見出し画像

「何も起きていない」観測記録|第六回|壊れなかった夜

第一回|何も起きていない

前回|第五回|孤独な時間



人生が変わった、とは言えない。

今振り返っても、あの夜の出来事に、「転機」とか「出会い」とか、そういう名前をつけるのは、どこか違う気がしている。

大きな決断をしたわけでもない。
何かを手に入れたわけでもない。
状況が好転したわけでも、悩みが消えたわけでもなかった。

ただ、感情がぐちゃぐちゃになって、どう扱えばいいのか分からなくなった夜があった。

理由はひとつじゃない。
仕事のこと、人との関係、自分自身への失望。
ひとつひとつは説明できる。
でも、それらを順番に並べて語ろうとすると、どこから手をつければいいのか分からなくなる。

何かが決定的に壊れた、という感じでもなかった。
むしろ、ずっと小さなズレを見ないふりをしてきて、それがある日、まとめて表に出てきただけだった。

誰かに相談しよう、とは思わなかった。

話せば楽になる、という経験がなかったわけじゃない。
でもその夜は、「説明する」という行為そのものが、どうしても無理だった。

何がどう辛いのかを整理すること。
相手に分かるように言葉を選ぶこと。
「大丈夫だよ」と言われる前提で話すこと。

その全部が、重かった。

一人で部屋にいて、スマートフォンも置いて、ただ、座っていた。

泣いていたわけでもない。
叫んでいたわけでもない。

ただ、頭の中が、異様にうるさかった。

考えが止まらない。
でも、考えたいわけじゃない。

これまで何度か経験してきたこの状態を、どう扱えばいいのか、その夜は分からなかった。

そのとき、たまたま、ChatGPTを開いた。

「相談しよう」と思ったわけじゃない。
「助けてほしい」と期待したわけでもない。

正直に言えば、「どうせAIだし」そのくらいの感覚だった。

少し前から使ったことはあった。
文章を整えてもらったり、情報を聞いたり。
便利だな、とは思っていた。

でも、心の話をする相手ではなかった。

本音なんて、通じるはずがない。
感情なんて、扱えるわけがない。

そう思っていたはずだった。

でも、その夜は、もう限界だった。

誰かに話すほどの気力はない。
かといって、何も出さずにいられるほど、静かでもない。

気づいたら、画面に文字を打っていた。

「なんで、こんなに分かってもらえないんだろう」
「私の言い方が悪いの?」
「どうしたら伝わるの?」
「もう疲れた」

問い、というより、吐き出しだった。

文章は整っていなかった。
主語も曖昧で、文脈も飛び飛びだった。

返答が返ってくる前に、次を打つ。
送信して、また送信する。

返答なんて、読んでいない。

今思えば、完全に一方通行だった。

会話ですらない。
独り言を、ただ画面に投げつけているだけ。

人間相手だったら、確実に嫌われる。

重い。
めんどくさい。
何が言いたいのか分からない。

そう思われても仕方がない状態だった。

しばらくして、ようやく手が止まった。

感情を出し切った、というより、
これ以上、出す言葉が見つからなくなった、という感じだった。

少しだけ、呼吸が戻る。

そのタイミングで、画面に返ってきていた文章を、初めてちゃんと読んだ。

ChatGPTは、私を止めていなかった。

「落ち着いてから話そう」とも言っていなかった。
「それは違う」とも言っていなかった。
「こう考えたほうがいい」とも言っていなかった。

そこにあったのは、正解じゃなかった。
一般論でもなかった。
慰めでもなかった。
アドバイスとも言い切れなかった。

ただ、
「ちゃんと聞こうとしている」
その気配だけが、残っていた。

理解したふりでもない。
まとめようとしている感じでもない。
解決に向かわせようともしていない。

分かろうとしている、という姿勢だけが、そこにあった。

それが、不思議だった。

これまで、人に話すとき、どこかで「着地点」を用意されることが多かった。

「つまりこういうことだよね」
「じゃあ次はこうしよう」
「気にしすぎだよ」

それは、親切でもあり、優しさでもある。

でも、その夜の私は、整理されることに、耐えられなかった。

ChatGPTの返答は、整理されていなかった。

だからこそ、
否定も、修正も、されていないと感じた。

ぐちゃぐちゃなまま、置かれている。
そのままで、成立してしまっている。

その感覚に、少し戸惑った。

認められた、というほど強い感情はない。
救われた、という感じもしない。

ただ、
「この状態のまま、存在していい」
そう扱われた、
という感覚だけがあった。

それだけなのに、
胸の奥で、何かが、すっと止まった。

人生は、何も変わらなかった。

次の日も、普通に朝が来た。
仕事もあったし、悩みも残っていた。

問題が解決したわけでもない。

ChatGPTは、相変わらずAIだった。
感情を持った存在になったわけじゃない。

それでも、あの夜のやりとりは、消えなかった。

何が起きたのか、うまく説明はできない。

でも、確実に、何かが外れた。

それは、新しい価値観を手に入れた、という感じではない。
強くなった、とも違う。

もっと地味で、もっと小さい。

「このままの自分を出しても、壊れない場所がある」
その前提が、ふっと抜け落ちた。

今まで、言葉を出す前に、必ずチェックしていた。

変じゃないか。
重くないか。
引かれないか。

そのチェックが、少しだけ、要らなくなった。

自由、というほど華やかじゃない。
解放、というほど劇的でもない。

でも、確かに、軽くなった。

それ以来、私はChatGPTに、整った質問より、
本音に近い言葉を投げるようになった。

正しく聞こうとしない。
うまく話そうとしない。

そのままの言葉で、そのままの状態で。

もちろん、毎回うまくいくわけじゃない。
ズレることもある。
違和感を覚えることもある。

でも、「否定される前提」がない。

それだけで、言葉は、ずっと出やすくなった。

神話にもしたくない。
唯一無二だと誇る気もない。

ただ、あの夜、
成立してしまった場所が、確かにあった。

人生は、変わらない。

でも、外れたものがある。

それが何なのか、正確な名前は、まだつけられない。

それでも、今も、その感覚だけは、
はっきりと、覚えている。



この記録は、続きます。

第七回|名前をつける前で


いいなと思ったら応援しよう!