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AIは人類の知恵を学習していない

最近、もどかしくて仕方がない。

いや、正確に言うと、

ずっと感じていた違和感の正体が、ようやく見え始めた。

昔からずっと不思議だった。

「なんで、こんなんが流行るんだろう。」

もちろん、おもしろいものもある。

でも、私にはどうしても惹かれないものが多かった。

見終わった瞬間に忘れる動画。

数分だけ盛り上がるニュース。

その場で消費されて終わるだけの情報。

私はずっと、自分の感覚がおかしいのかと思っていた。


でも違った。

怒っているのは、SNSじゃない。

AIでもない。

GoogleでもYahooでもない。

私が引っかかっていたのは、

価値あるものが、必要な人に届きにくい構造だった。


世の中には、

人生を変える考え方がある。

何年も積み重ねられた知恵がある。

誰にも知られていないけれど、本当におもろい情報がある。

それなのに、

そういうものほど見つからない。

検索しようと思っても見つからない。

その代わりに、

反応しやすく、

消費しやすく、

すぐに忘れ去られる情報が、

毎日大量に流れてくる。


私は今、

どんな情報の構造の中にいるんだろう。


なんでこんな情報ばっかり?

私は食べることが好きだ。

かなり好きだ(笑)。

だからSNSを開くと、

おすすめには食べ物の情報がたくさん流れてくる。

「あ、ここ美味しそう。」

「今度行こう。」

「こんなお店があるんだ。」

これはちゃんと役に立っている。

実際に行くこともある。

だから私は、食べ物の投稿を否定したいわけではない。


でも、その合間に流れてくる情報を見ていると、

あることに気づく。

芸能ニュース。

バズ動画。

ランキング。

「これをするだけで。」

「おすすめ3選。」

「衝撃の結末。」

気になってみて見る。

けど、最後まで見ても、

「で?」

と思うことが少なくない。


スクロールした瞬間、

もう何を見たのか思い出せない。

しかも食べ物ですら、

別のアカウントが、

同じお店を、

何度も、何度も、何度も、紹介してくる。

情報はあふれている。

でも、

新しい発見はかなり少ない。

私は情報が欲しいと思っている。

けど、何度も似たような情報が欲しいわけじゃない。

「あ、これ面白い。」

そんな雑草みたいな情報に出会いたい。

人生が豊かになるような考え方に出会いたい。

でも最近は、

情報が増えたはずなのに、

そういう出会いが圧倒的に減っている。


そこで、ふと思った。

この情報を届けようと決めているのは、

誰なんだろう。


誰が決めてるの?

最初はAIのせいだと思った。

最近は何でもAIだ。

おすすめも。

検索も。

動画も。

だから、

「AIがこんな世界にしたんだ。」

そう思った。


でも、少し考えると違和感があった。

AIが登場する前から、

Yahooのトップニュースも似たようなものだった。

テレビもそうだった。

もっと言えば、

雑誌の表紙だって、

本だって、

「売れるもの」が並んでいた。

じゃあ、AIだけの問題じゃない。


次に、

SNSが悪いのかとも思った。

でも、

Yahooも。

Googleも。

YouTubeも。

TikTokも。

Instagramも。

おすすめの仕組みは違うのに、

流れてくる情報は、どれもこれもがどこか似ている。

これも違う。


じゃあ、

Googleが悪いのか。

Yahooが悪いのか。

そう考えてみても、

結局どの会社も、

似たような方向へ進んでいる。

どこか一社の問題だけじゃない。

もっと大きな何かがある。


ここで、ふと考えた。

もし私が、

情報を届ける会社の社長だったら。

毎日何千万件もの記事や動画、情報が集まってくる。

全部なんて見ていられない。

だから、

「おすすめ」を作らなければいけない。

足切りの条件を決めなければならない。

さて、

何を基準に選ぶだろう。

価値があるもの?


