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『ワルプルギスの廻天』考察——夢の終わりと、次の少女たちへ

先日、劇場版 魔法少女まどか☆マギカ
    〈ワルプルギスの廻天〉

             予告PV第3弾 公開された。

次いでPV内に登場する
2人の魔法少女が正式に発表された。

前のPVから約4ヶ月後の続報となり、
約2年前の特報第1.1弾から比べると
更に進化し8月末に放映との事で
かなり期待が高まる。

本記事は主にこの2つのPVから
読み解いて考察していく。

※この記事は以下のネタバレを含みます。
・魔法少女まどか☆マギカ
└TVアニメ本編及び劇場版 前半/後半
・劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語

序文:剥き出しになる「生」の予感

最新PVの冒頭、まどかが下唇をめくり、
歯茎を露わにするカットが映る。

約1年半前も、ほむらが同じように
歯茎を見せるカットが話題になった。

特報第2弾PVより

あの演出が意味していたのは何だったか。

魔法少女とは本来、キュゥべえのシステムによって魂をソウルジェムへと移された存在だ。

肉体はいわば「記号」であり、
痛みも飢えも感じない美しい入れ物にすぎない。

その「入れ物」が、歯茎という粘膜と骨格を剥き出しにしている。

これは「魔法という仮面の剥落」ではないか。

記号としての魔法少女から、
痛みと飢えを伴う生身の人間への回帰。

前作でほむらが、今作でまどかが同じ演出を与えられているという事実は、二人が「救済者と被救済者」という役割を脱ぎ捨て、同じ土俵に立つ「生物」として向き合うことを予告しているとも読める。

