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柳瀬博一/富士山と古墳と国道16号線

 2021年2月11日。私は千葉をひとりで走っていた。
 自動車で。
 昨年11月、このウィッチンケアでもしばしばとりあげてきた『国道16号線』について、新潮社から本を出した。
 出してわかった。自分はまだこの道のことを何も知らない。
 この日は改めて、千葉県を通る16号線エリアがどんな地形をしているのか、この目とこの体で確かめたくなった。
 きっかけは「古墳」である。千葉県には実は数多くの古墳がある。しかも本格的な前方後円墳がいくつも。その話を私は資料や書籍で知っていた。本にもその話を触れた。
 改めて、古墳をつくった人々の目線で、現場で登ってみよう。


 朝、都内の家を出て、首都高から東京アクアラインを潜り、東京湾を横断して木更津へと向かった。
 風が強い。空は青い。東京湾の波が眩しい。そして道は空いている。車はあっという間に木更津の先のインターチェンジについた。高速道路を降りるところから、火力発電所越しに、冬富士がどーんとみえる。
 16号線に入り、富津の岬をめざす。海沿いのまっすぐな道を進み、富津市内の古い街道をくねくねと走り、富津岬の公園に到着する。公園の入り口から岬の先端までおそらく1キロ以上ある。
 潮が運んできた砂と泥が描いた弓のような富津岬。低い松林を抜けると、視界が開けて、左右正面すべてが海になる。
 展望台にあがる。柵が低い。背は高い。風が強い。吹き飛ばされそうだ。怖い。でも、それ以上に景色が広い。空が広い。360度、視界を邪魔するものはなにもない。
 富士山が大きい。橋頭堡の先、三浦半島のつけね、追浜から田浦のあたりのむこうに白い山頂を輝かせている。
 東京湾がぐるりと一望できる。ほぼ向かいには、猿島が見える。その奥には米軍基地と横須賀の市街。左手にぐいっと海沿いの街並みが伸び、観音崎の緑がこちらに迫っている。上に防衛大学の施設。下には、京急ホテルと横須賀美術館。走水だ。
 日本武尊は走水から富津まで、4、5キロの浦賀水道を船で渡ってやってきた。途中で海が荒れて、妃の弟橘媛が身投げをして、嵐を鎮めたという。
 この日も風が強かった。白波が立ち、パラサーフィンのパラシュートが激しく上下動する。その一方で、かつての東海道がこの浦賀水道だったことも、実感できる。三浦半島と房総半島が本当に近いことも、海岸に立つと実感できる。夜、火を灯せば、信号がおくれる距離だ。南に目を向ければ、館山と観音崎のあいだ、無数の船が並んでいる。
 釣り船だ。四角い船が横切る。東京湾フェリーだろう。そのむこうの水平線は太平洋だ。左の房総半島の山の上には、巨大な観音像がそびえている。
 東京湾の北を見る。横浜スカイツリーが聳える横浜の街、ベイブリッジ、羽田空港、その先に東京の街なみ、スカイツリー。先ほど走ってきた東京アクアラインがまっすぐ横に伸び、ぼんやり千葉の海沿いの街。そして、市原、君津の火力発電所の煙突。
 建物を自分の視界からむりやり消せば、日本武尊の一行が見たのとおそらく千数百年前と大して違わぬ自然が眼前に迫っている。
 興味深いのは、東京湾を隔ててものすごい自己主張を見せる巨大な富士山について、日本武尊の富津上陸に至るまでの東海道の道のりを通じ、日本書紀も、古事記も、まったく触れていないのだ。
 見えなかったはずはない。見えすぎる。なのに書いていない。実に面白い。
 富津の公園を離れて、16号線の起点に向かう。片道1車線のT字路、「富津」の看板からはじまる。その角には煉瓦色のアリス、というパン屋さんがある。残念ながら休みだった。チョココロネがおいしいのだが。
 起点から16号線を3キロほど北上し、富津の古墳群へと向かう。
「富津・古墳」で、ググってみてほしい。たくさんの古墳が即座にマッピングされるはずだ。
 なかでも内裏塚古墳。グーグルマップの写真でもはっきりわかる見事な前方後円墳である。
 ここを目指そう。
 16号線を右折して、内房線の踏切をわたる。手前に「東京湾口道路を」という看板がある。かつて、16号線を完璧な環状道路として完成させる富津と走水を橋で結ぶ構想があった。東京アクアラインが開通したいま、もう1本海上道路を通すことはおそらくないだろう。
