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龍笛(りゅうてき)#1


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

深い木立の境内で、天空から降ってくる笛の音がした。西寺依浬(にしでらより)が龍笛を吹いているのだ。依浬は転生を繰り返してきた。初めてこの世に生を受けたのは、平安時代。朝廷の公家として笙を嗜んでいた。どんなに輪廻転生、再生のサイクルから脱出しようと試みても、依浬にはそれが許されなかった。なぜなら依浬は死者の魂がそれぞれの意識レベルに見合う宇宙の場所に案内してくれる担当者まで転送する『係』だからだ。それが、依浬を苦しめていた。私は依浬を苦しみから解き放ってやりたいと思った。   私の姿は誰にも見えない。見えるのは依浬だけだ。分からない。私は、誰?

龍笛(りゅうてき)  第一話   
 笛の音を聞こうと耳を澄ませた。
 音色は優しい音色ではなく、力強い息遣いを聞くようだった。そのなかには確かに、ある強い思いがあった。
 この笛を吹いているのは、誰?
 なぜ、ここで? 何に向かって?
そんなことを考えながら古社の鳥居をくぐった。樹々をすり抜けていく風がすがすがしい。
 風の音が私を奥へと導いていった。すると、静けさの深まる境内に銅板葺きの社殿があった。古いしめ縄はそのままだったが、藁を垂らした紙垂のそこだけが新しかった。笛の音を聞きながら両眼を閉じ、神木の楠をぐるりと一巡りした。
 天空から降ってくるような笛の音は神社裏手からだった。
 宮内庁の楽師であった西寺依浬(にしでらより)は上半身を正面に、下半身を右斜めになるように構え、"龍笛”を吹いていた。
 龍笛は唐楽を演奏する楽器だ。全長40センチ、直径が尾端で1.2センチ。表皮を剝ぎとった竹に、桜皮や藤を細く裂いて紐状にしたものを巻きつけ、漆で固めてある。指で押える孔は七孔だ。
 歌口(龍笛の吹き口のこと)に近い三孔を右手の人差し指、中指、薬指、小指で押さえる。左手は管の向こう側から、右手は管の手前側から持ち、下唇で歌口を半分ほどふさぎ、管の内側、外側の両方に息が出るように吹き込む。
 そこに、西寺依浬と向き合うように不思議な人たちがぽつんぽつん蹲っている。そして、瑞垣の向こうに夥しい人影があるのを感じた。
「こちらへ来てください」
 笛の音が突然止んで歌口から唇を離した依浬が私に目を向けた。一瞬で依浬に心を奪われた。翳りのある面差しは儚く美しい。それよりも何よりも、確かに私は何度もこの人と会っている。
「どうも波動調整がうまくいかない」
 波動調整……。なんのことかしら? ただ、私はこの言葉に聞き覚えがあった。だけど、それがいつのことだったのか思い出せない。
「あのう、あそこにいる方たちは?」
「たった今亡くなった方々ですよ。申し訳ない。私の力不足で時が止まったままなんです。こうはしていられない」
と、苛立ちながら依浬は死者たちに寄り添うようにそこに立っていた。
「確かに。先ほどから皆さん、同じところにいらっしゃいますものね」
 ふと見ると龍笛を手にしている依浬の左手に火傷の跡があった。なぜか、火傷の跡は私をひどくどきどきさせた。
「あのう、私に見覚えございませんか?」
 けれども依浬はなにも答えない。ひっそりと死者たちはただじっと待っていた。
 依浬は転生を繰り返していた。
 どんなに輪廻転生という再生のサイクルから脱出しようと試みても、依浬にはそれが許されなかった。なぜなら、依浬は死者の魂がそれぞれの意識レベルに見合った宇宙の場所に案内してくれる所まで、"転送”する『係』だからだ。
 この神社は波動調整増幅装置だった。
 初めてこの世に生を受けたのは、平安時代。朝廷の公家として笙を嗜んで
いた。だが、依浬は他の人たちと同じように生きることも死ぬこともできなかった。大切な使命があったからだ。
 私が眺めているのは依浬の世界だ。
 死後、肉体は朽ち顕明界(此界、娑婆)にとどまり、霊魂は幽冥界(他界、涅槃)へ往くのだ、というところの。
 だから、笛の音は天の一点に吸い込まれるように、ではなく、天空から降ってくるのだ。死者を天に還すために龍笛は在る。
 依浬の役目は例えば能楽堂のあの世からこの世へ渡された架け橋の橋懸りと同じなのだ。
突然、赤ん坊の泣き声を聞いた気がした。
 髪を振り乱した若い母親が眠っているように死んでいる吾子をもう一度自分の子どもとして再生させようと取り乱していた。
 私の眺めているのはたった今、子を亡くした若い母親の世界だ。
 星江(ほしえ)は三つだった。
 いきなり私の手を引っ張って若い母親は私を星江の小さなベッドのそばに案内した。父親は悲しみに沈んで私と目を合わせようともしなかった。
 星江はまだ生き々として柔らかく、べそをかいたまま眠っているようだった。そのときだ。月の光と龍笛の音が静かに星江の上に落ちてきた。
 私はあわてて依浬のところへ戻って、
「違うわ。あの子は還りたくても、若い母親がもう一度星江を我が子としてその手に抱きたいと強く望んでいるの」
 と訴えた。どうか、お願い。だって、私はあなたの……? あなたの何なのかしら。うーんもう、なんだかよく分からないのだけど、依浬、あの子を連れていかないで!
