来てくれたことがあって」
その言葉に、メイサの指がわずかに強張った。板を押さえる手が、ほんの少しずれた。
「……お兄さん」
「はい。もう、いないんですけど」
その「いない」の言い方が、軽すぎた。
軽すぎて、重かった。
メイサは何も聞けなかった。
いつ、どう、いなくなったのか。
戦争でなのか。それ以外の何か、なのか。
聞いてはいけない、と彼女の本能が囁いた。
なぜいけないのかは分からなかった。
ただ、聞いてはいけない、と身体が言っていた。
「優しい人だったんです」
ラトは続けた。釘を打ちながら。彼女の方は見ずに。
「俺が転んで泣いてた時とか、近所の子がいじめられてた時とか。気付いたら、いつも来てくれてて。雨の日に、特に。傘も差さずに」
彼の手が止まった。釘を一本、地面に置いた。
メイサの呼吸が、浅くなった。
——傘も、差さずに。
その言葉が、彼女の脳の深い場所で、何かを揺らした。
大きくて温かい掌。雨の匂い。
誰かが自分に何かを被せた。それは傘だったのか、それとも上着だったのか。思い出せなかった。ただ、輪郭だけが近づいていた。
メイサは声を出せなかった。
ラトは、彼女の沈黙を気にしなかった。彼はもう一度、釘を手に取った。そして何気ない口調で言った。
「綺麗な、人でしたよ」
その「綺麗な」の発音が、わずかに平坦だった。
メイサは、それに気付かなかった。
ラトは、それを悟られないように、すぐに笑った。
「すみません、湿っぽい話して」
「いえ。大事な、お兄さんなんですね」
「はい。大事でした」
過去形だった。
その過去形を、彼は自然に使った。彼女には、その自然さの底にある何かが、見えなかった。
その同じ午後。
首都カイリオン、参謀本部・第七監視室。
モニターの前に、監視員が二人座っていた。
『個体名:メイサ・ヴァルキリー大佐』
『所在地:セラフィール港・補給基地周辺』
『脳波、平常値』
『心拍数、平常値』
『行動:補給兵との接触、継続中』
「また、あの補給兵か」
年配の監視員が、コーヒーを口に運びながら言った。
「資産の精神安定に寄与しているという所見が、出ています」
若い方が答えた。
「そうか」
年配はそれ以上、興味を示さなかった。
彼女が誰と接触しようと、データはデータだった。
『追記:本日、降雨予報あり』
『資産の生体反応、雨天時の変動を観察対象とする』
若い監視員は淡々と入力した。彼にとってメイサはグラフだった。グラフが雨の日にどう動くか。それが、彼の今日の関心だった。
モニターの隅に、別の通知が点灯していた。
『繰上任務、進捗:第三段階準備中』
『次期接触:カニンガム大将』
『日時:未確定(三日以内)』
若い監視員はその通知を確認しただけで閉じた。
彼の権限では、それ以上見られなかった。
メイサは知らなかった。
あと、三日もなかった。
夕刻。
メイサは独房に戻っていた。
雨はまだ降っていなかった。
だが空気は、もう、雨の匂いを含んでいた。
彼女は寝台の縁に座っていた。
膝の上に両手を置いていた。その手のひらを見つめていた。昨日、市場の老人が笑いかけた手。今日、ラトと並んで板を押さえた手。
夢の中で、リンゴの木の根元の何かに伸ばした、子供の手。全部、同じ自分の手だった。
なのに、それぞれが、別の誰かのようだった。
窓の外で、風が変わった。湿度が上がった。
そして、降り始めた。
最初は気付かないほど小さく。石畳を点が打ち始めた。
ぽつ、ぽつ、と。
メイサは立ち上がった。
窓辺に近づいた。鉄格子の向こうに雨が見えた。
雨は増えていった。点が線になった。線が面になった。石畳が濡れていった。
そして、匂いが立ち上った。
——雨上がりのアスファルト。
いや、まだ雨上がりではなかった。
降り始めの、最初の匂いだった。それでも、その匂いは、彼女の知っているものに、似ていた。
メイサは鉄格子に額を押し当てた。
冷たい鉄が皮膚に触れた。
その瞬間。
脳の奥で、何かがほどけた。
雨。灰色の空。濡れた地面。そして、誰かの声。
「だいじょうぶ?」
子供の声だった。
いや、子供と少年の中間くらいの声。優しい、けれどわずかに硬い声。
「だいじょうぶ?」
その声は、彼女に向けられていた。幼いメイサに。
雨の中で座り込んでいた、メイサに。
声の主の顔は見えなかった。ただ、何かが差し出されていた。傘ではなかった。上着だった。大きすぎる男の子の上着が、彼女の頭の上に被せられた。
そして、温かい掌が、彼女の髪を軽く撫でた。
「ぬれちゃうよ」
たった、それだけの言葉だった。
それだけの言葉が、なぜ、二十一年経った今、彼女の目の奥を熱くするのか。彼女には分からなかった。