 1980年代の大友克洋の『AKIRA』で描かれた2020年の東京湾は埋め立てられ、縦横無尽に高速道路がはりめぐらされていた。そんな時代の未来の残滓が看板となって残っている。
 内房線の踏切を越えると、真っ平らな土地が広がっている。道沿いにあるのは住宅と空き地だ。神奈川側の16号線沿いにはない地形である。房総半島の海沿いの低地は、神奈川の三浦半島から横浜にかけてと比べると桁違いに広い。
 三浦側は、台地や丘陵のてっぺんから海までがほぼ直結しているところが多い。小流域が直接海に注いでおり、海に「谷戸地形」がそのまま接していたりする。横須賀の16号線沿いは8つのトンネルがあるが、まさに小流域を貫いている証拠である。
 房総半島の海岸沿いにトンネルはない。中央部の丘陵地帯から流れ出る川が、三浦半島に比べるとはるかに大きいからだ。海岸沿いを走る16号線は、いくつもの2級河川をわたる。川は沖積平野をつくり、河岸段丘をつくり、河口部は砂丘をつくる。
 富津の古墳群は、現在の東京湾岸から1〜2キロほど内陸に入ったところにある。ただこの海岸線は埋め立てられてできたものだ。古墳がつくられた5〜7世紀の海岸線は、さきほどわたった内房線のすぐ先だったはずだ。
 古墳群が並ぶのは、小糸川河口に発達した砂丘の上だった。真っ平らにみえる土地だが、たしかに小糸川沿いにくらべるとちょっと高い。川沿いは田んぼの風景なのに、古墳群の周囲は、住宅と空き地と畑である。
 古代、海ぞいの16号線(=東海道)を歩いたり、あるいは海を船で移動していると、砂丘の上にぽこんぽこんといくつも並ぶ古墳群はかなり壮観は景色だったのではないか。ウィキペディア情報によると、前方後円墳だけで11、全部で47もの古墳がある。田んぼの文化が入るまでは、荻や葦がおいしげっていたような土地だったろう。それを、昔の人は冬にいっせいに火入れをして、野焼きをし、春に田んぼにしていったのかもしれない。
 弥生時代から古墳時代にかけて伝来した田んぼのふちの砂丘のうえに、数多くの古墳がつくられた。いちばん大きい前方後円墳の内裏塚古墳にのぼってみた。全長144メートル。周囲は住宅にぐるりと囲まれている。古墳全体は、常緑樹を中心に木や笹や竹でおおわれている。
 急な階段をあがると石碑がたっている。周囲はうっそうとした常緑樹。タブやアカガシが中心である。太い木がない。根っこから数本、幹がのびている。太さから勘案すると、30〜40年ほど前にいちど間伐した模様だ。
 斜面の木も同様で、それほど古くない昔に、一度大きめの木を切って、そこから萌芽更新させた木が目立つ。反対側におりていくと、落葉樹中心で葉っぱがないため明るくなる。コナラや桜が目立つ。
 こんな古墳が、周囲にいくつも残っているのだ。住宅と空き地の間に古墳がある景色。それをみてひとつ言えることがある。ここにずっと人々のかなり大きな営みがあった、ということだ。
 千葉の海岸沿いからは日本で最も縄文時代の貝塚が見つかっている。つまり数千年から1万年前から、数多くの人々がここで暮らしていた。
 そして、時代は降って古墳時代。4世紀から7世紀にかけて、数多くの古墳がつくられた。いずれの古墳も川がつくった河口エリアの低地や砂丘の上にある。地形を利用したわけではないから、膨大な人手が必要だったはずだ。
 膨大な人手をまとめるには権力が必要だが、それ以上に膨大な人手の食い扶持が必要だ。大量の古墳の存在は、大きな権力の存在と同時に、この地に確固たる農業文明が根付いていて、食い扶持=米作がおそらく根付き、たくさんの人々の暮らしがあったことを物語る。
 いまから千数百年前の富津。海沿いの砂丘に大きな石造の前方後円墳が並ぶ。砂丘の向こうの川沿いの低地にはたくさんの田んぼがあり、集落がある。古墳と田んぼはセットだ。さらにいえば、権力とたくさんの人々の暮らしがセットだ。どんな権力だったのか。暮らしていた人たちはどこからやってきたどんな人たちだったのか。
 この日は、あえて調べない。実際に車で走って、足で歩いて、古墳を登った「実感」だけで想像することにする。
 日本有数の豊かな海、東京湾。縄文時代には大量の人々が住み着いていた。弥生時代を経て古墳時代。縄文から数えると3000年が経っている。なんと、いま現在から弥生時代と同じくらいの年月である(そう考えると、このわずか150年ほどの産業革命以降の文明の発達のスピードがいかに凄まじいことか)。縄文人は田んぼ文明が弥生時代以降にもたらされたときまで、この地にい続けたのだろうか。それとも、戦いがあったのか。融和したのか。混ざり合ったのか。