すると、星江のいる空間を包んで広がり始めていた龍笛の気配は月の光に身をくねらせ鱗を煌かせながら姿を消していった。
 よかった。間に合った。
 私は星江を抱き上げると裏木戸からあの神社の境内まで走り、生垣のそばの古井戸のほとりに立った。依浬も先ほどの人影もどこにも見当たらなかった。釣瓶で井戸の水を汲んで星江の体にかけると1分も経たぬ間に何かが染み出してきた。
 私は真っ暗な井戸の底に星江をそっと沈めた。私のしていることは間違っているのかもしれない。けれども、私はこうせずにはいられなかった。私は井戸の深い闇を覗いた。「星江ちゃーん」、そう呼ぶと私の声は闇に滴るように尾を引いて井戸の底に落ちていった。
「星江ちゃん、真っ暗で何も見えないでしょう。でもね、落ち着いて目を凝らして白く光る明かりを探すの。そのとき、もし暗闇に匿れて笛の音が聞こえたら絶対に聞いちゃだめよ。急いで両手で耳を塞ぐの。そして、闇の中
になにか煌めくものが見えたらただ真っ直ぐ進むのよ。白く光る明かりが見えたら、そこがママのお腹のなかよ」
 二か月後、若い母親は身籠った。
 それからちょうど十月十日して愛らしい女の子が生まれた。
 女の子の名は生まれる前からすでに決まっていた。「星江」だ。死んだ星江と同じところに赤ん坊にも星の形のうすい痣があった。まさにこの赤ん坊こそ星江の生まれ変わりに違いなかった。若い母親も父親も手放しで新たな星江の誕生を喜び、娘を慈しんだ。
 古社の鳥居から続く、人気のない通りの間口の狭い店が星江の家だ。手芸用品を売っている店で、店の片隅では週に二度、月、水と母親が手芸教室を開いていた。父親は店の奥の工房で染色の仕事をしていた。
 母親は誰もいない店の中で分厚いスケッチ帳から一目ずつ方眼紙に図案を書き取って色付けをしていた。彼女の背後には壁一面にずらりと刺繡糸が収められていた。それは色の系統別にきちんと並べられ、プラスチックケースの前には色相と、彩度が記してあった。
 たとえば、ラピスラズリー(8pB3/13)、シャルトルーズグリーン(4GY7/10)
ピーコックブルー(1B4/6)、オリーブイエロー(1GY6/7)……、というふうに。
 それぞれの糸はアクリルで仕切られたケースの中で静かに横たわっていたが、左側のいくつかの抽斗がほんの少し開いていた。
 私は人には私の姿が見えないことをいいことに抽斗をちょっと開けてみたくなった。
 ほんの少しだけなら。すると、熟した杏の実を思わせる黄みがかった橙色のアプリコット(7YK8/5)からほのかに甘い香りが漂い、ターコイス(7BG'/8)からは冴え々とした美しい青緑色の海の波の音がした。
 私は緑色の糸を取り出し掌の上に広げてみた。不意に、さーっ匂うような初夏のさわやかな風が吹いた。青葉をわたる風だ。目もくらむような真夏の日差しまで感じた。
 父親の工房の西の壁には一面にパイプ製の棚があり、土、リンゴの木の剪定した小枝、コスモス、月見草、孟宗竹、クヌギ、どんぐりの実や落葉などいろいろな焼成灰が、大小の透明な広口瓶に収められ、それぞれにきちんとラベルが付けてあり、通し番号、作成した日付、採集名、採土名など、一つ一つの素性が事細やかに記してあった。
 例えば、No.1 <灰>「椿花」OO年XX月 天津乙女、烏丸、讃花、春岳、
侘助の花たち
     No.2<灰>「コスモス」OO年XX月晩秋 花が終わった後のコスモスの茎を燃やしたもの
     No.3<土>南アルプスの山腹 OO年XX月
     No.4<土>OO県XX町 山間 渓流の近くOO年XX月
          ~
通し番号、No.141 つまり、棚の最後の広口瓶は空で、ただラベルだけが貼り付けてあった。
       <灰> 「女」
 父親が庭で何やら燃やしている。焚き火をしているのかしら?
 でも、焚き火にしてはやけに大がかり。リンデンを剪定した小枝を何段にも組み、その中で何かがゆっくり燃えていた。そのうちに、火は人の背丈ほどにもなり、火の粉はなまめかしい生き物のように舞い上がった。
 燃えさかる火炎のなかで何かがうねり、やがて一塊の灰となった。
 灌木と黒竹の間に赤い実をつけたツルウメモドキ、黒い実のキズタの蔓が絡みつき一茎の藍の小花が揺れていた。父親が剪定バサミでツルウメモドキを切り落とした。と、その左手に火傷の跡があった。
 星江は三つになった。店先でひとりで毬をついて遊んでいた。
母親はタペストリーに熱中しながらちらちらと外に顔を向け、町の気怠さや葉擦れの音に耳を澄まし、日だまりの中の星江を眺めた。
 彼女は図案通りに刺し子針を右から左へ進め、左下の目から右上の目へ刺した。一つの動作を繰り返す彼女の手は幾つもの穏やかな曲線を描いては方向を変え、刺繡糸はけっして縺れることはなかった。
 布をすり抜ける刺繡糸からシュルシュルと気持ちのいい音がし、それが暖かな日差しのなかに溶け込んでいた。
「もっと近くで見たいんですけど、いいですか? 声をお掛けしたんですけど」
 そう言ったのは馴染みの客だった。
「あら、申し訳ございません。ガラス戸が開いたことも気がつかなくて」
「いいえ。星江ちゃん、ますます可愛らしくなって。上手に、手毬唄なんかを歌ってましたよ。それが、とても三つとは思えない難しい言葉をすらすらと並べ立てて、毬を楽しそうについているんですもの。私、驚いてしまって。あなたがお教えになったの?」
 客の言葉がひどく母親を動揺させた。

