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ルミナール戦記 外伝―救済という名の呪い―第4話「南下する列車」


メイサ・ヴァルキリー
救うたびに、私は人間から遠ざかっていく。

前回のお話


第4話「南下する列車」

レイル・ガリアは、夜通し南を目指して走っていた。

鉄の骨格が軋む音と、枕木を叩く等間隔のリズム。メイサはその振動を、背骨で数えていた。

車窓の外はもう夜だった。
荒野に点在する村々の灯火が、流星のように後方へ流れていく。

どれも小さく、頼りない明かりだった。
あの一つ一つの下に、人間の夕食があり、誰かの眠りがある。

明日の朝、自分が沸かす海沿いの街にも、同じような灯火が瞬いているはずだ。
明後日には、消えている灯火が。

(……あれを、私は守っているのか)

壁の赤い光点は、今も等間隔で瞬いている。脳波、体温、残留電磁波。彼女の呼吸一つ分の揺らぎすら、どこかの帳簿に書き付けられている。
慣れた感覚だった。

指先を開く。
昨日、ラトが添えた手の温度が、まだ薄く残っている気がした。

——馬鹿馬鹿しい。
メイサは自分に苦笑した。
二十一歳のS級能力者が、安物のスープ一杯で、こんなに簡単に揺らぐはずがない。

壁のスピーカーが、無機質に作動した。

『個体名:メイサ・ヴァルキリー。明日〇六〇〇、海域C-7にて作戦行動。目標:帝国海上封鎖艦隊の殲滅。推定戦死者数:八千。資産価値の損耗予測、許容範囲内』

通信が切れる。

八千。

その数字を、メイサは一度だけ口の中で転がした。
味も、重さも、なかった。

——海域C-7。

あそこの海は、冬でも暖かいのだろうか。

メイサは、その問いを最後まで考えなかった。

不意に、扉がノックされた。
許可された入室のロックが、音もなく解除される。

「失礼します。夜食ってほどじゃないですけど、お茶、淹れてきました」

ラトだった。
手には陶器のカップが二つ。
昨日と同じ、少し大きすぎる補給兵の制服。
だが今日は、裾に油の染みが一つ増えていた。

「……頼んでない」

「はい。頼まれてないです」

ラトは悪びれずに笑い、テーブルにカップを置いた。
湯気が、冷えた空気に立ち上る。

メイサは、その湯気をしばらく見ていた。

明日の朝、自分が沸かすのは、海だ。
今、目の前で湯気を立てているのは、一杯のお茶。

——同じ手なのに。

カップを温めるのも、八千人を蒸発させるのも、同じ熱だった。

「でも、眠れないかなと思って」

メイサは黙った。
図星だった。
そしてそれを見抜かれたことに、怒りより先に困惑が来た。

「どうして……そう思ったの」

「列車の振動って、慣れないとつらいんです。特に、冷却明けの人は」

ラトは自分のカップを手に取り、もう一つをメイサの方へそっと押した。

その時、ラトの指が、ほんの一瞬だけ、メイサの指先に触れた。

パチッ、と微かな音がした。

静電気のような、だが少し違う閃光。
ラトは小さく息を呑んだ。
自分の指先を見て、苦笑した。

「……まだ、抜けきってないんですね」

メイサは、自分の手を見つめた。

焼け跡。
ラトの指の腹に、小さな赤い焦げ跡が残っていた。

メイサの指が、無意識にその跡へ伸びかけた。

——触れたい。
冷やしたい。
慰めたい。

だが、その指は途中で止まった。
触れれば、また焼く。
彼女の手は、そういう手だった。

メイサは、伸ばした指を、握りしめて引き戻した。

「……ごめんなさい」

「謝らないでください。茶碗を持つくらいは、慣れてますから」

ラトは笑った。
そして、自分の指の焦げ跡を、しばらく見つめていた。

何かを慈しむような、目だった。

「……綺麗な、跡ですね」

呟いた声は、メイサには届かなかった。

「砂糖、入ってません。大佐、甘いの嫌いですよね」

メイサの手が、止まる。

「……どうして、それを」

「ポスターです。去年の徴兵ポスター。『食堂で甘味を断る大佐』って見出しのやつ」

ラトは悪戯っぽく笑った。
メイサは、思わず小さく息を漏らした。
笑うのに、近い音だった。自分でも、少し驚いた。


ラトは、椅子ではなく床に座った。
当然のようにそうした。壁に背を預け、長い脚を折りたたんで、膝の上に何かを置く。

「……それは」

「古い時計です」

文字盤の割れた、くすんだ真鍮の懐中時計だった。
蓋が半分しか閉まらない。
ラトは、胸ポケットから小さな工具を取り出し、慣れた手つきで内部を覗き込み始めた。

「補給基地の倉庫で拾いました。捨てられてたんです」

「拾った?」

「直せば、また動きますから」

指先が、静かに動く。
精密な所作だった。
カチ、カチ、という微かな金属音が、車両の振動と重なる。

「僕、直すの好きなんです」

その声は、どこか独り言のようだった。

「壊れたものって、元の形を覚えているんですよ。ちゃんと見てあげれば、どこを直せばいいか、教えてくれる」

メイサは、ラトの指先を見ていた。
黒い油汚れが、指関節にこびりついている。
戦場の泥ではない。血の錆でもない。
誰かのために、何度も機械と向き合ってきた、手の汚れだった。

