見出し画像

ルミナール戦記 外伝―救済という名の呪い―第6話「塩の記憶」


メイサ・ヴァルキリー
救うたびに、私は人間から遠ざかっていく。

前回のお話


第6話「塩の記憶」

塩は、本来——傷を癒すものだ。

だが今、塩は、彼女の傷を、抉り続けていた。

セラフィール港の朝。
昨日、彼女が沸かした海から、潮風が岸に届いていた。

メイサは、市場を歩いていた。

軍服ではなく、灰色の外套を羽織っている。
誰にも気付かれないように、と参謀本部から指示された格好だった。

だが、彼女自身は知っている。
気付かれないわけがない、と。

市場には、人が戻っていた。
帝国の海上封鎖が解除されてから一日。船が、また港に入り始めていた。
南部の市場には、何ヶ月ぶりかの色彩が戻っていた。

レモンの黄、トマトの赤、芹菜の緑。
香辛料の店からは、クミンと胡椒の混じった鼻を刺す匂い。青果の籠からは、土の匂いを残した、まだ水気を含む野菜。果物屋の前では、熟れた桃の甘い、わずかに酸っぱい香り。

通りには、声が満ちていた。

子供が母親の手を引いて、果物の店を指差している。
若い夫婦が久しぶりに見る魚の前で、何かを相談している。
老婆が籠いっぱいに買い込んだ野菜を両手で抱えて、嬉しそうに歩いていく。

誰もが、笑っていた。
誰もが、安堵していた。

潮風に乗って、煮込みの匂いが流れてくる。
どこかの店先で、この数ヶ月、出せなかったスープをまた売り始めているのだろう。

メイサは、その光景の中を歩いていた。
外套の下で、肩がわずかに強張っていた。

——これは、私が与えたものなのか。
それとも、私が奪わなかったものなのか。

彼女には、判別がつかなかった。

そして——魚。

メイサは、魚屋の前で、立ち止まった。

氷の上に、魚が並んでいた。
昨日、彼女が見た、白い腹の魚たちと、ほとんど同じ姿で。
ただ、目だけが違った。
昨日の魚たちは、煮え湯の中で、目を開いたまま、死んでいた。

今日の魚は、目を閉じていた。
ちゃんと、漁師の手で、しめられて。
ちゃんと、人間に食べられるために。

「お嬢さん、何か」

魚屋の老人が、声をかけてきた。
商売人の、ありふれた笑顔。

「いえ」

メイサは、魚から目を逸らした。

「久しぶりに、戻ってきたんですよ、こいつら。海が、また、開いたんでね」

老人は、嬉しそうに言った。
彼は、知らない。
彼女が、その「海を開いた」者であることを。
彼女が、その代償に、何を煮たのかを。

「孫がね、待ってるんですよ」

老人は、勝手に話を続けた。

「魚が食べたい、魚が食べたいって、毎晩。封鎖が始まってからずっとです。今夜、やっと食わせてやれます」

その言葉が、メイサの耳の奥で、反響した。

孫。
毎晩、魚を待っていた子供。

彼が今夜食べる魚は、メイサが昨日、八千人の代わりに殺さなかった魚だ。
あるいは、メイサが昨日、海ごと茹でた中から、生き延びた魚だ。
いずれにせよ、彼の今夜の幸福は、メイサの昨日の指の動きの上にある。