 確実にいえることは、かつて貝塚があった千葉の16号線沿いの海岸近くのエリアは、田んぼ文明が定着し、巨大な古墳がいくつも作られるほどの人口と技術を兼ね備えた集落があった、ということだ。
 そこに暮らす人々にとって、古墳をつくる仕事に参加することと田んぼをメンテナンスすることは、どちらも「日常」になっていたのかもしれない。為政者は、古墳づくりに参加することをインセンティブにしたり、案外お祭りにしていたのかもしれない。
 妄想するとキリがない。このあと検証していくことにしよう。
 富津の古墳群を離れ、木更津のイオンモールへ行く。海沿いに設けられたものすごく広い施設だ。2階建の建物が城壁のように続く。中規模都市のダウンタウンのサイズに匹敵するだろう。店内では自動車も売っている。外車も日本車もごっちゃに並んでいる。となりは巨大な映画館。そとにはフットサル場がある。
 お客さんは多様だ。子育て世代、老人夫婦。高校生。若いカップル。ちなみに、俗に言う「マイルドヤンキー」的なイメージのひとたちはほとんど見かけない。みなさんがマイルドヤンキーのイメージは安手のワンボックスに、ジャージにスニーカーにきらきらアイテム。……というファッションの人たちはまったくいない。
 もしかすると、マイルドヤンキーというのは、10年前の「普段着」がジャージだったファッションのことであり、人々の属性ではなかったのではないか、とふと思う。この店にはH&Mが入っている。そう、いま郊外型モールは、ZARAやユニクロなどをふくめ、ファストファッションがテナントの中心だ。ユニクロはアイビーが基本である。郊外でも都心でも一番手に入りやすくなったこうしたファストファッションに身を包むと、その人の属性は見事に消えてしまう。
 モールを出て、16号線で今度は我孫子に向かう。我孫子には手賀沼沿いの古墳群がある。
 16号線はところどころ混雑するが渋滞で止まるというほどではない。
 自動車で移動すると、あらためて千葉が大きいことを実感する。「千葉」とひとくくりするのは体感にあわない。安房、上総、下総と3つにわけていた藩の時代、戦国の時代の国の感覚の方が実態に足している。
 手賀沼の周辺は混雑していた。周囲には道の駅はじめ、地元物産をうる施設が3つあるが、いずれも満車である。橋をわたって、我孫子の古墳群につく。車を止めて、歩く。急な階段を延々と上がる。台地の縁に、子の神古墳はあった。いまは子之神大黒天・白花山延寿院がどんと鎮座している。巨大ないちょう、けやきがひかえる。木々の間からみえる手賀沼の水面がうつくしい。古墳を出る。周囲は台地のうえの住宅街だ。きれいな家並みがめだつ。もともとこの台地の価値が高かったことがわかる。麓には、お城のような木造の旧家の屋敷がある。似たような意匠の屋敷は、手賀沼の反対岸の高台にもあった。いったいどんな地位の人の家なのだろう。
 隣の古墳群を見て回る。手賀沼の古墳と富津の古墳は、全く異なる点がある。手賀沼の古墳群は、沼に面した下総台地の縁の地形をそのままいかしている。では、その古墳群が見下ろす手賀沼におりてみる。
 いきなりコブハクチョウの群れがいた。古墳のてっぺんにのぼって広々とした手賀沼を見て、沼の淵にたたずんていたとき、妄想が巻き起こった。
 かつて手賀沼は印旛沼、霞ヶ浦がつながって、巨大な内海である香取海を形成していた。西からやってきたひとたちは、この香取海をみて、琵琶湖、あるいは大阪湾を思い出したのではないか。そして畿内の景色を見立てていたのではないか。
 手賀沼の景色は、静かで大きい。神奈川サイドにもそういうエリアがある。鶴見川の中流域、寺家故郷村と新治のエリアだ。低地がひろく、田んぼがひろがり、低い丘陵地が点在する。こちらには奈良からやってきたひとが定住した。奈良団地をふくめ関西の地名がいくつもある。この地域の景色が奈良盆地と似ていたからだという。
 香取海が広がっていた手賀沼近辺に居を定めた関西の人々は、故郷をここにみたのではないか?
 などと妄想を広げながら、手賀沼を離れ、裏道を通り、柏へと向かう。千葉の16号線の旅は、まだまだ始まったばかりだ。続きはまた別の機会に。


【初出:2021年4月/ウィッチンケア第11号掲載】



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