「……あなたは」

メイサは、自分でも思いがけずに問いかけていた。

「直すのが好きなのに、どうして、補給兵なの」

ラトの手が、一瞬だけ止まった。
だがすぐに動き出す。
彼は顔を上げず、指先に視線を落としたまま答えた。

「兵士になりたかったわけじゃないです。ただ、ここしか……拾ってくれる場所が、なかっただけで」

ラトの声は、淡々としていた。
悲嘆も、恨みも、そこにはなかった。
ただ、事実を述べているだけの声。

メイサは、問わなかった。
問えば、この脆い温度が、きっと壊れる。

メイサは、カップに口をつけた。
お茶は、ほんの少しだけ苦かった。


時計の針が、カチリと動いた。

「……あ」

ラトが小さく声を上げた。
割れた文字盤の下で、長針がゆっくりと、確かに回り始めていた。

「動いた」

ラトは笑った。
その笑顔は、無邪気だった。

メイサは、その横顔をじっと見ていた。

何かを諦めた人間の、穏やかな顔。
第一印象で、そう感じた。
だが今、動き始めた針を見つめる彼の顔には、確かに、小さな歓びがあった。

諦めたのではなく、諦めきれなかったのかもしれない。

——そう思った瞬間、メイサの胸の奥で、何かが微かに痛んだ。

窓の外。
遠ざかっていく村の明かりが、また一つ、夜の底に沈んだ。もうすぐ南部だ。

明日の夜には、海が見える。
そして、彼女はまた、それを沸かす。

(……私も、壊れているのかな)

ふと、そう思った。
ラトの手なら、自分も直せるのだろうか。

馬鹿げた考えだ。
メイサは、窓ガラスに映る自分の顔を見た。
肩から背に流れる、金の長い髪。蒼い瞳の奥に、薄い隈。
普段なら結い上げているそれを、今夜は解いていた。

指先が、無意識に軍服の襟へ伸びる。
詰襟のホックを、ほんの少しだけ緩めた。

鎖骨の上に、古い傷跡が走っている。

——十六歳の夏だった。
B級任務の最中、刃が肌を裂いた。
深くはない。だが、真っ直ぐに長い。
縫合する時間もなく、戦場で焼いて止血した。

その焼け焦げた線を、メイサは指先でなぞった。
肌は、薄く、冷たい。
戦闘以外で、誰かの指がここに触れたことは、一度もなかった。

医療技師の手袋は、触れていた。
点検対象として、冷たく、事務的に。
だが、「大丈夫?」と問う指は、来なかった。

——私の身体は、もう、誰のものでもない。

指先が、傷跡から離れる。
軍服のホックを、元通りに閉じた。

気付けば、息を止めていた。

壁の赤い光点が、等間隔で瞬いている。
ほんの一瞬、リズムが乱れた気がした。

メイサは、それに気付かなかった。

「大佐」

ラトの声が、静かに落ちた。
メイサは、指を止めた。

「……なに」

「もし、いつか」

ラトは、直った時計を胸ポケットに収めながら言った。

「もし、いつか、大佐も壊れちゃったら。僕に言ってください。……直せるかは分からないけど、見るくらいは、できます」

メイサは、答えられなかった。

馬鹿なことを言う、と思った。
S級能力者を、無能力の補給兵が直せるわけがない。
筋肉量も、戦闘技能も、彼には何もない。
演算結果は、無価値。

——なのに、なぜか。
メイサの胸の奥に、冷たい石が一つ、ほんの少しだけ、温度を持ったような気がした。

「……覚えておく」

それだけを、彼女は言った。

ラトは頷いた。
それ以上は、何も聞かなかった。

しばらくして、ラトは立ち上がった。

「おやすみなさい、大佐。明日も、朝食、持ってきますから」

扉が閉まる。
部屋に、また一人になる。

メイサは、冷めかけたお茶を見つめた。
少し苦い、ぬるい液体。
市場価値に換算すれば、ただの茶葉の搾りかす。

それなのに、彼女はそのカップを、両手で包み込むように持っていた。

壁の赤い光点は、今も等間隔で瞬いている。
誰かの帳簿に、今の彼女の心拍が記録されている。

だが今夜だけは、それを少しだけ、遠くに感じた。

遠い窓の外。
地平線の向こうに、南部の気配が、わずかに滲み始めていた。

列車の最後尾、誰もいないはずの貨物車両で。
微かな通信機の作動音が、夜風に紛れていた。

『……対象、生体反応に異常変動。記録、継続』

その音は、誰の耳にも届かなかった。

列車は、夜を切り裂いて、南へ走り続けた。


◆ルミナール戦記 外伝(note連載小説)

◆自己紹介記事


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