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ルミナール戦記 外伝―救済という名の呪い―第5話「海を沸かす」


メイサ・ヴァルキリー
救うたびに、私は人間から遠ざかっていく。

前回のお話


第5話「海を沸かす」

海は、本来——人を浮かべるものだ。

だが今日、その海は、人を煮ようとしていた。

南部セラフィール港の朝は、塩の匂いに満ちていた。

メイサは、岩礁の突端に立っていた。
足元では、灰色の波が低く唸っている。
水平線の彼方に、敵がいる。

帝国海上封鎖艦隊。
大型艦十七隻、随伴艦多数。
推定戦死者数、八千。

——通称「不沈艦隊」。
旗艦《インヴィクタス》以下、十七隻すべてが最新鋭のセラミック複合装甲を纏う。
過去の海戦で、一隻も沈んだことがない。

連邦海軍が、過去三度、艦隊戦を挑み、三度とも壊滅させられた相手だった。

それを、メイサは一人で消す。
潮風の匂いを胸に入れたまま、八分以内に。

昨夜、口の中で転がした数字が、今、目の前で形を持っていた。艦影は、まだ豆粒のように小さい。
だがその一つ一つに、人間が乗っている。

——あそこの海は、冬でも暖かいのだろうか。

昨夜の問いが、ふと甦った。
答えはもう、要らなかった。
彼女が今から沸かすのだから。

「大佐」

背後から、参謀本部の通信士が近づいた。電磁遮蔽機能を持つ防護服越しに、声が機械的に届く。

「作戦海域、観測機の展開完了。いつでも、どうぞ」

メイサは答えなかった。
ただ、海の向こうを見つめていた。

風の中に、わずかに肉と機械油の匂いが混じっている。

艦影の方角から、潮に乗って届く。
誰かが、朝食を取っている匂い。

メイサは、それ以上を想像しなかった。

軽く目を閉じる。

いつもの儀式だった。
演算を立ち上げる前の、最後の数秒。
脳の奥で、何かを丁寧に折り畳む作業。
想像力という名の、邪魔な布を。

「……始める」

短く、唇が動いた。

——その瞬間、世界から、音が消えた。

潮の音も、海鳥の声も、自分の呼吸すら。
脳内のリミッターが、音もなく外れる。
彼女の中の、人間の音が、止まる。


空が、蒼く爆ぜた。

メイサの背から、プラズマの翼が解放される。
風が、彼女の長い髪を撥ね上げた。
軍規通り高く結い上げていたはずのそれが、過剰出力の電磁界で結束を解かれていく。

金の髪が、蒼い火花の中で広がった。

網膜に、グリッド線が走る。
艦影。距離。動線。風向。波の周期。
全てが数値として処理される。

帝国艦隊は、対S級戦の散開戦術を取っていた。
艦と艦の間隔は、最大射程の二倍。
戦略的決戦に投入される最高戦力のA級能力者でも、
一度の攻撃で蒸発させられるのは、最大限でも一隻が限界の配置。

だが、メイサのプラズマには、距離は関係なかった。
大気そのものをイオン化させる能力は、艦隊の散開を「無意味な計算」に変えた。

帝国の提督が、後から手記に書き残すことになる。
——我々は、戦術の常識で守られていると思っていた。

……あの女には、常識が通用しなかった。

削除点、十七。
残波想定、四二〇〇。
出力定格、第三種臨界点・限界値の九八〇%。

指が動く。
雷が走る。

最初の高電圧は、海面を這うのではない。
大気そのものをイオン化させ、光速で水平線へ到達した。

——光だけが、先に届いた。

旗艦《インヴィクタス》。
帝国海軍が誇る、移動する要塞。
全長三百メートル、十二万トン級の超弩級戦艦。
乗員千二百名。
過去のいかなる海戦でも、沈まなかった鋼鉄の城。

その《不屈》が、白光に呑まれた。
無音だった。

ただ、視界の彼方が、太陽より明るくなった。
甲板の砲塔が、塗料ごと蒸発する。
鋼鉄の装甲が赤熱し、波の上で歪む。
十二万トンの鋼鉄が、海を失って自重で歪む。
艦底の竜骨が、内側から折れる金属音。
それは「破壊」というより、「秩序の崩壊」に近かった。
それも、無音だった。

