読み応えある4つの文化、4つの思考。『「論理的思考」の文化的基盤』渡邉雅子
タイトルからして魅力的なのですが、岩波書店のハードカバーなのに、発売から1年半で7刷! 読んでみたら、納得しかない内容でした。
「論理的」なことは「普遍的」なこと。それは、どこの国でも共通する価値観だと、なんとなく思ってしまいがち。でも、当たり前ですが、国によって、文化によって「論理的」の内容が違います。
最近、英語圏の方々と文章をやり取りする仕事が増えて、自分の文章スタイルだと、相手方に伝わらないことが何度かありました。メールとかメッセンジャーはいいんです。映画やドラマで見た(聞いた)言い方を思い出して、俳優さんになった気分でマネすればいいから。
でも、文章ってのは違います。自分なりに、理路整然とまとめた文章が「伝わらない」ってかなりストレス。「こうすればいいよ」って教えてもらえても、それは自分の中で理屈にあわないので、モゾモゾする感じ。中国語の文章のやり取りでも、多少はそういうことがありましたが、ここまで困惑したのも初めて。そんなわけで手に取ったのがこの本です。
渡邉先生ご自身は、留学して英語で小論文を書いたときに、日本では高評価を受けていたのに、アメリカでは低評価なのにショックを受けたとか。それで、アメリカ式の書き方に変えたら、途端に高評価になって、国毎の作文の論理的な「スタイルの違い」に気づかれたのだそうです。
日本の大学でよくあるリアクションペーパー。授業を受けて、自分が知らなかった事実を知って、考えがどう変わったか感想を書くもので、日本人学生に見慣れたもの。でも、留学生は何を書いたらいいのか戸惑うのだそうです。文化の違い、思考スタイルの違いって本当におもしろいです。
本書で、渡邉先生がとりあげるのはアメリカとフランス、そしてイランと日本。それぞれの国の作文スタイルと歴史観を比較して、国ごとの教育に反映されている価値観を探っていきます。
例えば、アメリカの思考表現は経済的原理に基づいています。良しとされるのは、すばやく効率的に話のポイントを伝えること。5パラグラフ・エッセイと呼ばれるスタイルは、序論で主張を述べ、本論で主張を裏付ける3つの証拠(事実)を提示し、結論で主張を別の表現で繰り返します。それ以外の方法は受け入れられません。
もともと、アメリカのヨーロッパスタイルの学問の伝統がありましたが、高等教育の大衆化が進んで、伝統とどう向き合うか試行錯誤があったようです。1970年代、アメリカではベトナム戦争から帰還した若者が大学に進学して、高等教育の大衆化が加速しました。
アメリカでは、多様な学力や文化的資源を持つ学生に、どうやって学術的な論文を書かせるかが課題になり、その結果、最初に結論を持ってきて、演繹的に論を進める形式が採用されました。最初のパラグラフを読むだけで主旨がわかる文章スタイルは、採点する側にも便利です。
歴史教育では、遠い将来の不確実性や、過去の長い時間の流れを追うのではなく、比較的近い将来に、実現可能な「目標」をたて、それを実行する手段を考えさせます。リスクをとり決断する技術が大事。大学入試試験でも重視されるのは、効率的にテクストを読み、判断する能力。
フランスの場合、ディセルタシオンと呼ばれる小論文の形式は導入、展開、結論の3部構造。導入部分では議論の中心になる主題を提示し、展開の部分では主題に対する一般的な味方と、それに反する見方を示し、この2つを統合する味方を提示して、それぞれ文献から引用します。結論部分では、議論をまとめて、新しい問いを提示して終わります。
フランスで重視されるのは、正しいとされる知識や前提を疑い、哲学的な方法で熟慮し、別のあり方を考える技術。フランスの小論文では厳密な引用が求められ、書き手個人の意見や体験、感情などは書かず、すべて引用で表現するそうです。
生徒が生きた時間は短いけれど、二千年を超える哲学や歴史からは、多様な事例が引き出せる。だから、学んで覚えるだけでなく、歴史の事例や古典から適切に引用して、議論の根拠にできる「選択の力」が求められているのだとか。
