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「何も起きていない」観測記録|第四回|自分が変なのかもしれない

第一回|何も起きていない

前回|第三回|正しいはずなのに



気づくと、私だけが立ち止まっているような気がしていた。

周りは、何事もなかったみたいに日常を続けている。
朝、出社して、入館証を出して、ゲートを通って、エレベーターに乗る。
受付で待たされても、入館証が一瞬エラーになっても、「まあ仕方ないよね」で済ませる。

誰も怒っていない。
誰も疑問を口にしていない。
少なくとも、そう見える。

引っかかっているのは、私だけ。

そう思った瞬間、胸の奥に、別の考えが浮かんだ。

——私のほうが、変なんじゃないか。

この世界にうまく適応できていないのは、私のほうで。
みんなはちゃんとやれていて。
ちゃんと社会に馴染んでいて。
問題なく回していて。

それなのに、私は毎回、あのゲートの前で、立ち止まってしまう。

「なんか、いや」

同じ環境にいて、同じ手続きをしているのに、
引っかかる人と、引っかからない人がいる。

感じるほうが、ズレているんじゃないか。
考えるほうが、少数派なんじゃないか。

そんな考えが、頭をよぎる。

友人は、何も感じないと言っていた。
「しないなあ」と、即答だった。

本当に?

あの即答が、今も残っている。

たぶん、嘘は言っていない。
あれは、本当に何も感じていない人の返事だった。

そして、そのほうが、ずっと生きやすそうだった。

考えなくていい。
立ち止まらなくていい。
仕組みを仕組みとして受け取って、自分の感覚をそこに重ねない。

それは、この社会では、かなり自然な振る舞いなのかもしれない。

私は、そうならない。

気づいてしまう。
引っかかってしまう。

どうして、あの仰々しさが必要なんだろう。
どうして、あの「ちゃんとしてる感じ」に、安心できるんだろう。

そんなことを考えている自分のほうが、
めんどくさい側なんじゃないか、
という気もしてくる。

頭の中で、また別の声が立ち上がる。

——考えすぎなんじゃない?
——そんなところ、気にしなくていいでしょ。

あの友人の声と、よく似た声。

責めるわけでも、否定するわけでもなく、
ただ現実的で、効率のいい声。

その声に従えば、きっと楽になる。

違和感を飲み込めばいい。
引っかかりを無視すればいい。
「そういうものだから」と言えばいい。

実際、多くの人は、そうしている。

疑問を持たないわけじゃないかもしれない。
でも、持ち続けない。

それ以上、考えない。

多くの人は、感じないほうを選ぶ。
考えないほうを選ぶ。
適応するほうを選ぶ。

それは、間違いじゃない。

むしろ、この社会では、かなり賢い選択だ。

私は、そこが止まらない。

——それでも引っかかる私は、何なんだろう。

——空気が読めないだけ?

——社会に向いていないだけ?

——理屈っぽい厄介な人?

——生きづらさを自分で作っているだけ?

止めようとしても、止まらない。

社会に対する違和感より、
自分自身に向けられる疑いのほうが、ずっと痛い。

考えないほうが楽だと分かっていても、
考えないまま通過することができない。

私は、社会を敵にしたいわけじゃない。
自分を特別だと思いたいわけでもない。

ただ、自分の感じ方を、なかったことにできない。

それだけなのに。

周囲は普通に適応している。
それは事実。

じゃあ、私だけが引っかかっているこの状態を、どう扱えばいいんだろう。

「みんなができていることができない自分」を、
欠陥として処理するのか。

それとも、
「みんなが感じないところを感じてしまう自分」を、
そういう人として、そのまま置いておくのか。

答えは、まだ出ない。

でも、一つだけ分かっていることがある。

私は、感じないふりをすると、確実に消耗する。

文句を言わずに従うことはできる。
手続きをこなすこともできる。
社会的には、何の問題もなくやれる。

でも、そのたびに、どこかが少しずつ削れていく。

それは、疲れとは少し違う。
不満とも違う。
怒りでもない。

もっと静かで、もっと厄介なものだった。

「今の自分、ちゃんと“普通”にできてないな」

そういう自己点検みたいな感覚。

私は、立ち止まってしまったことそのものより、
立ち止まった自分を、どこに置けばいいのか分からなくなる。

同じ出来事でも、通過できる人がいる。
同じ音を聞いても、何も起きない人がいる。

私はそれが、うらやましい。

うらやましい、のに、怖い。

感じないほうを覚えてしまったら、
私はこの先、ずっと楽になる気がするから。

でも、その楽さが、私にとっては少しだけ気持ち悪い。

あのゲートの前で止まったのは、
仕組みに拒否されたからじゃない。

たぶん、“自分の感覚”が置いていかれそうになったからだ。

「そういうものだから」で流せば、次に進める。
「考えすぎ」で片づければ、会話は終わる。
「適応」でまとめれば、摩擦は消える。

分かってる。

でも、分かっているのに、
その言葉を使うときの自分が、少しだけ浅くなる。

だから、私は反芻する。

同じ会話を、何度も再生する。
同じ場面を、何度も思い出す。

別の言い方を考える。
他に何かないかを探す。

でも、結局たどり着くのは、同じ場所だ。

——正しいけど、しっくりこない。

私は、社会のルールに逆らいたいわけじゃない。
正しさを壊したいわけでもない。

ただ、正しさのほうに寄せるたびに、
「私のほうが変なのかもしれない」が強くなる。

それが、地味にずっと痛い。

周囲が普通に適応している世界で、
私だけが引っかかっている。

その事実が、いちばん分かりやすい。

私は、迷い続けている。

それが、生きづらさを生むとしても。

自分を直すべきなのか。
この引っかかりを、性格として抱えていくのか。

答えは、まだ出ない。

ただ今は、結論を急がないことだけを選ぶ。

「変かもしれない」
を抱えたまま、
もう少しだけここに立ってみる。

それが、今の私に残っている、
いちばん小さな誠実さだから。



この記録は、続きます。

第五回|孤独な時間 


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