数秒後——

海が、悲鳴を上げた。
轟音が、遅れて届いた。

——千七百倍の体積膨張。
鼓膜が割れるほどの、低い、地を揺らす音。
セラフィール港の窓が、五キロ離れた家屋の窓まで、
一斉に砕けた。

空気そのものが熱い掌で叩かれたように、岩礁の足元の小石が舞い上がる。

焦げたオゾン。
焼けた鉄。
そして——蒸発した塩水と、何かの肉が混じった、甘く酸い匂い。

風に乗って、五キロ先のセラフィール港まで、その匂いは届いた。
港の市場で、朝食を売る老婆が、鼻を覆った。
何の匂いかは、彼女には分からなかった。
ただ、夕食には、魚を売るのを止めようと思った。

それらすべては、
《インヴィクタス》が崩れた、数秒後の話だった。

巨大な鋼鉄が、海の消えた空間で姿勢を失い、転覆していく。
乗員の悲鳴は、蒸気の轟音にかき消された。
誰かの祈りも、誰かの罵りも、誰かの母の名も。

メイサの視界には、それは「数」としてしか映らない。

削除、削除、削除。
演算は、淡々と続く。

二隻目——四秒。艦長が伝声管に怒鳴る声が、届く前に蒸発した。

——指先のグリッドに、ふと、艦の名前が浮かんだ。

《エルガリアン》。
本来の名前。
削除の前に、名前は要らない。
だが、グリッドは、それを見せた。

三、四——

二つの艦が、ほぼ同時に光に溶けた。
時間を計る前に、消えた。
皿ごと、寝台ごと、伝令の足音ごと。

《ノヴァ・ドラクスル》、《ヴァルキュリア》。

五隻目——

煙の中で、若い水兵が、背中を撃たれた仲間を、引きずっていた。
医務室の方向に。
あと、十メートル。

その十メートルを、メイサの一閃が、消した。

——二秒。
《ヴェスペリア》。

白光が水平線を、順に、消していく。
時計の針より、速く。

帝国軍十七隻の半分が、視界から消えるまでに、
潮風は一度しか吹かなかった。

——名前は、要らないはずだった。

その時——

不意に、頭の隅で、何かが鳴った。

「(海は広いし、太陽はタダだし)」

ラトの声。
昨日の昼、彼が言ったこと。

その一言が、なぜか、メイサの脳の演算回路に横から差し込まれた。

——海は、広い。
——太陽は、タダ。

ラトにとって、それは「世界は無償で与えてくれるもの」だった。
彼の妹も、それを当たり前のように享受している。
彼が朝起きて、海を見る。
彼の妹が、太陽の下でリンゴをかじる。

その世界を、メイサは今、沸かしている。
彼女の網膜のグリッドは、「八千の削除点」しか映していなかった。

だが——本当は、八千ではなかった。
八千の人間の、海と太陽と、それを彼らから受け取って生きている誰かの合計が、そこにあった。

その厚みが、一瞬だけ、彼女の指を重くした。

演算の流れに、針一本ほどの空白が走る。
次の電撃が、わずかに軌道を逸れた。

六隻目の戦艦。
本来なら艦橋を直撃して即死させるはずだった一閃が、艦首を裂いただけに終わる。

一瞬、艦内に「生き延びられる」という空気が流れた。

機関室の整備兵が、はじめて顔を上げた。
医務室の若い軍医が、傷ついた仲間を抱え起こす。
甲板の伝令兵が、家族の写真をポケットから引き出して、口づけた。

本当なら、彼らは、一秒前に死んでいるはずだった。
光の中で、何も感じる前に、蒸発しているはずだった。

それは、清潔な死だった。
痛みも、恐怖も、絶望もなかった。
ただ、一瞬で、存在が消える。
神の慈悲に最も近い死に方。

だが、メイサの一閃は、わずかに逸れた。
ラトの声が、彼女の指を止めたから。

ほんの、数センチ。
彼女の指先が、揺らいだ。

その数センチが、艦橋を外した。
その数センチが、機関室の整備兵に、空を見せた。
その数センチが、若い軍医に、仲間を救う時間を与えた。
その数センチが、伝令兵の唇に、家族の温度を、もう一度、運んだ。

