幾重にも重なる魅力。『文豪の古典力』島内景二
考古学には「複合遺跡」と呼ばれるものがあって、それは異なった時代の遺構が複合して発見される遺跡。縄文・弥生・大和・奈良・平安……いろんな時代の先人たちの生活したあとが、重なって発見される遺跡を言うのだそうな。
文芸作品も複合遺跡の性格を帯びていて、たとえば夏目漱石や森鴎外は、漢詩文と外国語に詳しかったから、彼らの生きた明治時代の影響だけでなく、中国の古典から西洋の近代文化までも作品の中に反映しているのだそうだ。しかも、彼らは日本の古典知識も有していたから、奈良時代から江戸時代までの影響もある。著者が近代文学を複合遺跡に例えるのは、こういう理由から。なるほど、上手い比喩だと思う。
近代の文豪と言われた夏目漱石も森鴎外も、日本の古典を吸収し、それと格闘することで自らの世界を作ることができた。中でも、『源氏物語』は究極の古典として君臨し続けていた。樋口一葉は、源氏物語のヒロインたちと自分を重ねあわせるように名作を世に送り出し、尾崎紅葉は冷めた目で源氏物語を捉え、それを作品に反映させた。
明治……それは西洋文化がどっと押し寄せ、国を挙げて近代化を目指した時代。でも、英語に堪能だった文豪たちは、西洋の書物以上に古典を深く理解し、向き合い、葛藤を重ねていった。ただし、明治中期から大正にかけての言文一致が日本語の断絶を生み、古典力を失っていく時代でもあったそうな。
著者の言う古典のDNAは、なんとなくわかる。十月よりも神無月の方に趣を感じたり、天の橋立を観光すれば「まだふみもみず……」なんて口ずさみたくなる。きれいな言葉、悲しい言葉は魂を持っていて、単なる単語としてではなく、和歌や文学の内容そのもの、それを生み出した文化や歴史の重みがある気がする。
著者は『源氏物語』研究の専門家。与謝野晶子が『源氏物語』の口語訳を書き、古典=(口語訳がなければ)読めないものという図式をつくってしまった。そして、「源氏詞」を現代語に直してしまった時点で、言葉の輝きや古典の心を失ってしまったと残念がる。
でも、すべての人が古典をじっくり勉強できるわけでも理解できるわけでもないから、『源氏物語』の口語訳に親しんで終わりにする人と、そこから原文にチャレンジする人があってもいいと思う。
ただ、むかしのNHKの番組であったように、『百人一首』を口語訳して親しみ安さをアピールすると、かえって安っぽくなっちゃう気がするのもある。それが、古典の難しいところかなあ。せっかくなら、意味だけ押さえつつ、別の詩をつくっちゃう最果タヒさんみたいな感性が私は好き。
もとい。古典の勉強は、単に古い言葉を覚えるだけでなく、自分の「魂のDNA」に気づくことだという著者の意見には賛成。でも、古典が読まれないことが、「日本文化の最良の遺伝子の消滅」なのかどうか、「人類の文化の凋落」かどうかは異論がある。文化のDNAは他にもたくさんあるだろうから。古典はその1つってことで。
明治の文豪それぞれの作品のどの部分に『源氏物語』の影響があって、文豪ごとに違った影響があるってことを説明してもらえる本書は、小説にあまり詳しくない私に楽しい経験だった。そして、実際に明治の小説や古典を原文で読んでみたくなった。
その他、本筋ではないけれど、与謝野晶子の口語訳のどこが良くて、どこが間違っているのか、なぜ1ページに誤訳が2,3もあるのかについての指摘と評価は『源氏物語』研究の専門家ならでは。おもしろかった。
明治時代は、かなりまだ江戸っぽいよねという話は、こちらの本もおすすめです。
