『アンナ・カレニナ』は純然たる家庭小説にして、偉大なる失敗作である、それでもなお… ③
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…そして車輪の中央部が目のまえに来たまさにその瞬間に、彼女は赤い手堤袋を投げすて、肩の間に首をすくめて、車輪の下にのめりこむように手をつき、すぐに立ち上がろうとするような軽やかな動作で、膝をついた。と同時に、一瞬、自分のしていることにぎょっとした。 『わたしはどこにいるのからしら? 何のために?』 彼女は身を起こして、とびのこうとした。が、何か巨大な、非情なものが、彼女の頭を突きとばし、背中をつかんでひきずった。 『主よ、わたしをお許しください!』 彼女はあらがいえぬことを感じながら、つぶやいた。みすぼらしい百姓が、何やらつぶやきながら、鉄の上にかがみこんで何かをやっていた。その明りの下で彼女が、不安と、欺瞞と悲しみと、悪とに充たされた書を読んできた蝋燭が、かつてないほどの明るい光を放ちながら、さっと燃え上がり、これまで闇にとざされていたものをすべて照らして見せたかと思うと、ぱちぱちと爆ぜて、しだいに暗くなり、ついに、永遠に消えてしまった。
――
上のようなアンナの死に様を「人生の濁流」、あるいは「死の棘」、もっと言えば、「闇の力」のあらわれとするならば、
「…何のために祈るのか、理性では理解できぬままに、祈ったりすることを、くりかえすことだろうが、しかしおれの生活はいまや、生活全体がおれの身に起こりうるいかなることともかかわりなく、その一分一分が――これまでのように、無意味でないばかりから、善の正しい意義をもち、そしておれはそれを自分の生活にあたえることができるのだ!」
というレーヴィンの物語全体のしめくくりの信仰告白のごとき、「永遠の命」であり、「光の力」であり、「神の顕現」のようなものであって欲しかったのだろう。
がしかし、
まことにまことに残念ながら、永遠の家庭小説『アンナ・カレニナ』にあっては、前者の方が比べ物にならないぐらいリアルな感動を披露してしまい、後者はちっとも真に迫るものなく、結果、すべては面白くもおかしくもない、「空理空論」に堕してしまったのだ。
――と、そう言い切るまで、わたしは第八部をだけでも三度、読み返してみた。
そして、まことにまことに遺憾ながら、そのたびごとに同じ結論に至らざるをえなかった。
それというのもまず、
社交界全体がアンナの死を知ったのちの反応のごとき、あまりに無慈悲すぎ、無関心すぎ、無同情すぎた――これはとても良い。
その冷ややかな、あまりに冷ややかなペテルブルグ(社交界)を要約し、代弁し、表象すべく、ウロンスキーの実母をして「何とおっしゃろうと、あれはわるい女」とか、「信仰を持たないけがわらしい女にふさわしい死に様」などいう言葉を吐かしめた――これもたいへんに巧い。
そんなセリフをば、かつて「熱烈に恋していた少女マリィ」を失って以降、「精神生活だけを生きている」、それゆえに己が思想と著述以外のいっさいについてほとんど徹底した無同情の内面をしたレーヴィンの異母兄、コズヌイシェフに聞かせた場面たるや――
かてて加えて、最愛の人アンナに先立たれたウロンスキーが、自費で義勇兵を雇い入れ、同胞がための戦争へいざ赴かんとする最後のひと時に立ち会った、「人間としてはもうぬけがらです」という辞世の告白を聞き及んだその者とて、同じまったき部外者コズヌイシェフばかりだったという演出たるや――
まさにまさしく「リアリズムの巨匠」ここに極まれり、といったところであろう。
このように恐ろしく冷徹にして、すばらしく徹底したリアリズム的描写であればこそ、
ペテルブルグにせよモスクワにせよ、もはやロシア社交界にはあっては「アンナ・カレニナ」を記憶し、心に留めようとする人は、誰一人として存在しはしない、
しかして「それこそロシア的」な、「アンナ亡き後の世界」とは、これからも手を変え品を変えながら、連綿と続いてゆくのだろうというふうに、読者は悲嘆おくあたわざる思いをば抱かせられざるを得ないのだ。
すなわち、
ウロンスキーのように社交界から去ることなく、終生とどまり続けることを選び、選んだからこそアンナとウロンスキーとの間に生まれた遺児を引き取ることを決めた、「政治屋」カレーニン、
