大海を知った蛙は井戸の中身と出逢えるか|#恋愛創作ゆるキャンプ
手荒れなんて構っていられない。毎日まいにち、いろんな人のいろんな頭をわしわしと揉んでいるから。
故郷を出て入った美容専門学校は、私にとって未知の世界だった。学ぶことだけじゃない。同級生の生活が全部、私の知らない世界の話すぎて、ついていけない。入学して最初に隣に座った、今では親友と呼べる存在の理彩にも話しかけるのがものすごく恐かったのを覚えている。住む世界がまるで違う見た目をしていた理彩は、後に言った。あんたが何もかもに素直に「わかんない、教えて」って言ったのがよかったんだよ、と。おかげで純朴な田舎者だった私もクラスで浮くことなく、でも変に染め上げられることもなく私のままで卒業できて、今に至る。
卒業してすぐ雇ってくれたサロンで、私はまだハサミを握らせてもらえていない。見習いはまずシャンプーと掃除から。といっても雑用というわけではなくて、力の入れ加減だったり水を流す向きだったりと学ぶことばっかりだ。
目の前しか見ていなかったから、その日の三人目のお客様の情報は見ていなかった。先輩に呼ばれて、シャンプーを頼まれる。その間の先輩は、奥で顧客情報の確認や道具の点検をする時間だ。少し前まではシャンプー台の傍で見守ってくれていたけど、先週から独り立ちしてお客様と一対一。
「シャンプーいたします、こちらへどうぞ」
半個室になっている部屋へ向かったら、ドレッサーのお客様と目が合った。相手も目を見開く。驚きすぎて、名前を呼ばないようにするのが精一杯だった。
シャンプー台に座ったお客様に、できるだけ事務的に声をかける。倒しますね、お顔の上失礼いたします。声が知らないうちにこわばる。
そのうちに、お客様──瞬が、口を開いた。
「元気にしてた?」
あの頃と、全く同じ声だった。
付き合っていたのは一年もなかった。高三の途中で告白して恋人同士になって、進学を機に別れたから。それから一度も顔を合わせていなかったのに、地元からこんなに遠くて縁もゆかりもないはずのところで今、私は元彼の頭を洗っている。
「……元気だよ。瞬は?」
「俺も、別に。元気」
口数が少ないのも、あの頃と同じ。
「こっち出てきたの?」
「そう」
「大学は?」
「辞めた」
「辞めた……?」
「やりたいことができたんだ。今は就職して、お金貯めてる。いつか大学入り直すために」
私の知ってる瞬は、どちらかというと計算で動くタイプで、将来の夢を語っていても生活がどうとか人生設計がどうとか、そういうことしか言わなかったのに。
「そっか、よかったね」
おめでとう、と言いかけて、めでたいのかわからなくてやめた。私にとっては、瞬が時分の道を見つけてくれたのは喜ばしいことだけど。
うん、とひとつ相づちだけ打って、瞬が黙る。わたしもお湯加減と流し足りないところだけ訊いて、それ以上口を開けなかった。
トリートメントを流しているとき、呟くのが聞こえた。漏らさないようにほんの少しだけ近づいて、瞬の言葉を拾う。
「彼氏とは上手くやってるの?」
「え?」
彼氏なんていない。学生時代はそもそも恋愛観が周りと合わなかったし、今は新しい出逢いを探す余裕もない。
「彼氏、いないよ?」
「……え?」
「いない。誰とも付き合ってない」
瞬と別れてから。
沈黙。それきり瞬は何も言わなくなった。トリートメントを流し終えて、フェイスタオルで水分を拭き取る。ざっとぬぐって、あとは椅子を起こしたら私の仕事はおしまい。
濡れたフェイスタオルを新しいものに交換しようとして、思いついてサロンのポケットに手を突っ込む。名刺とペンを取り出して、サロンの電話番号の下にLINEのIDを書いた。
起こしますね、と声をかけてから、椅子を動かす。お顔の上のタオルをどかして、もし。もし、目が合ったら。
この名刺を、渡してもいいかな。
恋愛創作ゆるキャンプ
サブお題:「広い」 × 1 hour writing(ワンライ)
でした。
この作品はだいたい1時間と、ちょっぴりのアディショナルタイムを添えてできあがっています。
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