そして、その数センチが、彼ら全員を、煮え湯に投げ込んだ。

ただ、艦の側面から、人影が落ち始めた。
一人。二人。十人。

「希望」は、海面に近づくにつれて、形を変えた。

煮えた海面が、彼らを呑み込む音が、ここまで届いた。
肉が湯に溶けていく、低い、ぐつぐつという音。
人間が、人間ではなくなっていく音。

整備兵は、空を見たまま、海に落ちた。
最後に見た「希望」を、瞼の裏に焼き付けたまま。

意識が、最後の数秒、海中で残っていた者もいただろう。
肺が、水蒸気で、焼ける。
それを、感じながら。

メイサは、それを聞いていた。

——彼女の慈悲が、清潔な死を、汚い死に変えた。

それを、彼女自身は、まだ気付いていなかった。

網膜のグリッドは、彼らを「逃走対象」と認識し、追加の削除を提案している。
指が動けば、それで終わる。
いつもなら、そうしてきた。

だが、指は動かなかった。

——あそこの海は、冬でも暖かいのだろうか。

昨夜の問いが、戻ってきた。
今度は、答えが見えていた。

暖かい。
もうじき、自分が沸かす海は、彼らの体温で更に少しだけ暖かくなる。

メイサは、息を吐いた。
それから、グリッドの提案を無視して、次の艦に視線を移した。

演算は再開された。
削除は続いた。
だが、彼女の中の何かが、確かに、ほんの僅かに、
ずれた。


戦闘終了まで、八分。

いつもより、二分長かった。

最後の艦影が水平線から消えた時、世界に、音が、戻ってきた。

潮の音。
遠く、海鳥の鳴く声。
そして、彼女自身の、荒い呼吸。

メイサは、岩礁の突端に膝を突いていた。
プラズマの翼は、もう半ば砕けかけている。
戦闘装甲の胸元、鎖骨の下から肋骨へ、新しい亀裂が走っていた。蒼い光が、その亀裂から、火花を散らしながら漏れている。

軋む音。

誰にも聞こえない。
彼女自身も、聞いていなかった。

聞こえるのは、自分の心臓の音だけだった。
速い。
速すぎる。
これは、戦闘の余韻なのか、それとも——
彼女には、分からなかった。

——だが、その姿は、奇妙に、美しかった。

夕陽が水平線に滲み始め、彼女のほどけた長い髪を、金色から銅色へと染めていく。
焼けた装甲は、傷だらけのまま、まだ蒼く瞬いている。

軍服に守られたはずの肌が、ただの二十一歳の柔らかい肉であることを、装甲の亀裂から漏れ出す熱が、思い出させた。

彼女の身体は、兵器のままで、女性のままだった。
その境界が、この瞬間、危うく溶けていた。

息をしているということ。
それだけが、彼女に残された、最後の人間性だった。

——息を、止めることもできた。
あと一押しで、彼女もまた、削除点になる。

だが、彼女は、息を吐いた。
そして、また、吸った。

——選んだ。

無自覚に。
だが、確かに。
彼女は、生きることを、選んだ。

それが、メイサの初めての選択だった。

戦場の余韻の中で、メイサは海を見ていた。

不意に、聞こえてきた。
何かが水面を打つ、軽い音。
ぱしゃ、ぱしゃ、と。

数キロ先の海面に、何かが浮き始めていた。

焼け焦げた魚が、白い腹を見せて、大量に。
そして、それより少し小さい、別のものも。

人間の身体は、煮沸されると、原型を失う。
皮膚と肉は分離し、骨だけが波に揺られて漂う。
ある一片は、まだ軍服の繊維を纏っていた。
別の一片は、もう何だったのか、分からなかった。

