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【つの版】度量衡比較・貨幣208

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は三河の続きで、吉田藩です。

愛知県

◆豊◆

◆橋◆


東三河史

 三河国の石高は太閤検地時に29万石ですが、岡崎藩領は5-10万石に過ぎません。東三河には吉田藩田原藩(1万石)、大垣新田/畠村藩(1万石)があり、西三河には岡崎藩の他、大給/奥殿藩(1.6万石)、伊保藩(1万石→1.5万石)、西大平藩(1万石)、挙母藩(1万石→2万石)、刈谷藩(2万石前後)、西尾藩(2万石前後→6万石)、西端藩(9000石)などがありました。おおよそ小藩ばかりですが、吉田藩は江戸中期より7万石を賜って岡崎藩より大きくなり、東三河の中心として栄えました。では中世から近世にかけての東三河について見てみましょう。

 三河国府は東三河の宝飯郡に置かれましたが、平安時代に衰退し、中世には西三河の岡崎が三河の中心地となります。しかし三河湾に豊川(飽海川)が流れ込む交通の要衝には違いなく、争奪戦が繰り広げられました。

 室町時代に三河守護となった一色氏は、義貫の時に最盛期を迎え、丹後・若狭・三河・山城の守護と尾張知多郡の分郡守護を兼ねましたが、鎌倉公方足利持氏の家臣である一色時家を匿った罪により、永享12年(1440年)足利義教により誅殺されます。丹後・山城・尾張知多郡の守護職は甥の教親に授けられ、一色家の家督も彼が継ぎます。また若狭は武田信栄、三河は細川持常に与えられますが、宝徳3年(1451年)教親が没すると義貫の子の義直が家督を相続し、丹後・伊勢半国守護となります。また若狭国小浜と三河国渥美郡も知行地として手に入れ、勢力を盛り返しました。

 義直は従兄弟の政照を渥美郡代として派遣し、細川持常の養嗣子・成之から三河を奪還するべく応仁の乱では西軍につきます。しかし文明4年(1474年)東西両軍の和睦が成立すると、義直は東軍に帰順して丹後守護職を確保し、政照率いる三河の一色勢は成之の三河守護代・東条国氏を追い詰めました。これに対して成之は三河碧海郡の国人・戸田宗光に命じ、知多半島から三河湾を横断して渥美半島に上陸させ、政照の本拠地を脅かします。結局国氏は自害に追い込まれますが、政照は宗光と和睦して隠居し、義直も成氏との交渉により三河から手を引きました。宗光は知多郡から渥美郡に至る三河湾沿岸地帯に勢力を広げ、西三河を制圧しつつあった松平信光とも婚姻同盟を結び、東三河一帯の制圧を進めていくこととなります。

今橋之城

 これに抵抗したのが、宝飯郡牧野城(現豊川市牧野町)に本拠を持つ国人領主・牧野成時(古白)です。先祖は阿波か讃岐から到来したと伝えられ、一色時家に仕えて細川勢と戦いましたが、主君の時家は家来の波多野全慶に裏切られて文明9年(1477年)落命します。全慶は時家の居城だった長山一色城(牛窪城に入りますが、明応2年(1493年)牧野成時に討ち取られ、城を奪われます。成時は駿河守護職で遠江を制圧した今川氏親と手を結び、戸田宗光の侵略に対抗することとなりました。

 渥美郡に上陸した宗光は、まず大津城(高縄城、現豊橋市老津町西高縄)に入り、文明12年(1480年)頃にはやや西の田原城(現田原市田原町)に移り、明応2年(1493年)には豊川の支流・朝倉川の南の二連木にれんぎ(現豊橋市仁連木町)に移っていました。ここから牛窪城までは指呼の間で、渥美半島を掌握した宗光が宝飯郡まで攻め込んでくるのは時間の問題です。そこで今川氏親は成時を支援し、新たな城を築かせました。

 永正2年(1505年)、牧野成時は豊川と朝倉川が合流する渥美郡馬見塚の丘の上に今橋城を築きました。のちの吉田城です。戸田宗光の居城である二連木城からわずか2㎞ほど西に位置し、宗光を牽制しつつ松平氏からの援軍も防ぐことができます。ところが築城翌年の永正3年(1506年)、戸田宗光は「成時が松平氏と通じた」と讒言して今川氏親と手を結び、今橋城に攻め込みます(今橋合戦)。成時は弁明しますが聞き入れられず、討死ないし自害しました。氏親は今橋城を接収して東三河における拠点とし、伊勢宗瑞率いる今川軍は西三河にまで攻め込み、岩津松平家を滅ぼしています。

 この背景には、室町幕府の内紛「明応の政変」が関わっているようです。足利義政の没後、弟の義材(義尹/義稙)が後を継ぎますが、管領細川政元は彼と対立し、明応2年(1493年)義材を廃位・幽閉しました。代わって擁立されたのが伊豆堀越公方の子・清晃(義遐/義高/義澄)です。義材は北陸を経て周防へ下向し、大内義興らの助力を得て畿内へ戻ろうとしており、政元も義澄と対立するようになっていました。今川氏親・伊勢宗瑞は義材を支持し、細川成之は同族の政元に味方していたため、成之の被官の松平氏は敵というわけです。戸田宗光も同じく成之の被官でしたが、状況判断して今川氏に寝返ったのでしょう。牧野氏にはとばっちりですが仕方ありません。