実妹を失った印象とて、すぐに、ごく自然に、忘却の彼方に追いやってしまえるような、生のままのロシア的、かつスラブ的な、「善良なる俗物」オブロンスキー、
そんないっさいについて心底より冷笑的か、まるで無関心の「議論家」コズヌイシェフ、
このような人間たちばかりが、これからもずっと生き残り、かつは富み栄え、かつは幅を利かせてゆくのであろうと――。
これとまったく同様に、
オブロンスキーの妻にして「不満なる母」ドリィにしても、ひっきょう同じ穴のムジナではないか。
かつまた、レーヴィンの友人の「知識人」カタワーソフにしても、
親戚の「旧時代の貴族」シチェルバスキィ家の人々にしても、
またそして、最愛の妻にして「新世代の母」なるキティにしても、
さらにくわえて、そんなすべての人々と、すべての人々の中で生きていかざるをえない己を客体視し、それゆえに生きる意味に苦悩する、「ロシア全土の良心」であるところのレーヴィンその人にしても、
彼ら「生粋の俗人たち」とはみなみな生き残り、みなみな一様に生きながらえ、「アンナ無き世界」を、ただただ当たり前のように生き続けてゆく―――
ああ、永遠の家庭小説『アンナ・カレニナ』の第八部とは、こうしたアンナを忘れ、アンナをも、ウロンスキーをも記憶わなくなった人々ばかりがこぞり集まり、その間にて執り行われたる「頭のうわべだけ」の議論によって、大半を占められているのである、
それのなんのための議論かと問うた日には、戦争だの民族だの国家だの民衆だの宗教だの――まるでまるで、あのかつて人生の濁流によって破壊せられた、作り物の橋にしかず……!
そがゆえに、
そんな虚しくも虚しき議論にただひとり、実際的行動をもって参画した者はだれか――
それは「自費で戦争に行った」、ウロンスキーだったのではないか――
いかな悲劇であれ、破滅であれ、捨て鉢のような命の投げ出しであれ、なんであれ、一人の人間として「作り物ではない人生」をまごうかたなく生きたのは、ほかのだれでもない、「アンナ・カレニナ」だったのではないか――!
――などというふうに、いや、などというふうにしか思わせられないほど、この一大長編が大詰めが大詰めの第八部における、「生き残った俗人たち」による空虚な、無価値な、そして面白くもおかしくもない議論の有様たるや、ひどすぎるのである。
「ひどすぎる」というのは、それら議論の核心について、読者として「心同じくできないこと」これであり、ただこれに尽きる。
まして「頭のうわべだけ」の対人的議論ばかりか、トルストイその人によるいかにもトルストイその人らしい「魂の懊悩」のごとき、対自分、もしくは対神的議論にいたって、ああ、どこまでいっても同情も同調も共感もできようはずのない、もっとも「ひどすぎる」―――――
だって、なんの「カタルシス」にもなっていないもの…!
第八部のレーヴィンの、レーヴィンによる、かつてニコライの死を前にして、あるいはキティの出産に立ち会って、「信仰」らしきものを抱いたというような追懐が、
突然とってつけたように登場するプラトン、スピノザ、カント、シェリング、ヘーゲル、ショーペンハウエルだのいう威名英名が、
それら古の賢人たちが諸学説や、それらに対する反証、なかんずく、「特に唯物論に対する反論を考え出している」というレーヴィンその人の懊悩煩悶が、
またそして、そんな生きる意味を探り当てあぐね苦しむ彼が前にたちあらわれて、「魂のために生きる」とか、「神様を忘れない」とかいう名も無きロシア農民が名言が、
それら名言を心へもたらせられて、そのために、これまた実にもって質素質朴たる、人間らしい感動に魂をうちふるわせた、レフ・H・トルストイの内的告白が、
そういうすべてをとりまとめながら、夜空の銀河の支流を見つめ、稲妻の光と遠雷のとどろきに感じ入りつつ、愛する妻を愛し、「おれ一人だけに必要な、大切な、言葉にできない秘密」を胸に秘め、「信仰か、信仰でないのか分からないが、一分一分が善の正しい意味をもち、あたえることができる生活」――そういう「理性によらず与えられたる、生活全体」が、
あるひとつの、非業の死を遂げなければならなかったあるひとつの、「不幸なる家庭」に滅び去ってゆくしかなかった、もっとも不幸なあるひとつの魂にとっての、たったいっぺんの癒しにもなっていないないもの…!