メイサは鉄格子を強く握った。白い指が震えた。
——その声を、私は知っている。
いや、知らない。知っているはずがない。
彼女は自分の幼少期を、ほとんど覚えていなかった。
意図的に封印してきた。戦場で邪魔になるから。
だが、その声は、封印の外にいた。
封印の内側にしまわれることなく、ずっと、彼女の身体のどこかに、生きていた。
そして今日。雨と一緒に、戻ってきた。
「だいじょうぶ?」
その声が誰のものなのか、彼女は思い出せなかった。
だが、午後、補給基地の中庭で聞いた声と。
その声を、彼女の身体は、似ている、と感じていた。
ラトの声、ではなかった。
ラトの「お兄さん」の話の中の、声。ラトが語った、雨の日に、傘も差さずに迎えに来た、誰か。
その誰かと、幼い彼女の前にいた、その誰かが——
メイサは目を閉じた。
強く、閉じた。瞼の裏に、力が入った。呼吸が、一瞬、止まった。
指先が、無意識に、鎖骨の傷をなぞっていた。
何度も、何度も。
その動きだけが、彼女の中で、続いていた。
雨の音が強くなった。
窓の外で、世界が洗われていた。
だがメイサの中の何かは、洗われなかった。
むしろ雨が、それを浮かび上がらせていた。
長く沈んでいた、何かを。
彼女は鉄格子から額を離した。
冷たい跡が肌に残っていた。
寝台に戻った。横になった。目を閉じた。
眠れる気はしなかった。だが、眠るしかなかった。
明日には雨は止んでいるかもしれない。止んだ後のアスファルトの匂いが、立ち上るかもしれない。
彼女は寝返りを打った。
鎖骨の傷が、シーツに擦れた。痛みは、なかった。
ただ、指が、また、そこに伸びていた。
何度も。何度も。
無意識のうちに、指先からごく微弱な熱が、漏れていた。鎖骨の傷の表面を、その熱が、なぞった。
傷は、わずかに、赤くなった。彼女の体温では、ありえない赤さだった。
シーツの、彼女の指が触れていた箇所が、薄く、変色していた。
彼女の身体は、彼女の意志とは関係なく、何かを、外へ、漏らしていた。
壁の赤い光点が、それを記録していた。
翌朝、また、「軽微な不具合」として、報告されるだろう。
彼女は、それを、知っていた。
知っていて、止められなかった。
止め方を、知らなかった。
その同じ夜、別の場所で。
ラトは補給兵舎の片隅で、もう一通の手紙を書いていた。
今度の宛先は妹ではなかった。誰宛でもない手紙だった。ただ、書かなければ消化できないものが、あった。
『兄さん。
あの人は、雨の匂いを覚えているみたいだ。
俺は、それが嬉しいのか悲しいのか、まだ、分からない。兄さんなら、どう思う?』
ラトはその紙を丁寧に折り畳んだ。
そして油汚れの指で、自分の上着の内側にしまった。
誰にも届かない手紙だった。
届ける相手は、もう、いなかった。
同じ夜。
首都カイリオン、参謀本部・最上階。
カニンガム大将は、執務室の窓辺に立っていた。
窓は、二重の防音ガラスでできていた。
外で雨が降っていることは、視覚でしか確認できなかった。音は、完全に遮断されていた。
雨粒がガラスを叩く振動すら、伝わってこなかった。
彼は、この設計を気に入っていた。
雨という現象が嫌いだった。
正確に言えば、雨に濡れる、という事態が嫌いだった。シャツが湿る。革靴が汚れる。髪が乱れる。
それらの不快を、彼は人生から徹底的に排除してきた。
外出する日は、必ず天気を確認した。
降雨予報があれば、車を玄関先まで横付けさせた。
傘は、自分で差さなかった。副官が差した。
革靴の縁に水滴が一つでもつけば、彼は部屋に戻って靴ごと履き替えた。
ガラスの向こうで、雨が降っていた。彼の知らない雨だった。
窓の外、はるか下の通りで、傘も持たない誰かが走っていく姿が見えた。新聞配達の少年だった。彼の上着は、すでに肩から濡れていた。
カニンガムは、その姿を眺めていた。
表情は動かなかった。哀れみも、軽蔑もなかった。
ただ、別の生き物を見るような目だった。
あの少年は、雨に濡れる側の人間だ。
そして、自分は、濡れない側の人間だ。
それは身分でも、運でもなかった。
彼にとっては、世界の構造そのものだった。
机の上に、一通の書類が置かれていた。
『繰上任務・最終承認書類』
メイサ・ヴァルキリー大佐の、次の任務の詳細が記されていた。三日以内に、彼女に直接指示を伝える必要があった。彼自身の口で。彼自身の手で、書類を渡さなければならない。
また、触れることになる。
触れる、と彼は心の中で、その言葉を繰り返した。
触れる。触れた。触れる。
その単語が、彼の中で、勝手に、増えていった。
彼の右手の指先が、机の天板を、軽く撫でた。
