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ルミナール戦記 外伝―救済という名の呪い― 第11話「鏡の中の灰色」


メイサ・ヴァルキリー
救うたびに、私は人間から遠ざかっていく。

前回のお話


第11話「鏡の中の灰色」

扉が閉まる音が、独房棟の廊下に残った。

カニンガムは三歩、歩いた。四歩目で、立ち止まった。

廊下の突き当たりに、洗面台があった。
執行を控えた医療要員のための、簡素な手洗い場。鏡が一枚、上に掛かっている。

彼はそこへ歩いた。歩いている自分に気付いていた。気付きながら、止められなかった。

蛇口を捻ると、冷たい水が流れた。

彼はまだ、手を洗わなかった。代わりに、鏡を見た。

六十代の男が、そこにいた。
白いシャツの襟元は整っている。髪は乱れていない。瞳は、いつも通り、灰色をしていた。

灰色。ただの、灰色。

彼はその灰色を、長く見た。

光が、ない。彼の瞳の奥に、光がなかった。

それは五年前から、なかった。十年前にも、なかったかもしれない。彼自身、いつからなかったのか思い出せなかった。思い出さないようにしてきた、というのが正確だった。

たった今、独房で見た、あの蒼い瞳。グリッド線の走らない、ただ静かな、あの蒼い瞳。

あの瞳の奥には、欠片のような光が、確かに在った。

削除点を演算する戦闘時の、あのグリッド線の光ではない。今朝、雨上がりの粒子を見ていたと報告書に上がっていた、あの種類の光だった。
彼が数年間、「バグ」と分類し、神経再構築の名のもとに削除してきた、まさにそれだった。