「そうですか」

メイサは、それしか、言えなかった。

「あんたも、買って行きなさいよ。今日のは、特に活きがいい」

「今日は、いいです」

「そうですか」

老人は、それでも笑顔を崩さなかった。
その笑顔の純粋さが、メイサには、ひどく重かった。

通り過ぎる時、ふと、隣の店の籠が目に入った。

リンゴだった。

赤い、艶のある、リンゴ。
子供が手に取れば、笑顔になる種類の。

メイサの足が、止まった。
なぜ止まったのか、彼女自身にも分からなかった。


補給基地の裏。
古い倉庫の壁に背を預けて、ラトは何かを書いていた。

メイサが、外套の袖をそっと押さえながら近づいた時、彼はまだ、気付いていなかった。

古い万年筆。
黒い油汚れの指。
膝の上に置いた、小さな板紙。

その板紙の上に、紙が一枚、広げられていた。
手紙、らしかった。

ラトの口元が、わずかに緩んでいる。
書きながら、彼は笑っていた。
誰にも見られていないと、思っているのだろう。

メイサは、そこに立ち止まった。
声をかけるべきか、引き返すべきか、判断がつかなかった。

「……大佐」

気付いたのは、ラトの方だった。
慌てて、紙を膝の上で隠そうとする。

「あ、すいません、こんなところで」

「いえ。私こそ」

メイサは、視線を逸らした。
だが、その時、ほんの一瞬、ラトの紙の宛名が目に入った。

『——リーゼへ』

短い、あどけない文字で書かれた、宛名。

妹の名前だった。
メイサは、それを見なかったことにした。
ラトも、見られたことに気付かなかったふりをした。

二人の間に、しばらく沈黙が落ちた。
風だけが、二人の髪を撫でていく。

「手紙ですか」

メイサが、ようやく、口を開いた。

「はい」

ラトは、少し恥ずかしそうに笑った。

「妹に、です。物資が戻ったので、リンゴを、送れそうで。手紙と一緒に」

リンゴ、という言葉が、メイサの胸の奥で、何かを震わせた。
市場で見た、赤い果実。
ラトの妹も、それを待っているのだろうか。

「喜ぶでしょうね」

「はい。何ヶ月も、食べられなかったので」

ラトは、紙を丁寧に折り畳みながら、言った。

「リンゴ、好きなんです。あいつ。木の下で、ずっと、本を読んでいるような子で」

メイサは、聞いていた。
いつもなら、頭の隅に置いて、すぐに忘れる情報。
だが、今日は違った。

リンゴの木の下で、本を読む子供。

その姿が、なぜか、彼女の脳の奥で、別の何かと、重なった。

「——大佐」

ラトの声で、彼女は我に返った。

「リンゴ、また食べられるようになりますね。海が、開いたから」

ラトは、微笑んだ。
悪気のない、純粋な、感謝に近い笑み。

そして、彼は続けた。

「大佐の、おかげですね」

メイサの心臓が、止まりそうになった。

——おかげ。

ラトは、その言葉を何の含みもなく、口にした。
彼にとって、それは、ただの感謝の言葉だった。
連邦のS級が、海上封鎖を解いた。
その結果、彼の妹にリンゴが届く。
だから、感謝。

それだけだった。

その「それだけ」が、メイサを追い詰めた。

彼は、知らない。
彼が今、感謝しているのは、八千の死の上に立つ、平和だ。
彼が今、口にした「おかげ」は、彼自身が後に憎むかもしれない、その同じ手の働きだ。

「ええ」

メイサは、それしか言えなかった。

ラトは、もう一度、微笑んだ。
彼女の沈黙の意味を、彼は、知らないままだった。

 

夜。
メイサは、独房に戻っていた。

壁の四隅に埋め込まれた、生体監視装置。
赤い光点が、等間隔で瞬いている。

脳波、体温、心拍、血圧、皮膚電位、呼吸間隔。
六つの生理指標が、毎秒、首都カイリオンの参謀本部・第七監視室に転送されている。
彼女が眠る瞬間も、悪夢を見る瞬間も、目覚める瞬間も、グラフとして、描かれ続ける。

