わくわくしかない。三国志&スパイ小説『風起隴西:三国密偵伝』馬伯庸(齊藤正高訳)
『三国志』が好きな人には、おすすめの本。私が言ってもあまり説得力ないですが、作者の馬伯庸さんは中国で歴史小説にすごく定評のある方なので、私が太鼓判を押しても大丈夫。馬さんの本は、どれも読み始めたら、途中から絶対止められない引力があります。
舞台はみんな大好き『三国志』の時代。といっても、劉備や張飛、関羽はすでに亡くなっていて、蜀は諸葛亮が丞相の時代。劉備の息子を皇帝として補佐します。対する魏では、曹操の孫の曹叡が皇帝。物語は、魏に入り込んだ蜀の密偵と、蜀に侵入した魏の密偵が、それぞれ重要な情報を狙って暗躍します。
時代設定は歴史に忠実ですが、スパイの暗躍は(当然ながら)フィクション。この史実とフィクションのブレンド加減、馬さんの小説は本当におもしろいんです。
主役の1人、陳恭(ちんきょう)は本籍と名前を実在の人物と偽って、何年も蜀の官僚として生活しています。彼が掴んだ情報は、独特のシステムで蜀に送られて、魏との戦争に役立てられます。
もう1人の主役は、蜀に入り込んだスパイをあぶり出す「靖安司」の荀詡(じゅんく)。陳恭からもたらされた情報をもとに、蜀のスパイを捕まえようとします。が、スパイも当然ながら有能で、敵だけど、かなりかっこいい。古代中国版『ジョーカー・ゲーム』っぽさがあります。
スパイ小説でおなじみなのが、身内の裏切り者が妨害するパターンや、無能な味方が邪魔をするパターン。馬さんの作品の場合は、いかにも中国らしい官僚主義が邪魔するところが読み応えあります。どんなに緊急性を訴えても「ちゃんとした手続きを踏まないとダメ」。
軍も靖安司も政府機関なので、手続きを重視すること自体は正しいんですが、上層部もいろいろ対立している蜀では、足かせもいいところ。あと一歩で、荀詡は敵を取り逃してしまい、左遷されてしまいます。こういう中国的ややこしさをエンタメにできるって、さすが中国の人って気がします。
荀詡の左遷先は、同盟を結んでいる呉。でも、友人だからといって味方ではない。呉は呉で、魏や蜀とはまた違った、文化の違う感じがおもしろかったです。あと、水路の発達した土地柄も。自分が知らない土地の昔の風景を、想像しながら読むスパイ小説はすごくワクワクします。
馬さんの小説で何が楽しいかって、1つは歴史物語のディテール。例えば、蜀では伝統的に軍馬には燕麦や黒豆を与えるけれど、スパイの身体についていたのは裸麦。蜀では裸麦は特別な場合にしか使わないので、荀詡はスパイの行動を突き止める…とか。
2つめは、ふんだんに引用される古典の言葉。登場人物の会話に散りばめられて、リズムもいい(これは訳者さまの力量大)。物語では、学のある人物の描写と、生粋の軍人(=学問が苦手)の人物では言葉の感じが違うし、今回は荀詡の部下にアシャールという漢族じゃない若者もいるので、それぞれ個性が出ていて楽しいです。
3つめは、最後のあとがき。小説ではこう書いている場面の、歴史背景はこうだった……的な説明が山ほどあってお得感大です。しかもこの本のあとがきは、冒頭で田中芳樹『銀英伝』のセリフが出てきて懐かし過ぎました。他、クリスチャン・ジャック、フレデリック・フォーサイス、ダン・ブラウンなんかの名前も出てきます。
本作は日本では最近翻訳されたばかりですが、もとは馬さんの初期の作品で、日本語訳は新版のもの。旧作は現代的な文体で、しかも間違いが多かったとか。例えば、三国時代にお茶を飲む習慣はなかったし、「◯◯大人」という尊称も宋代以降。サツマイモは明代に中国に入ってきた食物……など。事実関係はともかく、文体までなおすって、あまりないことでは?
というわけで、通勤時間で前半を少しづつ楽しんで、後半は週末にがっちり一気読み。読書養分をたっぷり補給できて、満足です。
ドラマ化もされているので、お好きな方はぜひ。翻訳者さまによれば、かなり原作とはストーリーが違うらしいですが。