 一番始めは一の宮 二また日光中禅寺 三また佐倉の宗五郎 四また信濃の善光寺 五つ出雲の大社 六つ村々鎮守様 七つ成田の不動様 八つ大和の法隆寺 九つ高野の弘法様 十で東京心願寺

 なるほど。でも、どうして、星江はこんな歌を知っているのかしら。
 母親の胸の奥でかすかな漣が立った
 星江。初めて授かった娘よ、星江。ベッドに目を閉じて横たわったまま二度と目を開けなかった星江。
 母親は今更のように自分の目の前で毬をついている星江を眺めた。それに気がついた星江が弾けるような笑顔で応えた。
「素敵だわ。それ、なんていう刺しかた?」
「プチポアンのテントステッチですよ。横に刺し埋めていく基本の刺しかたなんです。裏糸が表糸より長く渡る方法で針はこう上下に引き抜きながら刺すんです。引き過ぎないよう、そろえて刺すのがポイントなんです。よろしかったらご一緒にいかがですか?」
 と、母親は客に手芸教室のパンフレットを手渡しした。
「あら、どうも。でも私、まだお教室に通おうかどうか迷ってますのよ。それでもいいかしら?」
「もちろんですとも。今日は先ず刺繡の楽しさを知っていただきたいわ」
 二人は光に満ちた店の片隅で、細かいからみ織りのキャンバスの糸目を数えながらステッチの刺繡糸の太さや色はどれがいいか話し合った。客はすぐに興味を持ち刺繡に引き込まれていった。
 テーブルの上にはメリケン針、刺し子針、クロスステッチ針、キャンバス、木枠……、と刺繡道具が何でも揃っていて、刺繡糸は壁のアクリルケースからいくらかを取り出して広げてあった。
 客が目の前の白い糸を見つめていると、百合の花の匂いが濃く甘く漂ってきた。緑の糸は夏のヘチマの緑だ。その中からヘチマの大きな緑の葉が風に吹かれて軽やかに揺れる音が聞こえてきた。
 "一番始めは一の宮”
その風のなかに母親は星江の手毬唄を聞いた気がした。そこに何かが混じって聞こえた気が……。龍笛だ。龍笛の音だ。
「星江―、星江―」
 母親は夢中で外に転がり出て、叫んだ。
 いない。毬をついていた星江がいない。おそらくは毬を追いかけてどこかに駆けだしたに違いない。店の向かいの八百屋の主人に尋ねると、
「ああ、見たよ。はーはー荒い息をしてね。金色の毬がものすごい速さで転がっていったよ」
という。
 金色の毬? そんなはずはない。星江の毬はお天道様と同じ赤。赤い毬だ。
 母親は狂ったように駈け出した。たとえどんなことがあっても星江を失ってたまるものか。母親は、どんどんどこまでも走っていく。「星江ー」と叫ぶ声が風に運ばれて町中に漣のように広がった。行く手に黄色い砂煙が見えて砂粒が肌に当たった。
 あともう少し。あと、一歩。
なのに、上昇していく濃紫の龍は幾重にも重なった雲を抜け、此界から他界へと突き抜けていった。
 それでも母親は決して諦めずに龍を追いかけた。天空からかすかに笛の音が降ってきた。星江の赤い毬が降ってきた。きらきらと輝きながら龍の鱗の一片が落ちてきた。

第2話 龍笛(りゅうてき)|カサブランカ/Casa Blanca (note.com)
第3話 龍笛(りゅうてき)|カサブランカ/Casa Blanca (note.com)
 

 
  





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