【サブスク大学】大学不要論 第2回
「計画された迷子」レルフは正しかった。だからこそ大学は危ない
前回のあらまし
前回、エドワード・レルフは大学のカリキュラムを擁護した。
教養は、世界を眺める窓。 概論は、学問の歴史を示す地図。 専門は、自らの足で歩くサバイバル。
美しい。 実に美しいロジックだ。
問題は、その美しい螺旋階段を、私は現在の大学でほとんど見たことがない、ということである。
土屋先生の皮肉と、サウアーの怒号
このレルフの美しい「知性の階段論」をきいていた土屋先生は、鼻で笑いながらこう呟いた。
「レルフ、お前のシラバスは相変わらず上等なフランス料理のメニュー表みたいだな。
だがな、現実の学生はその『階段』を自力で登っちゃいない。
上から降ってくる単位(エスカレーター)に乗っかって、
ボーッとスマホを見てるだけで、
自動的に『学士』という出口へ運ばれていくだけだよ」
するとそこへ、遅れてやってきたカール・サウアーが、
泥まみれのブーツで机をドスンと叩いて怒鳴り散らした。
「おいレルフ! お前のその綺麗なお勉強のシラバス(設計図)にはな、
『生きた人間と自然(フィールド)』の姿がまるで見えねえんだよ!
窓だの地図だの、そんなものは机の上の図面の話だろ。
文化景観ってのはな、人間がその土地の自然と、
何百年も泥にまみれて、闘って、折り合いをつけて作ってきた
『生きた歴史の皮膚』なんだ。
それを読み解く力ってのは、
大教室のプリントでもなければ、
お前の用意した綺麗な『階段』から手に入るもんじゃねえ。
18歳のガキが本当に『溺れる』べき場所は、
大学が用意した人工的なプール(シラバス)じゃねえ。
誰も答えを知らない、言葉も通じない、境界線だらけの
『現実の地域』そのものだ!
海尾の坊主の言う通りだ。
お前らが大学の中にそんな小綺麗な『お行儀のいい階段』
を作るから、学生はみんな家畜になっちまうんだよ!」
第一章:人は本当に迷っているのか
サウアー先生の言う通りだ。
今の大学には、自ら誰も知らないフィールドへ飛び出すような
「野生の知性」が消え失せている。
昔の大学生の生態は、もっと泥臭く、
もっと行き当たりばったりだった。
図書館の書架をあてもなく彷徨い、偶然怪しい本を見つける。
モグリで隣の学部の講義に忍び込む。
偏屈な教授に見つかって捕まる。
なぜかそのまま研究室に居つく。
そこにあったのは、偶然の連鎖だ。
いわば「知的遭難」である。
では、現代の大学生はどうだろうか。
まず検索。
次にSNSの口コミ。
次に先輩から回ってきた単位取得率のデータ。
最後に、極めて安全に履修登録。
彼らは迷子にならない。 なれない。
環境がそれを許さない。
第二章:レルフの迷子
レルフの言う「場所性(プレイス)」。
それは、人間がその空間と深く関わり、
出会うことで立ち上がるものだ。
だが、レルフがその理論を打ち立てた時代には、
Googleが無かった。
ChatGPTも無かった。
楽単(ラクに単位が取れる科目)を網羅した
履修レビューサイトも無かった。
つまり当時は、「迷子になる自由」
が構造的に担保されていたのだ。
今は違う。
学生は大学の門をくぐる前から、
スマホの中に完璧な
「大学攻略本」を持っている。
第三章:履修要覧という迷路
大学側はドヤ顔で言う。
「我が大学のカリキュラムは多様です。自由に学びなさい」と。
しかし、学生が見ているのは学問ではない。
「卒業要件表」という名の数字のパズルだ。
単位
必修
選択必修
GPA
就職
資格
今の学生は、知の地平を歩く探検家ではない。
効率よくポイントを溜めて出口(卒業)へ向かう、
「ポイントの収集家」になっている。
第四章:サブスク大学
大学側は、複雑な履修要覧を作って
「知の迷路」を提供したつもりでいる。
しかし、学生が見ているのはゴールまでの最短経路だけだ。
観光地に例えるなら、これは自由旅行ではない。
ガチガチにスケジュールが組まれた「修学旅行」だ。
「次はここ」
「次はここ」
「最後にここ」
お金さえ払えば、決められたルートを回るもよし、
自分のオリジナルもよし、
という建前だが…
気が付けば全員が同じ場所で、
同じようなスマホ写真を撮って終わる。
それは
「地獄におちるわよ」
と言われるのを喜んでいる視聴者と同じだ。
第五章:海尾の反論
誤解しないでいただきたい。
私は大学の効率化を求めているのではない。
むしろ逆だ。
もっと迷わせろ。
本当に迷わせろ。
サウアー先生が言うように、学生をさっさと外(フィールド)へ放牧するべきだ。
地理学科の学生を、半期だけ哲学科へ強制的に放り込め。
農学部の学生を、地域史の研究室へ潜り込ませろ。
工学部の学生を、過疎化の進む山村調査へ、
あるいはシャッター通りの商店街へ、地図を持たせずに放り込め。
予定調和をぶっ壊すのだ。
単位表の上でのお勉強ではなく、
予期せぬ「知的事故」を意図的に起こさせろ。
第六章:計画された迷子
しかし、ここで土屋先生のあの冷ややかな声が、
再び私の脳裏をよぎる。
「海尾君、お前が言っているのは『計画された迷子』だな。
だが、迷子は偶然だ。
教育は設計だ。
大学という制度が、
偶然を設計できるわけがないだろう」
まさに、そこが致命的な矛盾なのだ。
大学という制度は、
「偶然を設計すること」
ができるのか。
サウアー先生の言うような
「野生の知的遭難を制度化すること」
ができるのか。
これこそが、私の本当の問いである。
終章
私は大学不要論を語っているのではない。
「大学神話不要論」を語っているのだ。
大学の本当の価値は、綺麗な教室ではない。
文字で埋まったシラバスでもない。
誇らしげな偏差値でもない。
人が、自分でも予想しなかった
「未知の場所」へ迷い込んでしまうこと。
そのダイナミズムだ。
もしそれがシステムによって去勢され、
失われたなら、大学はただの高い学費をとる
「資格予備校」になる。
そして私は思う。
分厚い履修要覧のどこをめくっても、
「迷子になる方法」だけは、一行も書いていないのである。
第3回予告
「大学の価値は講義ではない」 ――トゥアンの場所論と、キャンパスという幻想
ここでいよいよ、空間と思想の大家イーフー・トゥアンが本格参戦。
「友達との無駄話こそが真の教養だ」
「キャンパスの美しい芝生があってこそ、
大学という場所(プレイス)になる」
彼が繰り出すこの美しい
「場所の愛(トポフィリア)」
という最強の反論に対し、海尾守はさらに嫌な、
背筋の凍る場所へ議論を連れていく。
文化地理がっかり学会らしく、大学そのものではなく
「大学という空間」を解剖する次回、お楽しみに。
(第3回へ続く) 📚🏫🌱
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