そして自分には、それが一欠片もない。

胃の奥から、何かがせり上がった。

彼は洗面台に手を突いた。吐く前にこらえた。
こらえながら、思った。

私は、何を効率化してきたのだろう。

答えは、すぐに出た。
自分の瞳から、光を削除してきた。

市民の食卓を守るという名目で。インフレを抑制するという論理で。〈安上がりな平和〉という言葉で。

その全部が嘘ではなかった。
市民の食卓は、確かに守られた。

ただ、その代償に削除されたものの一覧表に、彼自身の瞳の光も入っていた。

彼はそれを、たった今、知った。
知ったが、もう戻せなかった。

戻せないということを、彼は鏡の中の灰色の瞳から教えられた。

蛇口の水が、流れ続けていた。

彼は手を出した。水の下に、両手を入れた。冷たかった。

いつもなら、ここで消毒液の小瓶を、ポケットから出す。今日は、出さなかった。出す気力がなかった。

彼は、ただの水で手を洗った。

二十秒。三十秒。一分。

洗っても、何かが落ちなかった。彼自身、何が落ちないのか分からなかった。

ただ、洗い続けた。

洗い続けながら、彼は自分が震えていることに気付いた。肩から、肘へ、指先へ。
微細な震えが伝わっていた。

それは、彼の人生で初めての種類の震えだった。
計算結果に反した震え。生理にすら入らない震え。彼の身体は、それを何と分類していいのか知らなかった。

彼は目を閉じた。閉じても、鏡の中の灰色は瞼の裏に残っていた。

あと、三十分。

彼は時計を見ようとして、止めた。

時刻を確認すれば、執行までの残り時間が可視化される。可視化された数字に、自分が安堵するか、それとも別の何かを感じるか。それを、知りたくなかった。

彼は蛇口を閉めた。濡れた手を、白いハンカチで拭いた。ハンカチはすぐに湿った。

湿ったハンカチを、彼はポケットにしまった。

いつもなら、湿ったハンカチは即座に廃棄する。今日は、捨てる場所が見つからなかった。

彼は廊下を、もう一度歩き始めた。革靴の音は、いつも通り、硬質な床に響いた。

ただ、一歩一歩の重さが、来た時より、ほんの少しだけ増していた。



独房。

メイサは扉が閉まる音を、しばらく聞いていた。
残響が消えてから、ようやく息を吐いた。

吐いた息が、自分の予想より少し震えていた。

彼女は自分の指を見た。組まれたまま、動いていなかったはずの指。その関節の内側に、汗がにじんでいた。
彼女自身、気付いていなかった。

勝ったのは、私の方だ、と思った。だが、勝ったということが、こんなに重いとは思わなかった。

彼女は窓辺に戻った。

太陽がもう低くなっていた。影が長く伸びていた。
外で海鳥が一羽、鳴いた。

彼女は軍服の内ポケットに手を入れた。ラトの白い布が、まだそこにあった。小さく、温かかった。

彼を、守った。

彼女は自分に確認するように呟いた。声は出さなかった。

守ったという言葉を、彼女は何度も口にしてきた。連邦を守った。市民を守った。市場を守った。だが、その「守った」はいつも、誰かが彼女に与えた言葉だった。

今日、彼女は初めて、自分の言葉で、誰かを守った。
その言葉が初めて、彼女の身体の中に収まった。

彼女は布を握った。

あの男、カニンガムは、記録から外すと言った。
私の権限で約束する、と。

その言葉を、彼女は信じた。信じる、と決めた。

ただ、信じると決めることと、それが守られることは、同じではなかった。彼女はそれを知っていた。

あの男の権限が、参謀本部の前でどこまで通るのか。
彼女には分からなかった。約束が明日も、来月も生きているという保証は、どこにもなかった。

それでも、と彼女は思った。

今日だけは、信じる。守られないかもしれないと知りながら、それでも今日は、守ったと信じる。

それは論理ではなかった。論理であれば、確率を計上し、保証のない約束を割り引いたはずだった。

彼女は、割り引かなかった。
初めて、自分の意思で、割り引かないことを選んだ。

明日、私は別の何かになっているかもしれない。

神経再構築によって、この数年間のすべてが「バグ」として削除され、連邦にとって都合の良い、ただ命令の通りに動く器に書き換えられているのだとしても。

だが、ラトはラトのまま、明日を迎える。彼の妹は、リンゴを食べる。海は、海のまま、広い。

それでいい、と思った。初めて、自分でそれでいいと決めた。

ふと、思った。

今朝、ラトが彼女に渡したリンゴは、軸の傾いた、不格好な一つだった。あれと同じ形のリンゴが、もう一つあったはずだった。妹に送る、六つの中に。

