「何も起きていない」観測記録|第五回|孤独な時間
誰とも話したくない、というわけじゃない。
誰かに会うのが怖いわけでも、避けたいわけでもない。
ただ気づくと、誰にも連絡を取らずに、誰にも会わずに日々が終わっていた。
一人でいると、楽だった。
理由を聞かれても、うまく説明できない。
疲れているわけでもないし、人間関係に嫌気がさしているわけでもない。
むしろ、誰かと話せば、それなりに楽しい。笑うこともできる。
それでも、帰り道で一人になると、肩の奥がすっと下がる。
誰にも見られていない、というだけで、呼吸が深くなる。
背中にまとわりついていた何かが、音もなく剥がれる。
私は、歩きながら、自分の足音を聞いている。
特別なリズムでもない。ただの靴音。
それが、今の私の速度だと分かる。
人と一緒にいるとき、自分の速度が分からなくなることがある。
早すぎないか、遅すぎないか。
今の反応は適切だったか。
黙るべきだったか、言うべきだったか。
別の切り口からのほうが良かったんじゃないか。
その全部を、無意識に確認している。
確認すること自体が、もう癖になっている。
一人でいると、その癖が、必要なくなる。
誰かの表情を読まなくていい。
声のトーンを調整しなくていい。
今の沈黙が気まずいかどうか、判断しなくていい。
判断しなくていい時間。
それだけで、内側が静かになる。
街は相変わらず騒がしい。
車の音、人の声、信号の音。
何も変わっていないはずなのに、内側だけが落ち着いている。
カフェに寄る。
窓際の席が空いていて、迷わずそこに座る。
誰かと一緒なら、どの席がいいか一瞬考える。
話しやすいか、向かい合うか、横並びか。
でも今日は、考えなくていい。
注文をして、コーヒーを受け取る。
カップを置く音が、思ったよりはっきり聞こえた。
静かだ。
正確には、邪魔されていない。
誰にも説明しなくていい。
今どんな気分か、どうしてここに来たのか。
黙って座っている理由を、正当化しなくていい。
ただ、いる。
それだけで、成立している。
この感覚を、私は昔から知っている。
誰かといる時間より、一人でいる時間のほうが、短く感じる。
短いというより、密度がある。
一人の時間は引き伸ばされる。
空白があるのに、薄くならない。
人といると、時間は早く進む。
会話に乗っているうちに、気づけば終わっている。
どちらが良い、という話ではない。
ただ、今は、こちらのほうが楽だ。
スマートフォンを見ると、通知がいくつか来ている。
返せばいいものもある。
返さなくても、たぶん問題にならないものもある。
今すぐ返さなくていい。
その事実が、思った以上に安心感をもたらす。
返さないことを、誰にも責められない。
遅れても、言い訳を用意しなくていい。
この「責められなさ」は、どこから来るのだろう。
たぶん、他人からではない。
自分からだ。
一人でいると、自分に説明しなくてよくなる。
「今は返さなくていい」
「今は考えたくない」
「今は何も決めなくていい」
それを、そのまま受け取れる。
誰かといるとき、自分の判断には、いつも補足がつく。
でも一人だと、補足がいらない。
コーヒーを一口飲む。
少し苦い。砂糖は入れていない。
これでいい。
味に感想をつけなくていい。
評価しなくていい。
ただ、飲む。
その単純さが、今はありがたい。
周りには、
話している人、パソコンを開いている人、スマートフォンを見ている人。
みんな、それぞれの時間を過ごしている。
誰とも繋がっていないのに、孤立している感じがしない。
この感じが、少し不思議だ。
「孤独」という言葉が頭をよぎる。
人は、不安になると、人に会って安心したがる。
一人でいると余計に考えてしまうから、誰かと話して気を紛らわせる。
私にも、そういう経験はある。
予定を詰めて、人と会って、笑って、安心した気になる。
でも、無理をしていたわけでもないのに、人と過ごした帰り道で、なぜか胸の奥が冷えていることがあった。
一緒にいたのに、置いてきぼりになった感じ。
話していたはずなのに、どこにも触れていない感じ。
一人でいると、孤独なはずなのに。
不思議なことに、そのほうが静かだった。
孤独が消えるわけじゃない。
ただ、無理に埋めなくていい。
人と過ごす孤独より、
一人でいる静けさのほうが、私はまだ扱える。
寂しさは、今はない。
不安も、今はない。
むしろ、余計なものが剥がれて、軽い。
それでも、完全に満たされているわけでもない。
何かが足りない、という感じもしない。
ただ、何かを求めていない。
この状態を、どう表現すればいいのか分からない。
一人でいることが、楽。
それ以上でも、それ以下でもない。
もし誰かにこの話をしたら、たぶんこう言われる。
「疲れてるんじゃない?」
「たまには一人もいいよね」
「そのうちまた人と会いたくなるよ」
どれも、間違っていない。
でも、どれも、少し違う。
疲れているわけではない。
「たまに」でもない。
「そのうち戻る前提」でもない。
私は、ただ、一人でいる。
一人でいる状態そのものが、自然に感じられている。
それが、少しだけ怖い。
なぜなら、これは避難している感じじゃないからだ。
戻る場所としての一人、ではなく、
今、ここに立っているだけ。
この感覚を、私は昔から持っていた気がする。
子どものころ、教室の隅で過ごしていた時間。
喧嘩したわけでも、仲間外れにされたわけでもない。
ただ、輪に入らなかった。
当時は、寂しいと感じていた時間もあった。
でも、今思うと、あの時間も静かだった。
周りのざわめきを、少し離れたところから見ている感じ。
自分の世界が、自分の中にあった。
あの感覚は、消えていなかった。
一人でいると、楽。
でも、温かくはない。
包まれもしないし、慰めもない。
自分の輪郭が、はっきりする。
その輪郭に触れ続けることは、優しくはない。
逃げ場もない。誤魔化せない。
自分が、ここにいる、という事実だけが残る。
それでも、今は、この場所に立っている。
誰かに押し出されたわけじゃない。
嫌われたからでも、拒絶されたからでもない。
気づいたら、ここにいた。
それだけだ。
コーヒーを飲み終えて、席を立つ。
外に出ると、風が少し冷たい。
昼と夜の境目。
人が多い。
都会の人の多さは、一人でいることを目立たなくしてくれる。
この状態が、いつまで続くのかは分からない。
また人と深く関わる時期が来るかもしれない。
もっと一人になるかもしれない。
どちらでもいい。
一人で立てる場所。
誰にも説明しなくていい場所。
今は、ここでいい。
一人でいると、楽だった。
それだけは、はっきりしている。
私は歩き出す。
人混みの中を、一人で。
この記録は、続きます。