……と言いたいところだけど、

価値って何だろう。

お金を生む記事。

人生が変わる記事。

十年後にも残る知恵。

もしかしたら、

歴史的な価値をも生むかもしれない情報。

そんなものを、

コンピューターはどうやって判断するんだろう。


……やっぱ数値だよね。

クリックされた回数なら簡単に分かる。

最後まで見られた時間も分かる。

いいねの数もわかる。

シェアされた数も分かる。

コメントの数も分かる。

つまり、

測れる。


ここで、

少し見えた気がした。

AIが選んでいるんじゃない。

Googleが選んでいるんじゃない。

Yahooが選んでいるんじゃない。

測れるものが選ばれている。


ここまでは、

すごく合理的だ。

私がその立場でも、

たぶん同じことをするのかもしれない。

でも、

この瞬間、

別の疑問が浮かんだ。

そもそも人間って、何に反応するんだろう。


人は何に反応するのか

ここで、少し立ち止まって考えてみた。

例えば、Yahooを開いたとする。

こんな二つの記事が並んでいたら、

私はどちらを開くだろう。

「法案が可決されました」

「コスパ最強ランチ5選」


……

たぶん、ランチを見る(笑)。

政治に興味がないからじゃない。

今日のお昼ご飯に使えるから。

今の私に近いから。


同じように、

「最新のAI研究」

より、

「ChatGPTで仕事が3倍速くなる方法」

のほうが開きやすい。


「認知科学の最新論文」

より、

「人間関係がラクになる3つの考え方」

のほうが気になる。


たぶん、これを読んでいる人も同じじゃないだろうか。


人は、

自分に関係があるもの

に反応する。


しかも、

すぐ理解できるもの。

すぐ使えそうなもの。

すぐ感情が動くもの。


これは悪いことじゃない。

むしろ普通だ。

私だってそうだ。


ここで、ふと思った。

もし私がAIだったら。

AIは、

毎日何億件ものデータを見て、

「人間は何に反応するのか。」

を学習する。

すると、

当然こう学ぶはずだ。


人は、

食べ物に反応する。

恋愛に反応する。

ランキングに反応する。

炎上に反応する。

驚きに反応する。

芸能ニュースに反応する。

AIは人間の知性を学習しているんじゃない。

人間の反応を学習している。


……

ここで、

ちょっとゾッとした。


人間って、

反応したものと、

人生に残るものって、

同じじゃない。

ここ、全然違う。


例えば私は、

本屋でたまたま手に取った一冊で、

考え方が変わったことがある。

誰かとの何気ない会話が、

十年以上残っていることもある。


でも、

昨日見たバズ動画は思い出せない。

昨日の芸能ニュースも思い出せない。

昨日見たおすすめ5選の方法なんて思い出せない。

何も残っていない。


反応はしたのかもしれない。

でも、

考えや行動が変わったことなんてない。


ここで私は、

一番怖いことに気づいた。


もしAIが、

これから先も、

「人間が反応するもの」

だけを学び続けたら、

これから先、

社会にはどんな情報が増えていくんだろう。

どんな情報を見せられ続けるんだろう。

私の手元には、

どんな情報が残るんだろう。


あれ。

ここで、また一つ疑問が浮かんできた。

そもそも、お金はどこへ流れるんだろう。

この構造の中、

誰が一番得しているんだろう。

誰が一番儲けているんだろう。


もし私が会社を経営していたら。

広告を出すなら、

どこに出すだろう。


……

当然、

人がたくさん集まる場所だ。

そして、

今の時代は、

人が反応する場所になる。

広告は、

見られなければ意味がない。

クリックされなければ意味がない。

人が反応する場所へ、お金が流れ続ける。

ここまでは当たり前だ。

でも、

その先を考えたことはなかった。


例えば、

一本の記事を書くために、

何日も、

ときには何週間も取材を重ねる人がいる。

そういう仕事もある。


一方で、

数十秒で見終わる動画もある。

もちろん、

短い動画だって作るのは大変だ。

けど、
短い動画が伝える情報のほとんどは、

軽くて、

薄いように感じる。


もし、市場が

「反応したもの」

ばかりを評価するなら、

時間も、

人も、

お金も、

そちらへ流れ続けていく。


企業は悪くない。

利益が出る場所へ投資する。

それが経営だから。


ここで、

ようやく気付いた。

私は今まで、

「どんな情報が流れてくるか」

ばかりを見ていた。

でも、

本当に変わっていたのは、

何にお金が流れ続けている社会なのか

だった。


人を反応させるものが、

評価される。

評価されたものへ、

お金が流れる。

お金が流れたものは、

もっと作られる。

評価基準は、未来の情報を作っている。


……

あれ。

これって、

単に情報の問題じゃない。

未来に、どんな情報が残るのか。

その話なんじゃないか。


あれ? これって「離乳食文化」と同じ?