そしてその不幸にしてもっとも哀れなる魂を追っていった、もう一つの魂のための、たったひと言の「理性によらない祈り」たりえもしなかったもの…!
なによりもって、そんな程度の信仰告白が、おそらくは19世紀の文学史上もっとも徹底したリアリズムによるもっとも家庭的にして、もっとも文学的な悲劇がための、いかなる浄化作用となりえなかったばかりか、いっぺんの「希望」とすらなりえはしなかったもの…!
……
「宗教全般については毎日教会に行ったり、床に頭を打ち付けたりすることではなく、それは心の中にあるものだ。…ロシア文学の天才として西洋でもよく知られているドストエフスキーは、この「ロシアの魂」についてたくさん語っている。西洋社会はより実利的であるが、ロシア人はもっと永遠について、道徳的価値について考えるからだ。」
ここで突如話頭を転ずるようであるが、上は2024年12月現在ロシアの大統領であり、最高権力者であるところのウラジミール・プーチンが、同年2月に、ロシアの最大の敵国たるアメリカの某ジャーナリストとのインタビューにおいて語った言葉の一部抜粋である。
そしてこれまでに述べて来たように、19世紀ロシア文学の最高傑作のひとつである『アンナ・カレニナ』が、いやはてのいやはてで、無様な失敗を露呈してしまったとはいうものの、同じその偉大なる失敗が「それでもなお・・・」とわたしをして言わしめるのは、「アンナ以後の世界」を生き永らえた俗物たちによる立ち居ふるまいの一々が、いみじくもその後のロシア帝国の衰退と崩壊を予言していたものと、思わせられてならないからである。
が、もちろんわたしはここでロシアが国の歴史について、仔細らしく語ったりするつもりもいっさいなく――というのも、外側においても内側においてもわたしはロシア人ではないから、おおよそ、ヨソサマの国の歴史についてロクな知識のあろうはずなく、たとえあってもそれを語りきろうという十分な情熱を有しえないのだから――もしも読者諸兄の内でそれを聞きたいと望む者のいるとならば、手元になんの原稿らしきものとてなく、しかし自国の歴史をば敵国のメディアを相手に縷々と語りえた、プーチン某のインタビューの文字起こしでも拾い読みされたらよかろう。
少なくも、それは3500万円がとこ公金をば書籍代として費消してみせやがった我が国の、薄気味悪き妖怪面をした某劣等知性と陋劣品性の極みとでも呼びならわすべき「カレーニン(政治家)」なんかには、とうていなしえはしない芸当であった。
だから思うにつけ、当世ロシアのウラジミール某なる人物にあっては――良きにも悪しきにも――「ロシアの魂」なるものへの熱き思い入れがあり、みずから「私は歴史的使命(ロシア帝国の復活)を負っている」と公言してはばからないほど強き情熱を負っているようで、これまた少なくとも我が国の、同時代のいかなる為政者や官僚においてとうてい及びもつかなければ、ついぞ胸に抱きえたためしもないほどの、千万したたかな使命感に相違ないということだ。
その証拠に、戦後日本の売国為政者ども、なかんずく自民党なる売国一党裡に巣食い、民衆の生き血を啜り喰らってぶくぶく肥えに肥えたる人非人や、地獄行きの豚畜生どもの血塗られた手によって、これまで為されてきたことを見られよ――
たとえば「減反政策」のごときどんなにか戦後日本の国力を弱め、どんなにか国民を飢えさせ、どんなにか精神および情操教育にも必要欠くべからざる里山風景を衰退させ、破壊させ、荒廃させた、我が国2600年の歴史においてもっとも愚かにしていやしむべき、だらかしてぜったいに許すべからざる完全無欠の国賊行為であったことだろう…!
