≪黒木華の戦略≫第1回?
「魅力的な役を演じ過ぎて、私たちには次の黒木華が見えなくなっている」
午前九時。
がっかり学会・第一会議室。
入口のホワイトボードには、今日の議題が大きく書かれていた。
「黒木華、どうする。」
たったそれだけである。
議題を考えた海も本人も、おそらく意味は分かっていない。
だから会議だ。
世の中には「答えを出す会議」と
「答えがないことを確認する会議」がある。
がっかり学会は後者である。
今回は九時間はかかるだろう。
第1章「開会します。」
黒島優菜係長が静かに宣言した。
「本日の議題は、黒木華さんはどうする?です。」
部屋が静まり返る。
誰も手を挙げない。
当然だ。
ここにいる連中は、予測が苦手だ。
「まず凛々子さん。」
凛々子は資料をめくった。
「出演作品、受賞歴、演技傾向、監督との組み合わせ、制作会社、配信市場……全部調べました。」
全員が身を乗り出す。
「で?」
「分かりません。」
一同うなずく。
最初の十分で、会議は予定どおり迷子になった。
千鶴が眼鏡を外す。
「そもそも『次は何を演じるか』という問いが間違っています。」
「どういうこと?」
「黒木華という俳優は、役を選ぶたびに『黒木華像』そのものを書き換えてしまう。」
「だから前回までのデータが、そのまま未来に通用しない。」
「つまり……。」
「統計泣かせです。」
博士後期がノートパソコンを閉じた。
「私のAI分析、終了しました。」
そこへ一人の女性が口を開いた。
星野茉莉だった。
「政治家なら分析できます。」
「支持率も、世論も、演説も数字になります。」
「でも俳優は違います。」
「本人が分析した未来をあっさり裏切る。」
部屋の空気が少しだけ変わった。
凛々子がゆっくり頷く。
「なるほど。」
千鶴も珍しく賛成した。
「だから私たちは見えなくなっている。」
「黒木華ではなく、『次の黒木華』が。」
海尾守は黙って議題を見つめていた。
ホワイトボードには相変わらず四文字。
「どうする。」
彼は小さくつぶやく。
「どうする……。」
すると会議室のドアが勢いよく開いた。
「遅れてすみません。」
その声に全員が振り向く。
入ってきたのは、土屋先生だった。
その五秒後。
さらに高島先生が現れる。
そして廊下の向こうから、文化地理学者三人組が、なぜか巨大な世界地図を抱えて歩いてくる。
黒島係長は時計を見た。
午前九時十二分。
会議開始から、まだ十二分しか経っていない。
しかし、このあと九時間十八分にわたり、
誰一人として議題を忘れたわけではないのに、
議論が銀河の彼方まで飛んでいくことを…
この時点では知らなかった。
第2章 「どうする」は便利すぎる
午前九時十三分。
土屋先生は議題を見た。
ホワイトボードには四文字。
「どうする。」
先生は三十秒ほど黙っていた。
誰も口を開かない。
この沈黙は、危険信号である。
「……この会議。」
ようやく先生が口を開いた。
「成立していません。」
海尾守は反論した。
「まだ始まったばかりですよ。」
「始まる前に終わっています。」
「え?」
「『どうする』とは何ですか。」
一同、沈黙。
「誰が?」
さらに沈黙。
「何を?」
沈黙。
「いつ?」
沈黙。
「どこで?」
沈黙。
「なぜ?」
沈黙。
「つまり。」
先生は議題を指さした。
「日本語として、主語も目的語も条件もありません。」
「これで九時間半会議をしようというのは、人類への挑戦です。」
海尾守は少し嬉しそうだった。
「ありがとうございます。」
「褒めていません。」
会議室に笑いが広がる。
その横で、高島先生が静かに眼鏡を外した。
「土屋さん。」
「はい。」
「私は逆です。」
全員が先生を見た。
「『どうする』は、日本語で最も優秀な言葉の一つです。」
「ほう。」
「日本人は、主語を言わなくても会話できます。」
「目的語を省略できます。」
「条件も省略できます。」
「それでも、なぜか通じる。」
千鶴が頷く。
「確かに。」
高島先生は続けた。
「外国語なら説明が必要です。」
「しかし日本語では。」
『どうする?』
『こうする。』
『そうか。』
「これだけで話が終わる。」
凛々子が苦笑した。
「便利というより、危険ですね。」
「その通りです。」
先生は静かに頷いた。
「便利な言葉ほど、誤解も増えます。」
「つまり。」
「今日は最初から誤解の上に会議が建っています。」
黒島優菜係長が議事録を書く。
午前九時四十一分。
黒木華については、まだ議論されていない。
海尾守が慌てた。
「いや、今日は黒木華戦略会議ですから。」
土屋先生は即答した。
「違います。」
「え?」
「今日は『どうする』研究会です。」
高島先生も頷く。
「戦略会議は午後からでしょう。」
「午後?」
黒島係長が予定表を確認する。
「その予定はありません。」
「ありませんか。」
「ありません。」
「では。」
土屋先生は腕を組んだ。
「今、作りましょう。」
その瞬間。
会議室の後方で、大きな紙が広げられた。
レルフ教授だった。
「言葉には場所があります。」
トゥアンが地球儀を回す。
「場所には経験があります。」
サウアー教授は巨大な地図を机いっぱいに広げた。
「まず『どうする』が、世界のどこで発せられたかを考えましょう。」
千鶴が天井を見上げる。
「……終わった。」
凛々子が時計を見る。
午前十時二分。
会議開始から一時間。
黒木華という名前は、出ていなかった。
第3章では
ここからは「文化地理学トリオ」の独壇場。議題は「黒木華戦略会議」のはずなのに、会議は世界地図の上をさまよい始めます。
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