戦闘の余熱で、海ごと茹でられた、八千の人間と、無数の魚。

「……魚も、殺したのか」

——ラトなら、これを直せるだろうか。

その問いが、不意に浮かんだ。
彼は、壊れたものを直すのが好きだと言った。
時計を、機械を、誰かのために。

だが、魚は。
海ごと茹で上がった、無数の白い腹は。
ラトの指先でも、もう、戻らない。

メイサは、魚しか見ていなかった。
人間の方は、見なかった。
見たら、立っていられなかったから。

魚なら、見てもいい、と思った。

——軽いはずだった。

それなのに、彼女は、その軽い罪のほうで、息ができなかった。

誰にともなく、呟いた。
声は、潮風にすぐ攫われた。

観測機の声が、耳の奥のデバイスから届く。

『作戦完了。戦果、想定通り。資産価値の損耗、許容範囲内』

メイサは、その通信を半ば聞いていた。
もう片方の耳では、別の声を聞いていた。

「(海は広いし、太陽はタダだし)」

ラトの声は、まだそこにあった。
戦闘の最中に、消えなかった。

いつもなら、戦闘が終われば、戦闘前の感情はすべて消える。
削除点として処理されたものは、何も残らない。
それが、彼女の脳の仕組みだった。

だが、今回は違った。
ラトの声が、戦闘の前から、戦闘の最中、戦闘の後まで、ずっと続いていた。

それが、何を意味するのか。
メイサには、まだ分からなかった。

指先が、わずかに震えていた。

過剰出力の余波だ、と自分に言い聞かせた。
装甲の亀裂から漏れる電流のせいだ、とも。

そう思おうとした。

だが、震えは止まらなかった。
六隻目の艦の乗員を、追わなかった指。
演算の指示を、無視した指。

その指が、自分の指で、震えていた。

誰かに気付かれただろうか。
誰かに見られただろうか。

ふと、岩礁の遠く海岸沿いの補給基地に視線を移した。

ラトは、あそこにいる。
今頃、また機械を直しているだろう。
あるいは、妹に手紙を書いているか。
彼は、自分が殺した八千人のことを、知らない。

知らないでほしい、と思った。
初めて、そう思った。

メイサは、立ち上がった。
装甲の亀裂から、まだ蒼い火花が漏れている。
軋む音が、続いていた。

——救うたびに、私は壊れる。

彼女は、世界を守るために海を沸かした。
だが、その熱が冷める頃には、彼女自身の心もまた、原型を留めないほどに茹で上がっているのだ。

潮風が、ほどけた長い髪を撫でていく。

その風は、生温かった。
彼女が沸騰させた海から戻ってきた、数千の命の最後のリレー。

メイサはそれを胸いっぱいに吸い込んだ。
喉の奥が、焼けた鉄の匂いと、誰かの体温で噎せ返る。

肺の中に、自分が殺した者たちの欠片が満ちていく。

そうしなければ、立っていられなかった。

岩礁の突端で、彼女はまだ、海を見ていた。
焼け焦げた魚が、白い腹を見せて浮いている。

その風景の中に、彼女は一人だと思っていた。

——一人だと、思いたかった。

メイサの呟きは、誰の耳にも届かなかった。
彼女自身の耳にすら、届いていなかったかもしれない。

岩礁の突端に、彼女は立ち続けた。
潮風が、ほどけた長い髪を、何度も、何度も、撫でていった。
それを止める者は、いなかった。
それを見つめる者も、いないと、彼女は信じていた。


——だが。

その瞬間、世界の三つの場所で、計器が反応していた。

カイリオン、地下七階。
計器が、低く、唸った。
 「想定範囲、内」

ルミナール、皇帝直属の観測室。
ペンを置く、乾いた音。
 「あの女は、まだ完成していない」

そして——どこか、どの国にも属さない場所で。
音は、なかった。
ただ、誰かが、見ていた。
彼女が生まれた、その日から、ずっと。

メイサは、それを知らない。

岩礁の突端に、彼女はまだ、立っていた。
潮風だけが、ほどけた長い髪を、何度も、何度も、撫でていく。

その願いは、誰の耳にも届かなかった。
彼女が「一人」と呟いた、まさにその瞬間にも。


◆ルミナール戦記 外伝(note連載小説)

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