『アンナ・カレニナ』の第三部二十八章において、トルストイは例によって分身レーヴィンにこう言わせてる、
「…われわれはもうずっと以前から、労働力の特性というものを考えずに、自分の考えで、ヨーロッパ式にねじ曲げてきた。試みに、労働力を理想的な労働力ではなく、おのれの本能をもった「ロシアの百姓」と見なして、それに応じて経営を行ってみようじゃありませんか…」
そもそも文学者が政治を語り、宗教を語る行為たるや、お門違いもはなはなだしい――いわんや、経済だの経営だのいうカネの話においておや。
が、そんなお門違いを終生生真面目大真面目にやりつづけた、ロマンチックで、ペダンチックで、それゆえに往々にしてマトハズレだったトルストイにして、まだマシというというものである。
すなわち、日本国の労働者たちをば「おのれの本能をもった大和民族」と見なすこともせず、見なそうともせず、たったの半秒たりとてそんな考えを心の端に抱き得たためしだになく、それだからして「減反政策」なる売国政策を取りつづけ、膝下の民を苦しめ続けて来た「戦後80年」の自民党に象徴せられる為政者ばら一人びとりの、その陋劣千万にして至卑至低の品性に突き比べたなら、まだマシだというのである。
その証拠としても、本年元日に発生した能登地方巨大地震による爪痕の、いまだ痛々しくもはなはだしき惨状をすらしりめにして、そのために苦しみつづける同胞への救援と復興のためであらばこそ、「未来への投資」だのいう真っ赤な詐欺の文句をぞ旗印に戦争をくり返すウクライナと、その背後に陸続とうち連なったアメリカや欧州やの戦争商売人どもがための資金援助――この国の民の、血と涙と汗のにじんだ「日本円」をつぎ込んだのだ!――という罪深い、ぜったいに許すべからざる犯罪の歴史を記憶せよ。
わたしは先述のとおり、ロシアが歴史について論じてみたいとも思わないように、こんなところで当節のロシアとウクライナの間で勃発し、絶賛継続中の交戦についての是非や、事の正邪なんぞをあげつらうつもりもけっしてない――そんな、それこそ「頭のうわべだけの議論」がやりたくば、まさにそういうことにのみ血眼になりたがる「アンナ無き世界の俗人たち」など、それこそ時も二十一世紀まで下ったこの世界にあって、数知れぬウジ虫のごとく蠢動しているのだから、やりたきゃこの世の終わりまでやっていろ。
ただひとつ、ただひとつ、ここにはっきりとはっきりと言っておくものだが、本年2024年元旦に発生した大地震による災害救援と復興のためでどうしてもない、それからわずか半年と時のたたぬうちに、他国の、他大陸の、他民族同士による戦争商売がためのカネをつぎ込んだ、「戦後日本」の為政者どもとは、完全かつ絶対的に「間違えた」ということである。
そしてそんな「戦後」なるあまりに間違えた、見当違いの、日本史最大にして最低の恥部たるマトハズレ野郎どもの、ちゃんちゃらおかしいばかりの「80年史」なんぞを温故するぐらいならば、『アンナ・カレニナ』の不幸なる生涯と、その鉄道自殺という非業の結末によって取り結ばれた、架空の昔話のひとつをでも読み返していた方が、よっぽど人生の無駄遣いにならないというのである。
――これがこの文章がタイトル「それでもなお・・・」へ刻み込んだ、怨嗟のような思いである。
だからいま一度、ここにはっきりと言っておく、
『アンナ・カレニナ』とは、徹底したリアリズムによる、19世紀ロシアの貴族社会を生き、生ききれずに死なざるをえなかった一人の不幸な女の一生を描ききった、純然たる家庭小説であり、偉大なる失敗作である、
それでもなお、
たかが閉ざされた世界における、失敗のフィクションにしてなおなお、はるかにはるかにマシなのだ、
現実の、生身の、この現世の、すなわち「金、健康、時間、家族、友人」以外のいかなる価値基準をば見いだせず、見出そうともせず、ただひたぶるに可視の富、うたかたの繁栄、此岸の安寧をばかりを追い求めて来た「戦後」なる風潮の、いかにも西洋的な、あまりに西洋的な実利主義ただそれだけをしか収蔵しえなかった、醜悪きわまる排泄物か、吐しゃ物のごとき実生活のいっさいよりも、