意味のない動きだった。
だが、その動きは、過去のある瞬間を、再現していた。三ヶ月前、彼が彼女と握手をした時の、指の角度だった。
彼の手は、覚えていた。
彼女の指が、思っていたよりも細かったこと。
皮膚が、戦闘者にしては滑らかだったこと。
脈が、彼の親指の腹に、わずかに伝わったこと。
握り返す力は、弱かった。彼女が、それ以上の力を、彼に対して使う必要を感じていなかったから。
その感触を、彼は消毒液で拭いた。何度も、拭いた。
だが、消えなかった。
拭くたびに、むしろ、鮮明になった。
彼女が部屋を出た後、彼はいつも、自分の手を嗅いだ。誰にも見られない場所で。一秒だけ。そして、すぐに、消毒液の小瓶を開けた。
彼自身は、その動作を、清潔のためだと信じていた。
彼は、自分のことを、潔癖な男だと思っていた。
思っていなければ、立っていられなかった。
窓の外で、雨が強くなった。ガラスを伝う水滴が、何本も、線を引いていた。彼にはその線が見えていた。
だが、音は聞こえなかった。
彼の世界は、いつも、こうだった。
遮断され、清潔で、乾いていた。
カニンガムは、机に戻った。
最終承認書類に、署名をした。万年筆のインクが、紙に染み込んだ。彼の右手は、署名をしている間、わずかに、震えていた。彼自身は、それに気付かなかった。
三日後、メイサ・ヴァルキリー大佐は、彼の前に立つ。書類を受け取る。任務の繰上を、知らされる。
その時、彼女の髪が雨に濡れているかどうか。
彼にとっては、どちらでも、よかった。
いや。
濡れていてほしい、と。
彼の身体の、ある場所が答えた。
彼はその答えを、聞かなかったふりをした。
聞いてしまえば、彼が彼自身に許してきた多くのことが、崩れる気がした。
彼は消毒液の小瓶を、机の引き出しから取り出した。
その引き出しには、同じ小瓶が、いくつも、整然と並んでいた。
使いかけのものは、一本もなかった。
すべて、新品だった。
彼は、一度開けた瓶を、二度使わなかった。
なぜ、そうしているのかは、彼自身、明確に答えられなかった。
まだ、何にも触れていない手のひらに、彼はそれを垂らした。
刺すような匂いが、執務室に満ちた。
冷たい液体が、皮膚に触れた瞬間——指の付け根の、ごく細かな傷が、染みた。微かな痛みが、走った。
その痛みを、彼は、待っていた。
彼の指先には、ずっと前から、消毒液による微細な傷が、無数にあった。指紋の溝の中まで、薄く、ひび割れていた。健康な男の手ではなかった。
だが、誰も、それに気付かなかった。彼自身も、それを、清潔の証だと信じていた。
痛みが、皮膚から、染み込んでいく。
その痛みの中で、ある感触が、より鮮明になった。
彼女の指の、細さ。
彼女の脈の、わずかな動き。
彼女の体温の、人間離れした、わずかな高さ。
痛みが、その感触を、消すのではなかった。
痛みが、その感触を、刻むのだった。
彼は、両手を、ゆっくりと、擦り合わせ始めた。
指の間まで、丁寧に。爪の縁まで、丹念に。
擦り合わせている途中から、動きが、変わっていた。
彼の右手の指が、左手の甲を、軽く、繰り返し、撫でていた。それは、消毒の動作ではなかった。もっと、柔らかい、動きだった。
その軌跡は、三ヶ月前の、ある一瞬を、再現していた。
握手を終えた後、彼女の指が、引かれる時に、彼の手の甲を、わずかに、かすめた。それは偶然だった。
彼女自身、気付いていなかったかもしれない。だが、彼の手は、覚えていた。
彼の右手の指は、その軌跡を、今、自分自身の手の上で、なぞっていた。
彼女の指の代わりに、彼自身の指が。
彼は、それに、気付いていなかった。
気付かないように、していた。
気付いてしまえば、彼が彼自身に語ってきた物語——
『私は潔癖な男である』『私は彼女を資産として管理しているだけである』
——その物語が、崩れる。崩れれば、彼は、自分が誰なのか、分からなくなる。
だから、彼の右手は、左手の甲を、撫で続けた。
彼の意識の、外側で。
消毒液の刺激臭が、執務室に、満ちていた。
その匂いの底に、別の匂いが、潜んでいる気がした。
彼は、それを、嗅がないようにした。
雨は、まだ降っていた。
メイサのいる港町でも。
ラトの兄が眠る、名もなき焼け跡でも。
そして、この、何の音もしない執務室の、ガラスの向こうでも。
ただ一人、カニンガム大将だけが、その雨に、触れずにいた。
触れずにいた、と、彼は信じていた。
信じていなければ、立っていられなかった。
◆ルミナール戦記 外伝(note連載小説)
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