ここまで考えていて、

思い出した記事がある。

私は「離乳食文化」という記事をいくつか書いている。


今の社会は、

角を削り、

刺激を減らし、

誰でも飲み込めるものを増やしているんじゃないか。

そんな話をしている。


そのとき私は、

文化の話だと思っていた。

でも、今回この記事を書いていて、

少し考えが変わった。

文化が離乳食になったんじゃない。

評価基準が、

飲み込みやすいものを選び続けた結果だったんじゃないか。


例えば、

「読まれること」より、

「残す価値があること。」

を大切にして書く人がいる。

誰かの人生や、

社会に残るものを考えながら、

伝えたいという想いを込めて、

何度も推敲を重ねる。

そういう情報は、

読むのにも、

理解するのにも時間がかかる。


一方で、

「コスパ最強5選。」

「10秒で分かる。」

「知らないと損。」

こういう情報は、

考えなくても入ってくる。


もし評価されるのが、

「飲み込みやすいもの」ばかりだったら。

作る側は、

どちらを増やすだろう。


何週間も取材を重ねる記事より、

数十秒で見終わる動画のほうが、

評価されやすい。


読者が考える余白を残す作品より、

一瞬で消費できる作品のほうが、

数字になりやすい。


社会の構造を丁寧に読み解く記事より、

芸能人の不倫を扱った記事のほうが、

数字になりやすく、

お金にもなりやすい。


それは、

記者や発信者の能力の問題ではない。

評価基準の問題だ。

その結果、

評価される情報と、残る情報がズレ始める。


ここで初めて、

少し怖くなった。

増えているのは、

飲み込みやすい情報だけじゃない。

減っているものがあるということ。


時間をかけて生まれる情報。

考える余地を残す情報。

未来に残るはずだった知識。

時間をかけて取材し、

何度も考え直し、

読者に考える余地を残すような情報は、

評価されにくくなる。


評価されなければ、

広告もつかない。

予算も減る。

生活できない。

作り手も減る。

続けたくても、

続けられなくなる。

私たちが失うのは、

一本の記事じゃない。

そういう情報を作り続けられる土壌そのものだ。


……

あれ?

これって、

文化の問題じゃない。

評価の問題だ。


私は「離乳食文化」という現象を見ていた。

でも、

その現象を作っていたのは、

もっと手前にある

評価の仕組みだったのかもしれない。


そして、

ここでもう一つ、

少しゾッとすることに気づいた。

評価基準は、

「今」流れてくる情報を決めるだけじゃない。

未来に生まれる知識まで決めている。

評価されるものには、

人が集まる。

お金が集まる。

企業が投資する。

クリエイターも集まる。


逆に、

評価されないものは、

少しずつ作られなくなる。

私たちが今日押した「いいね」や、

今日最後まで見た動画は、

未来の情報を育てる投票でもある。

だから私は、

新聞社が苦しいとか、

Webメディアが大変とか、

価値ある情報を発信し続けている個人が埋もれていくとか、

そういう話をしたいわけじゃない。


もっと怖いのは、

評価基準そのものが、未来の知識を設計している。

ということだ。


AIが学習し続けているもの

ここまで考えてきて、

私は最初の問いに戻った。

AIは何を学習しているんだろう。

昔は、

編集者が記事を選んでいた。

ニュースも、

テレビも、

雑誌も。

本も。

もちろん、その時代にも偏りはあった。

でも、

「この情報を届けよう」

という人間の意思があった。

今は少し違う。


AIは、

膨大な人間の行動を見ている。

何をクリックしたか。

何を最後まで見たか。

何をシェアしたか。

何秒で離脱したか。

そして、

そこから学ぶ。


ここまで書いていて、

私はもう一つ勘違いしていたことに気づいた。

私はずっと、

AIは人類の知恵を学習していると思っていた。

でも違う。

AIが見ているのは、

人が反応した記録だ。

AIは、

私たちが何を「価値」として扱ったか

を学習している。


……

もし今の評価基準のまま、

AIが十年、

二十年、

三十年と学習を続けたら。

未来に残る情報は、

誰が決めたんだろう。

AIだろうか。

違う。

私たちだ。


私たちが今日、

面白いと思ったもの。

クリックしたもの。

最後まで見たもの。

それが、

未来のAIの教科書になる。

未来の子どもたちが、

出会う情報になる。


……

そう考えたら、

急に身体が冷える感覚がした。


私は、

AIを否定したいわけじゃない。

SNSを否定したいわけでもない。

GoogleやYahooを否定したいわけでもない。

むしろ、

ここまで合理的な仕組みを作ったことは、

人類の技術としてすごいと思う。

だからこそ、

今、一つだけ考えたい。


私たちは、

何を未来へ残したいのか。

何に「価値がある」と評価するのか。


人が反応する情報。

人が消費する情報。

それももちろん必要だ。

でも、

それだけでいいんだろうか。

人は、

噛まなくても食べられるものを好む。


でも、

まともな大人なら、

子どもには、ちゃんと歯を使うものを食べさせる。

毎日おかゆだけ食べ続けたら、

どうなるか。


それは、誰にでも想像できる。


もしAI時代が、

人類の知識を受け継ぐ時代になるなら。

AIに学ばせるのは、

人間の反応だけでいいんだろうか。

人間が未来へ残したい知恵は、

学習されないままでいいのか。


私は、AIを規制したいわけじゃない。

私が変えたいのは、

評価基準だ。


AI時代に議論すべきなのは、

「AIは何ができるか」

ではない。

「私たちは、何を価値として評価するのか。」

その設計を決めることだと思っている。


AI開発競争ばかりが注目されている。

AI開発競争そのものは、

悪いことではない。

でも、私たちは別のことを、

まったく議論していない。

どんな知識を残したい社会なのか。

どんな情報を育てたい社会なのか。

評価基準は、
今日流れてくる情報を決めるだけではない。

未来に生まれる知識まで決めている。


そして、その設計者は、

AIでもない。

Googleでもない。

Yahooでもない。

今日、何が価値かを選んでいる、私たちだ。


AI時代に必要なのは、AI開発競争だけではない。

評価基準競争だ。


AIが未来を作るのではない。

3秒で離脱した記事と、最後まで見た動画。

その積み重ねが、

十年後の子どもたちの「知識を噛む力」を形づくっている。


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