より「永遠」や、より「道徳的価値」の方へと目をさし向けつづけた、たかがフィクションのごときアンナや、ウロンスキーやの体現した生き様や死に様、すなわち「人生の濁流」の方が、まだずっとはるかにはるかに生き生きとした、よって人間らしい、よってくりかえし温ね、くりかえし訪い、しかりしこうしてくりかえし心に記憶すべき、「一分一分が善の意義を持ちえる生活全体」、これなのである。
日本に限らず、「戦後」におけるあらゆる「作り物の橋」を造りつづけたあらゆる国の、あらゆる民族による生活の集積、すなわち「戦後の歴史」その全体が、誠実な、あまりに誠実な、それがために破滅してゆくより手立てのなかった「アンナ・カレニナ」ただ一人の、非業の死にさえ如くものではけっしてないのだ。
しかのみならず、ひっきょう文学的には無様な失敗たるにすぎずとも、ロマンチックで、ペダンチックで、往々にしてマトハズレだったトルストイの大詰めの信仰告白にあってなおなお、はるかにはるかにはるかに――――
ああ、これ以上何を言おう。
『アンナ・カレニナ』が書かれ、それを書いたトルストイが死に、その後まもなくロシアは衰退し、崩壊していった。
当然の帰結である。もはやくり返すのもかったるいが、「アンナ・カレニナ亡き後の世界」にあっては、たとえばレーヴィンやトルストイのような愚直な人間よりも、偽善者や俗物や口巧者な人間ばかりがはびこり、権勢をふるったからである。
だからして、それと同様に、「戦後日本」も早晩、落ちぶれ、衰退し、滅び、失くなってゆくであろう。
これについては、わたしはたとえば『裸の王様たち』といった文章においても、いっさいならず書き連ねて来た。
それゆえ、ここにまたはっきりと言っておく、西洋的な実利主義に股を広げ、股ばかりかケツの穴までうち広げてみせたような破廉恥きわまりなき「戦後日本」なんぞ、どうぞあとかたもなく、完膚なきまでに、草木一本残らぬように、永遠かつ不可逆的に、滅んでしまったらいい。
なんどでも言っておく、「金、健康、時間、家族、友人」というどこまでも目先の富、可視の繁栄、地上の安寧ばかりを追い求めてつづける西洋的な、あまりに西洋的な実利主義など、たったいっぺんの憐れみもかけられず徹底的に、あまりに徹底的に滅ぼし尽くされてしまえ――!
『アンナ・カレニナ』第三部十章には、こんな言葉も残っている。
「それにしても、何のために子供たちとフランス語で会話するのだ。…実に不自然で、虚栄心が見えすいている! 子供たちもそれを感じているんだ。フランス語を教えて、真心を忘れさせるのか」
「フランス語」に限らず、民主主義でも資本主義でも共産主義でも国際主義でも、あるいは平和主義でも――そんなちゃんちゃらおかしいばかりのなんちゃら主義と、なんちゃら主義という「蝮の卵」をば孵しつづける「外国語」なんぞと引き換えにして、日本語や大和魂やといった「真心」を忘れ去り、みずからうち捨てていった「戦後80年」の内には、たったひとかけの真実もなく、ほんのかすかな感動、真実の独り子たる感動だにない。
がしかし――
すべて心ある「アンナ・カレニナ」たちよ、そんな戦後社会に、いやこの地上世界に、もっと言えばあらゆる人生全体に失望しても、けっして絶望するには及ばない。
なぜなれば、
こんな、足もとで苦しむ同胞を救えないきょうびの日本社会にあっても、「たしかな日本語」はたしかに息づいているからだ。
それを知っているのは、たとえば冒頭にも触れた、まともな人の言語をさえ話せない戦後日本レジームにおける障がい児、「世一」である。
「その十人の正しい人のために、わたしは滅ぼさない」という言葉のとおり、
「真心」を知り、持ち、保ちつづける「世一」がために、「戦後」は滅ぼされても、「日本」はうち滅ぼされないであろう。
それでは、真心とはなにか、感動とはなにか、真実の感動とは――――
自分で食べて、自分で味わえ…!
たとえばこのわたしのように、自分の歯でもって『アンナ・カレニナ』を食み、自分の舌でもって『千日の瑠璃』をでも味わってみるがいい。
そうすれば、たとえばこのわたしのように、『アンナ』よりも『千日』よりも、ずっとずっと「良い小説」を書くことができる、
すなわち、アンナよりも世一よりも、はるかにはるかに「理性によらず与えられた人生」を生きることができる、
そのような、確たる、真なる、まごうかたなき「内的手応え」を、おのれが魂の手によってかき抱くに至るであろうから。……