では、その先に何があるのか。

本記事が立てる問いはこうだ。

本編から続く「ほむらの物語」は、
『廻天』でどこへ着地するのか。

そして戯曲が終わるとき、
世界の主役は誰になるのか。

第一章:これは最初から、ほむらの物語だったかもしれない

『魔法少女まどか☆マギカ』本編の主人公は、
表向き鹿目まどかだ。

タイトルにその名を冠し、ピンクという最も目を引く色彩を与えられた少女。

しかし物語を最初から最後まで動かし続けていたのは、暁美ほむらの執着と愛だったとも読める。

時間を巻き戻し、何度もループを繰り返し、まどかを救うためだけに生きてきた少女。

本編はその意味で、まどかを救おうとするほむらの長い長い独白だったのかもしれない。

叛逆の物語ではそれが明示された。
ほむらは神となったまどかを引きずり下ろし、
自らが悪魔となって世界を作り替えた。

主体はもはや疑いようがない。

本編・叛逆と続くこの流れには、
もう一つの構造が走っている。

戯曲との対応だ。

本編のモチーフはゲーテの『ファウスト』だ。

ファウストが魔女たちの祝祭「ワルプルギスの夜」の狂乱の中で、かつて愛した少女グレートヒェンの幻影を見る場面がある。

彼女の首には処刑の跡を示す赤い線があり、
ファウストは罪悪感に苛まれる。

偽りの世界の中でまどかの真実に直面するほむらの構図と、これは酷似している。

叛逆のモチーフはチャイコフスキーの『くるみ割り人形』だ。

主人公クララが訪れる「お菓子の国」は
美しく楽しい夢の場所だが、
最後にクララは現実のベッドで目を覚ます。

しかしほむらはその夢を終わらせることを拒絶し、夢を現実として固定した。

ハッピーエンドの戯曲を
「終わらせない呪い」へと書き換えたのが
叛逆の物語だ。

本編がファウスト、叛逆がくるみ割り人形。
この対応が成立しているならば、
廻天にも「最後の戯曲」が存在するはずだ。

その最有力候補は
シェイクスピアの『テンペスト(嵐)』である。

『テンペスト』はシェイクスピアの最後の単独執筆作とされる。

魔法を持つ主人公プロスペロが孤島に箱庭を作り、復讐と支配の戯曲を演じ続ける物語だ。

そして物語の終わりに、
プロスペロはこう宣言する。
「私の魔法はすべて消えた」と。

ほむらが作り上げた見滝原という箱庭。
復讐と愛によって維持され続けるその舞台。

本編(+劇場版)後半でワルプルギスの夜が現れる際にニュースで「明らかにスーパーセルの前兆です!」と言っており、街のみんなが体育館に避難していた。

※地上波では震災につきカットされた

発生したスーパーセル(巨大な嵐)という
視覚的一致も、嵐の象徴だったと読み解ける。

さらに補助線として、
ダンテの『神曲』も引いておきたい。

地獄・煉獄・天界を巡るダンテの旅路に、
歴史上の英雄や奇跡を起こした者たちが次々と現れる。各地で奇跡を起こした者たち——

それは言い換えれば、魔法少女ではないか。

スピンオフも含めた無数の魔法少女たちが、
ワルプルギスの夜という集合体の構成要素として現れるとするならば、『神曲』はその構造を読み解く補助線になりうる。

戯曲の系譜は、廻天で幕を閉じる。
そしてその幕引きを担うのが、
プロスペロならぬほむら自身だとしたら——。

第二章:タロットが示す「主観と客観の断絶」

旧PVに二枚のタロットが登場する。
まず視覚的に判別しやすい一枚目から見ていく。

ⅩⅧ : THE MOON(月)

タロットの月が本来意味するのは
「不安」「幻惑」「見えない敵」だ。

しかしこの月は、
半分が機械仕掛けになっている。

この演出には二つの層がある。

一つ目は叛逆の物語との接続だ。

叛逆の終盤、ほむらが円環の理の力を奪う場面で、月が半分に割れる演出があった。

旧PVの機械化された半月は、
この示唆として読める。

奪われた半分の力が、キュゥべえのシステムによって機械的に代替されている——

神の奇跡を悪魔のシステムで
無理やり制御している歪みの象徴だ。

二つ目はデウス・エクス・マキナとの接続だ。

「機械仕掛けの神」を意味するこの演劇用語は、
物語の外側から強制的に解決をもたらす超越的装置を指す。

月の半分が機械になっているということは、
この世界の「神」の座そのものが機械装置と化しているとも読める。

そしてワルプルギスの夜は、
「舞台装置の魔女」とも呼ばれる存在だ。

機械仕掛けの月=デウス・エクス・マキナ=舞台装置の魔女——

この三つが同じ軸の上に並ぶとき、
ワルプルギスが単なる敵ではなく
「物語を強制終了させる装置」として機能する可能性が浮かぶ。

もう一枚、同PVに登場するタロットがある。

ほむらの正面顔に、上下逆さまの「愚者」という文字が重なる場面だ。


タロットの「愚者(THE FOOL)」
番号「0」を持つ特別なカードだ。

何色にも染まっていない無限の可能性と、
同時に崖の縁を歩く危うさを象徴している。

画面上でこのカードは逆さまに——

つまり逆位置として提示されている。

逆位置の愚者が意味するのは、
無計画な破壊、盲信、奈落への転落だ。

システムを壊した後のしわ寄せを無視し、
ただ目の前の平和を維持しようとする危うさ。

自由を手に入れたつもりが、
実は孤独という名の底なし沼へ落ちていっている状態。


ただし、もし正位置であれば話は変わる。

かつてのほむらにとって
この状態は「理想」だったはずだ。

円環の理というシステムから
まどかを引きずり出し、
一人の少女として自由にした。

誰にも理解されずとも、
愛する人のために新しい理を始めた。

すべてのルールを壊して「0(愚者)」に戻った——
という彼女なりの肯定的な解釈は成立する。

しかし制作側は意図的に
これを「逆」として見せている。

ほむらが正しいと信じて行っていることが、
世界にとっては破滅である。

この主観と客観の致命的なズレこそが、
この演出の核だろう。

二枚のタロットが示すのは同じ結論だ。

救いと破滅は、ほむらの世界において完全に一致している。

第三章:無貌の神と夢の宇宙——ほむらという「支配者」の正体

新PVの終盤に、異質な存在が映る。

ほむらと思しき人物の顔が、
銀河の様になっている。顔がない。
あるのは宇宙の深淵だけだ。

数字は公開日

このビジュアルはクトゥルフ神話における
ニャルラトホテプの側面と酷似している。
(ナイアーラトテップとも)