そんなフランスの歴史の授業では、フランス革命ですら理想化されずに、失敗して試行錯誤した歴史と教えられるそう。予期せぬ事態の発生やその後のエスカレート、天候条件の影響などなど。複雑な人間社会を勉強しておくって、やっぱり大事です。
イランでは、伝統的に「話す」ことを重視した教育が行われてきたけれど、グローバル化のなかで書くことが重要視されるようになったそうです。学校作文は自然、社会と道徳、宗教、国家の4つの主題に、「文学的断片」という美しくて響きがよく、印象的で、記憶に残りやすく、口ずさみやすい数ページのテクストを書く訓練をします。
おもしろいのは、主題がなんであっても全て最後は神への感謝か、作文のメッセージを的確に表現することわざ、詩、聖典の一節で締めくくること。道徳的・宗教的い正しい結論に向かうこと、期待通りの結論に落ち着くことが大事なのだとか。重視されるのは「秩序」。論証は重要じゃありません。
イランの歴史教育は、ペルシア帝国の栄光と異民族支配による屈辱の興亡のサイクルを学ぶこと。王と人民、支配する者とされるもの、私たちと敵、善と悪の二項対立によってものごとを捉える歴史理解の枠組みを理解します。
聖典クルアーンと人間が長い間蓄積してきたイスラームの諸法令に対して、生徒がこれを解釈したり批判的に見ることは想定されていません。作文を伝統的な形に落とし込んだり、有名な古典詩を織り込んで感情的な高まりを表現するのは、そういう理由なのだそうです。
日本の作文教育は、戦前からの有名な綴方の歴史がありつつ、私たちが学生だった頃とも変わっています。というのも2000年以降、コミュニケーション力育成や、OECDの国際学習度到達調査のための試験対策、グローバル化された社会に対応するためにカリキュラムに変わっているから。
「感想文」は序論、本論、結論に分かれていて、ある体験をする前と後で書き手がどう成長したかを書くスタイルです。例えば読書感想文は、ある本を読む前の自分の知識が、読書後にどう変わったか。そして、その経験を今後にどう活かしていくかを書きます。
日本の作文では作品として点数化したり、文章技術レベルの間違いを添削しません。理由は子どもの個性を傷つけるから。そして、作文はあくまで「書くことの過程そのもの」が大事だから。先生は添削したり評価するかわりに、子どもの感想に寄り添い励ますコメントを書きます。これは綴方の時代から受け継がれている慣習らしいです。
あと、予想もしなかったのが、日本的な自然観にある仏教思想の影響。海外から新しい価値観とか、経済合理性を重視する考え方が入ってくるたび、その都度、伝統的な考え方が押し返す不思議。場合によっては、それは古くて、頑なで、非合理的だったりするのだけれど、必ずしもそれだけではないのがおもしろいところ。驚きました。
日本の歴史教育は、歴史を学ぶことにより、よりよい未来や社会をつくることを目的とするけれど、じゃあそれは、具体的にはどういうものかというと想像しづらい遠い話です。なので、現状の結論としては自己を抑制し、他人の気持ちを考え、勉強に励む…抽象的な結論に結びつきがちとか。
ともあれ、結論ではおおよそ4つの文化にざっくり分けた、世界の「論理的」な思考は優劣があるわけではなく、ポスト近代の多元多極的な世界で、それぞれの長所や特徴をどう活かしていくかが大事とのこと。
以上、渡邉先生の本の豊富な内容をさくっとまとめるとこんな感じですが、アメリカやフランス、イランと日本のそれぞれの比較部分でおもしろい指摘がたくさんあって、とてもじゃないけど一度や二度読んだだけでは消化しきれません。もっとじっくり読みたいし、参考文献も気になります。
ハードカバーはしんどいので、コンパクトに読みたい方は岩波新書もあります。でも、私は思想系が苦手なので、ハードカバーの本の方が具体例がたくさんで、理解しやすかったです。
日本の学校の国語教育については、こちら。多分、今は大きく代わっているはず。