これは、彼女の「資産価値」を維持するための、標準手順だった。
人間扱いではなかった。
だが、それは、彼女自身が誰よりも知っていた。

眠りは、いつも浅かった。
だが今夜は、特に浅かった。

目を閉じると、市場のリンゴの赤が、瞼の裏に残っていた。その赤が、いつの間にか、別の赤に変わっていく。

炎の赤に。

——夢を見ていた。

燃える、村だった。

茅葺きの屋根が火を噴いている。
石畳の通りに人が倒れていた。
焦げた肉の匂い。
鉄の錆びた匂い。
そして——焼けたリンゴの甘い匂い。

誰かが、走っていた。
誰かが、叫んでいた。
何を叫んでいたのか、聞き取れなかった。
ただ、その声は、誰かの名前を呼んでいた。

その村の中心に、一本の木があった。

リンゴの木。

白い花が、咲いているはずの季節だったのか。
あるいは、赤い実が熟しているはずの季節だったのか。
だが、今、その木は——燃えていた。

幹が、裂けながら、内側から、赤く焼けていく。
葉が、灰になって、空に舞い上がる。
まだ青い実が、地面に、ぽとり、ぽとりと落ちていた。
それも、すぐに焦げていく。

リンゴの木の根元に。
誰かが、立っていた。

子供だった。

小さな、女の子。
七歳か、八歳か。
裸足だった。
足の裏に、燃える石畳の熱が伝わっているはずだった。
だが、彼女は、動かなかった。

彼女は、燃える木を見上げていた。
逃げる気配は、なかった。

ただ、泣いていた。
声を上げて、泣いていた。

「お母さん——」

その声が、メイサの胸の奥を刺した。

「お母さん、起きて——」

子供は、繰り返していた。
木の根元の、何かに向かって。

そこに、横たわっていたのは——

メイサは、目を覚ました。


跳ね起きた。

心臓が、速い。
戦闘の時よりも、速かった。

壁の赤い光点が、いつもより、激しく、明滅していた。
脳波の異常を検知している。

メイサは、手で顔を覆った。
手のひらに、湿った感触が、当たった。

濡れていた。

彼女の頬が。

——涙だった。

何年も、流していなかったはずの。
彼女自身が、流せると、思っていなかった、はずの。

「……」

声は、出なかった。
ただ、呼吸が、震えていた。

そして、不意に——
喉の奥から、何かが、せり上がってきた。

それは、声だった。
言葉ではなかった。
ただの、震えるような、低い、音。

メイサは、自分の口から出るその音に、驚いた。
こんな音を、自分が出せるとは、知らなかった。

両手で、口を押さえた。
だが、止まらなかった。

何かが、壊れていた。
彼女の中で、ずっと、堰き止めていた何かが。
今夜、初めて、決壊した。

膝を抱えて、彼女は、震えた。
誰も、見ていない、と思っていた。
誰も、聞いていない、と思っていた。

二十一歳の女性が、独房で、声を殺して、泣いていた。
殺し方を知らないまま、泣いていた。

——その瞬間、首都カイリオンの参謀本部・第七監視室で、監視員のモニターに、警告が点灯した。

 『個体名:メイサ・ヴァルキリー大佐』
 『心拍数、急上昇』
 『脳波、感情中枢の活動異常』
 『涙腺反応、検出』

監視員は、それを淡々と、記録した。

 『生体反応に、不具合あり』
 『翌朝、参謀本部に、報告予定』

彼女が泣いたという事実は、
翌朝、上官のデスクに、「不具合」として届けられる。

そこに、彼女の内面は、なかった。
ただ、機械の異常として、処理される。

メイサは、それを知っていた。
だから、誰も、見ていない、と信じることが、できなかった。

それでも、彼女は、泣くのを止められなかった。
止め方を知らないから。

頬を伝った塩水が、鎖骨の上の古い傷に、染みた。
ぴりっ、と。
小さく、痛んだ。

——塩は、傷を癒すものだ。
だが、今、塩は、彼女の傷を抉っていた。

夢の中の、子供の声が、耳の奥で、繰り返されていた。

 「お母さん」

その声を、彼女は、知っているはずだった。

だが、思い出せなかった。

メイサは、もう一度、目を閉じた。
眠れる気は、しなかった。

窓の外で、潮の音が、低く、続いていた。
彼女が沸かした海は、まだ、温かいまま、夜を過ごしていた。

——その同じ夜。

参謀本部の作戦室で、一通の電文が、無言で受信されていた。
発信元は、首都カイリオン。
受信者は、カニンガム大将。
件名は、たった三文字だった。

 『繰上』

カニンガム大将は、その電文を読んだ後、長い沈黙の末に、机の引き出しから、消毒液の小瓶を取り出した。

彼は、まだメイサに触れていなかった。
だが、彼の手は、すでに、メイサの匂いを纏い始めている気がした。

 「繰上」の電文。

それは、彼が、近く彼女に「会う」ことを、意味していた。
作戦の指示を、直接、伝える日が来る。

その日、彼は、また彼女に触れる。
握手を交わすかもしれない。
肩を叩くかもしれない。
書類を手から手へ、渡すかもしれない。

そして、その後、彼は、また消毒液で、手を拭くのだ。

カニンガム大将は、洗いたてのシャツの袖口を丁寧に、拭いた。
まだ、何にも、触れていない、その袖口を。

——彼の中では、すでに触れている。
彼の脳が、彼の手より先に、彼女の匂いを嗅いでいた。

メイサ・ヴァルキリー大佐の、次の任務が繰り上げられていた。

予定よりも、二週間早く。


◆ルミナール戦記 外伝(note連載小説)

◆自己紹介記事

いいなと思ったら応援しよう!

雪綴ゆき 記事をお読みくださり、ありがとうございます🌸 皆さまからのチップは、今後の情報発信を続けていくうえで大きな励みとなっています。いただいたご支援は、私の活力の源であるみーくんの餌代として、大切に使わせていただきます。これからも素敵な記事をお届けできるよう、精一杯努めてまいります。