彼女は、そのリンゴが今どこにあるかを知らなかった。知るはずがなかった。彼女はこの独房の中にいて、ラトは別の場所にいる。

ただ、感じるということが、彼女にはまだ許されていた。兵器ではなく、人間として、感じることが。

彼女は、自分の内ポケットの白い布に、もう一度触れた。布は、彼女の体温で温まっていた。

どこか別の場所で、何かが、誰かを温めている。

その確信は、論理の外から来た。
来たのに、揺らがなかった。



同じ頃。基地の補給路。

ラトは伝票の束を抱えて、独房棟の脇を通る通用路を歩いていた。補給兵が荷の確認のために通る、いつもの動線。立ち止まる理由のない道だった。

通路の先で、人が動く気配があった。
儀仗兵が独房棟の一室の扉を警備し始めている。何かが始まろうとしていた。

彼の歩調は、変わらなかった。

変えれば、見咎められる。連邦軍の監視網は「いつもと違う動き」を最も警戒する。

今、ラトに必要なのは「いつも通りの補給兵」を演じきることだった。それだけが、メイサの願いを守る唯一の方法だった。

彼の手が、上着の内側に伸びかけた。
手紙の縁に、指が触れた。

出すか。出さないか。

いや、と彼は思い直した。

手紙を出すことは、ラト自身の救済になる。
だが、メイサの救済にはならない。

プロは、感情で動かない。

兄の言葉だった。兄は生前、村の小さな商店で物流を回していた。在庫の流れ、需要の予測、誰の家に何を届けるか。彼の目は、村の生命線そのものを読んでいた。

その兄が、九歳のラトに何度も言った言葉。

「プロは、感情で動かない。プロは、必要なものを、必要な人に、必要な時に、届ける」

ラトは上着から手を引き抜いた。手紙は出さなかった。

代わりに彼は、歩きながら、ポケットの中のリンゴを握った。今朝の、軸の傾いた、一番不格好な一つ。

大佐は、選んだのかもしれない。
選んだのなら、俺は邪魔をすべきではない。

彼はそう思った。
なぜそう思ったのか、彼自身にも分からなかった。

ただ、独房棟の壁の向こうから、何かが彼に届いた気がした。

歩調を緩めなかった。
壁に触れもしなかった。立ち止まりもしなかった。

ただ、すれ違いざまに、声に出さず、唇だけを動かした。

大佐。俺は、まだ、決めていません。
でも、今日は、邪魔はしません。

唇は、誰にも読まれなかった。歩哨は、伝票を抱えた補給兵に、何の関心も払わなかった。
補給兵が補給路を通る。それは毎日見る光景だった。

大佐の時間が、止められたとしても。

彼は歩きながら、心の中だけで続けた。

俺は、それを覚えています。止まる前の、今朝の大佐を。リンゴが甘いと言った大佐を。

いつか、必ず。

その一言だけは、胸の奥で、はっきりと形にした。

俺が、あなたの時間を、動かしに行きます。

返事はなかった。あるはずがなかった。

だが、ラトの中で、何かが決まった。

それは誓いという形をしていた。誰にも届かない、誰にも証言できない、補給兵一人の、ただの誓い。

それでも、彼自身はそれを聞いた。聞いた人間が一人いれば、誓いは、誓いとして成立する。

兄が、九歳の彼に教えたことの、もう一つの形だった。

ラトはそのまま補給庫に入った。
日課の点検を、いつも通りにこなした。物流伝票に、いつも通りの記録を、いつも通りの筆跡で書いた。

妹宛ての荷物の項目には、こう書いた。

〈リンゴ六個、藁包み。本日午後、列車便にて発送〉

嘘ではなかった。リンゴは確かに、六個分の重さで、箱の中にあった。

五個のリンゴと、一つの時計の重さは、合わせて、六個のリンゴとほぼ同じだった。

補給兵としての、彼の最後の偽装だった。

その時計は、今朝、ラトが自分の手で細工したものだった。

神経再構築は、記憶を削除する。
脳の神経パルスを書き換え、固有の記憶を「バグ」として削ぎ落とし、後には命令に従う器だけが残る。連邦が誇る、完璧な技術だった。

だが、物流のプロだった兄から、ラトは一度だけ、こんな言葉を聞いたことがあった。

「人間の脳は、ただの記録媒体じゃない。特定の音や匂いに紐づいた感情の回路だけは、どれだけ消そうとしても、肉体の底に、染みとして残る」

兄の言葉に、根拠はなかった。証明もされていなかった。

それでも、ラトはその言葉に賭けた。

彼は、時計の内部の歯車に、爪の先で微細な傷をつけた。秒針が時を刻むたび、金属がわずかに擦れ、硬く、乾いた、かすかな音が鳴るように。