ニャルラトホテプとは「這い寄る混沌」とも呼ばれる旧支配者の一柱であり、その本質は「無数の顔を持ちながら、真の顔を持たない使者」だ。

そして彼が仕えるのが、
宇宙の中心で眠り続ける
盲目の白痴神アザトースである。

📎【クトゥルフ神話・ニャルラトホテプについて】

📎【アザトースについて】


アザトースはラヴクラフトの作品群において
「宇宙の第一原因」、「原始の混沌の中心」として描かれる存在だ。

そして広く流布している解釈として
「アザトースが眠り続ける限り世界は存在し、
目覚めると世界は終わる」
というものがある。

ただしこれはラヴクラフト作品からの解釈的集積であり、一つの原典に明記された設定ではない点は注記しておく。

この解釈をまどマギに重ねると、
一つの読みが浮かぶ。

ほむらが作り上げた世界とは、
アザトースが見ている夢ではないか。

叛逆の物語でも、ほむらが構築した
「魔女結界」の中の見滝原は
「虚構の世界」として描かれていた。

その延長として、
悪魔ほむらが支配する現在の世界もまた、
夢の中の出来事にすぎないとするならば——

新PVの「顔が銀河になったほむら」は、
夢を見続ける神(アザトース)そのものとして
完成した姿だとも読める。

また、ほむらの髪色や表情からも本人を模倣している「使者」である可能性もあり得る。

ニャルラトホテプが「使者」であるように、
この姿はほむらが「意志を持つ世界の支配者」へと変質したことの視覚的表現ではないか。

ここにキュゥべえの問題が接続する。

キュゥべえ(インキュベーター)は設定上、
「感情を持たない、宇宙の熱力学的な
寿命を延ばすために来た外来種」だ。

叛逆の結末でほむらはキュゥべえを使役し、
世界の汚れを押し付ける存在として扱い始めた。

では、増え続ける世界の澱みを
ほむらが処理しきれなくなったとき、
何が起きるか。

一つの仮説として——
悪魔ほむらが、使い古されたキュゥべえを
宇宙の始まりへ送り込むという可能性がある。

因果の環を閉じる、いわば「第二の叛逆」だ。
これによって本編第一話における「キュゥべえの来訪」へと繋がり、物語は完全な円環を形成する。

新PVでの台詞
「私の知らない魔法少女」は、
この文脈で読むと意味が変わる。

ほむらが構築した世界の理の外側から、
彼女が管理していないはずの魔法少女が現れた——

それは、ほむら自身が制御不能な因果を呼び込んだ結果かもしれない。

廻天(回転)の真の意味とは、
この夢の円環の強制起動ではないか。

そしてその円環を誰かが断ち切るとき、
夢は終わり、現実が始まる。

第四章:「災厄」の逆転——ワルプルギスは誰を止めにくるのか

旧PVの中で、ワルプルギスの夜に
ついてこんなテキストが現れる。

「その性質は無力。回り続ける愚者の象徴。」
愚者。

第二章で触れたタロットがここで再び現れる。

逆位置の愚者としてほむらの顔に重なった
あのカードが、今度はワルプルギスの夜の
「性質」として語られている。

0=無力、回り続ける、愚者——
この三つの言葉は、ほむらとワルプルギスを
同じ軸の上に置いている。

ほむら=ワルプルギスという読みを、
ここで完全には否定できない。

ほむらが無数のループの果てに積み重ねてきた絶望と愛の結晶が、ワルプルギスの夜という形をとって現れる——という解釈は、シリーズを通じた因果の帰結として十分な説得力を持つ。

「結局ほむらでした」という着地は、
残酷なほど綺麗な円環だ。

しかし、もう一段踏み込んでみる。

ほむらとワルプルギスが向かい合い、
「災厄」の文字が反転して配置されている。

反転した文字がワルプルギス側に向いているとするならば、「災厄」と呼ばれているのはほむらの方だ。

ワルプルギスの夜はもともと
「複数の魔法少女が合体した存在」という設定を持つ。

スピンオフも含めた無数の魔法少女たちの意志の集合体。

もし悪魔となったほむらが世界そのものを歪める「災厄」になったとしたら、宇宙はその歪みを修正しようとする反作用を起こすのではないか。

かつての仲間たちの意志が結集し、
ワルプルギスという形をとって現れる——
それは因果応報として、美しい着地になる。


ダンテ『神曲』で地獄・煉獄・天界を旅するダンテが出会う英雄たちのように、各地で奇跡を起こした者たち=魔法少女たちが集合し、世界の自浄作用としてほむらの前に立つ。


もう一つ、新PVの中で骸骨のような顔を持つ存在が討伐される場面がある。

まどかの左目に見える何か

魔獣である可能性も否定できないが、
「亡霊(Wraith)」というワードがあり、
ほむらの世界においても「人の呪いから生まれる何か」は発生し続けているのかもしれない。

戯曲の終わり——それは舞台の解体だ。
では舞台が解体された後に残るのは何か。

第五章:タイトルロゴが示す「主役の交代」

ここで一つの視覚的事実を提示したい。

歴代作品のタイトルロゴの色彩を並べると、
ある法則が見えてくる。

本編『魔法少女まどか☆マギカ』のロゴカラーはピンク。

まどかのイメージカラーだ。

物語の中心にまどかがいることを、
ロゴ自体が示している。

続く『叛逆の物語』のロゴカラーは黒寄りの紫。

ほむらのイメージカラーだ。

叛逆がほむら主体の物語であることが、
ここでも色によって示されている。

では『ワルプルギスの廻天』のロゴカラーはどうか。濁った黄金色だ。

PVおよび公式情報に登場する
主要な新キャラクターは
現時点で3人確認されている。

冒頭で紹介した紫丁香(し ちょうか)、セルマ、
そして名前も不明の主要人物だ。

謎の少女


この3人それぞれのメインカラーを抽出し、
重ね合わせると——

廻天のロゴカラーと一致する。

髪のハイライトを抽出

本編ロゴ=まどかの色、叛逆ロゴ=ほむらの色、廻天ロゴ=新キャラ3人の色。

ほぼ間違いなく、
廻天はこの3人が主体の物語だ。

公式が発表した新キャラ・紫丁香という名前はライラックを意味する。

ライラックの花言葉は
「友情」「思い出」「青春の喜び」だ。

まどかとほむらが紡いできた
物語のテーマそのものと言っていい。

彼女はまどかとほむらの物語を外側から見届け、その記憶を引き継ぐ「継承者」として配置されているのではないか。


そして歯茎の演出へ戻る。

魔法のない世界に生きる少女たちは、
痛みも飢えも感じる生身の人間だ。

奇跡も魔法も持たない。

それでも生きていく——

その「ただの日常」こそが、
3人の物語の舞台になるのではないか。

結び:カーテンコールの後に

本編から叛逆へ。
叛逆から廻天へ。

振り返れば、この物語はずっとほむらの話だったかもしれない。

まどかを救いたいという執着が本編を動かし、
まどかを手放したくないという愛が叛逆を動かした。

そのほむらの物語が、
廻天でついに終わる。

夢を見る神が眠り続ける限り、世界は続く。
しかし夢はいつか終わる。

アザトースの夢が終わるとき——

ほむらが作り上げた世界という虚構が解体されるとき——

そこに残るのは魔法も神も悪魔もいない、
ただの現実だ。

まどかがかつて願ったのは、
魔法少女が希望を持って生きられる世界だった。

魔法のない世界で歯を食いしばって生きることが、その願いの本当の形なのだとしたら——

それはほむらにとっての敗北かもしれない。
しかし少女たちが「役割」から解放される、
唯一の救済でもある。

カーテンコールが終わった後、
舞台に残るのは3人の少女たちだ。

魔法少女という存在が現実へ戻る日、
我々は現実の側でその帰りを待っている。

(終)


【PV4弾の考察はコチラ▼】

記事内の画像は考察目的での引用であり、
著作権は各権利者に帰属します。

©Magica Quartet/Aniplex・Madoka Movie Project

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