それは、今朝、雨上がりの光の中でメイサがリンゴをかじった時の、あのシャリ、という音によく似ていた。同じ、硬くて乾いた響き。

記憶を消され、すべてを忘れた大佐が、いつか、この時計の音を聞いた時。彼女の身体の底に残った染みが、削除されたはずの「今朝の光」を、思い出すかもしれない。

その時こそ、止まった彼女の時間が、再び動き出す。

根拠は、なかった。兄の言葉と同じだった。それでも、彼はそれに賭けた。

彼は伝票を提出した。受領印が押され、荷物は夕方の列車便に積まれることになった。

補給庫を出る時、彼はポケットの中のリンゴを、もう一度握った。リンゴはまだ温かかった。彼の体温で温まっていた。

兄が言った言葉が、もう一度、頭をよぎった。

プロは、感情で動かない。プロは、必要なものを、必要な人に、必要な時に、届ける。

彼は必要なものを届けた。必要な人に、必要な時に。

ただ、その「必要な人」が誰なのか。
妹なのか、メイサなのか、それとも自分自身なのか。彼自身、まだ分かっていなかった。

補給庫の窓から独房棟の方を、彼はもう一度見た。
夕日が独房棟の壁を、赤く染め始めていた。



午後三時四十五分。第七監視室。

モニターの中で、メイサの心拍がゆっくりと平常域に戻っていった。

若い監視員はそれを見ていた。

「……戻りました。心拍、脳波ともに安定。グリッド線の乱れも、ありません」

「戻ったのではない」

年配の監視員が、後ろから言った。

「あれは、執行に怯える人間の数値じゃない。神経再構築を前にして、この安定はありえない。……これは、諦めの数値でもない」

彼はしばらく画面を見ていた。

「諦めた人間は、こんな顔はしない」

若い監視員は、何も言えなかった。

年配の男は、これまで数多くの「使い古された能力者」が、この処置によって、ただ命令に従うだけの器に変わっていくのを見てきた。

施術台に上がる前の彼らの目には、いつも、恐怖か、虚無か、そのどちらかがあった。

メイサの目には、どちらもなかった。

彼は若い監視員の手から、そっと端末を引き取った。記録欄に、定型句を打ち込んだ。

〈個体、安定。執行への心理抵抗、認められず〉

打ち込んでから、彼はその一行を、長く見ていた。

〈安定〉という単語が、こんなに重たく感じられたのは、初めてだった。

その重さが何なのか、二人とも、まだ分からなかった。

ただ、画面の中のメイサは、最後まで静かだった。



午後四時。独房。

扉が開いた。

白衣の医療兵が二人、入ってきた。
彼らの手には、清潔なシーツに包まれた、神経再構築の術式に用いる器具があった。

メイサは振り返った。軍服のまま、立ち上がった。

軍規通りの所作だった。その凛とした佇まいに、医療兵の一人が、わずかに足を止めた。

医療兵のリーダーが、居住まいを正して声をかけた。

「メイサ・ヴァルキリー大佐。隣室への移動をお願いします」

「はい」

彼女は頷いた。

歩き始める前に、彼女は一度だけ窓の外を見た。

太陽はまだ、海の上にあった。
沈むには、少し間があった。

その光景の中に、ラトの姿はなかった。いるはずもなかった。彼女はそう、自分に言い聞かせた。

ただ、海風が独房の窓から流れ込んでいた。
風の中に、わずかに湿った匂いが混じっていた。

雨上がりの匂い。
今朝、彼女がリンゴを食べた、あの朝の匂い。

メイサは目を閉じた。
胸ポケットの白い布の感触を確かめた。

明日も、こうだったらいい。

今朝の願いを、もう一度思い出した。今度は馬鹿げてはいなかった。ただ、誰かのための願いに変わっていた。

彼女は目を開けた。

その瞳の奥には、もう、削除点を演算するグリッド線はなかった。代わりに、欠片のような、静かな光が灯っていた。

カニンガムが恐れ、ラトが信じた、あの蒼。

彼女はその光のまま、医療兵に、ただ頷いた。
誇りもせず、脅しもせず。ただ、人間の目で。

扉の方へ歩き始めた。軍靴の音が、硬質な床に響いた。一歩、一歩、確実に。

扉が閉まる、その直前。

彼女は内ポケットに手を当てた。白い布はまだそこにあった。まだ、温かかった。

扉が閉まった。独房は空になった。

壁の四隅で赤い光点が、等間隔に瞬いていた。
その瞬きは、いつもと変わらなかった。

だが、誰も、もう、それを見ていなかった。


◆ルミナール戦記(note連載小説)

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