 間もなく細川政元と戸田宗光が相次いで没し、松平氏は今川氏を撃退したものの大きなダメージを受け、東三河は今川氏の手に落ちます。しかし牧野氏と戸田氏の勢力争いはその後も続き、松平氏と今川氏の狭間を揺れ動きました。勢力を盛り返した松平氏からは清康が出て東三河の諸勢力を形式的に屈服させたものの暗殺され、結局は今川氏が三河に進出して制圧します。ところが桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討ち取られ、混乱の中から立ち上がった松平元康/徳川家康により三河は統一されたのです。

 この間に、今橋城は牧野氏ないし今川義元により「吉田城」と改名されました。全国各地に同名の城があるため、特に「三河吉田城」とも呼びます。一説には今橋が「忌まわしい」に通じて不吉なので、逆に「吉(よし)」としたといいますが、古くは峯野みねの城や歯雑おかさわ城と呼んだとも諸記録にあります。「今橋」とは「新たな橋」の意味で、貞応3年(1224年)ここに橋が架けられたことによる名でした。

吉田城主

 天文15年(1546年)、今川義元は吉田城を攻略し、伊東元実、ついで小原鎮実を城代に任じました。桶狭間の戦いの後も鎮実は今川氏真に仕え続け、反乱者と戦いましたが、永禄8年(1565年)家康軍に包囲されて開城・退散し、三河における今川氏の拠点は消滅しました。

 家康は譜代の重臣・酒井忠次を吉田城主とし、東三河における国衆を統率する権限を授けました。二連木城は戸田氏、牛窪城は牧野氏が領し、田原城にはこれを落城させた本多広孝が封じられます。東三河国衆は忠次に付き従って各地を転戦し、武田信玄・勝頼の侵攻にも頑強に抵抗し、忠次が天正16年(1588年)に隠居すると、子の家次が家督を継ぎました。

 天正18年(1590年)家康が関東に移封されると、秀吉は池田照政(晩年に輝政と改名)を吉田城主に任じ、東三河4郡15万2000石を授けました。彼は織田信長の家臣・池田恒興の次男で、小牧・長久手の戦いで父と兄が戦死したため家督を継ぎ、美濃大垣/岐阜13万石の大名となりました。彼の妹は秀吉の甥・秀次に嫁いでおり、照政は羽柴氏・豊臣姓を賜り、一門に準ずる者として扱われています。秀次が粛清された時にも連座はしませんでしたが、秀吉が没すると家康に接近し、関ヶ原の戦いの後は播州姫路52万石を授かっています。照政は吉田城および城下町の大規模な改築・整備や吉田大橋の架け替えなどを行いましたが、彼の治世中には完成しませんでした。

 続いて吉田城主となったのは、松平氏の分家・竹谷松平家の当主である松平家清で3万石を賜りましたが、子の忠清は在位2年で早世し、2代12年で無嗣除封となります。次に深溝松平家の松平忠利が入り検地を行いますが、在位20年で没した後、子の忠房は西三河の刈谷藩へ転封されます。次いで水野忠清が4万石で入りますが10年後に信州松本へ加増転封され、水野忠善が4万5000石で入りますが3年後に三河岡崎へ加増転封されます。

 正保2年(1645年)、小笠原忠知が豊後杵築藩より4万5000石で入り、以後4代52年にわたり小笠原家が藩主となります。小笠原家は甲斐源氏にして信濃守護をつとめた名門で、忠知の母は家康の嫡男・信康が織田信長の娘との間に儲けた登久姫です。忠知は18年の在位の間に新田開発や城下町の整備を行い、向山に大池を作って城の外堀に水を入れ、残りを田畑の灌漑に回すなど善政を敷きました。子の長矩も新田開発を行いましたが、二人の弟に合計5000石を分与し、表高は4万石となります。長矩の嫡男長祐は子に先立たれ、自らも病身となったため弟の長重を養嗣子としました。長重は元禄3年(1690年)に後を継ぎ、奏者番・寺社奉行・京都所司代を経て老中に昇り、元禄10年(1697年)武州岩槻藩へ5万石で加増転封されます。

 次いで久世重之が5万石で入りますが8年後に下総関宿へ転封され、入れ替わりで関宿藩主だった牧野成春が8万石で入りますが2年後に病没し、子の成央は幼少ゆえ任に堪えないとして正徳2年(1712年)日向延岡に転封されます。代わって7万石で入ったのが大河内松平家松平信高(信祝)です。

 大河内氏は三河国額田郡大河内郷を本貫とする武家で、承久の乱の後に三河守護となった足利氏に仕え、次いで吉良氏の家老となりました。のち松平氏庶流の長沢松平家の養子となって大河内松平家が成立し、松平伊豆守信綱は徳川家光の時に老中となって幕政を司りましたが、信高はその曾孫にあたります。享保4年(1719年)に名を信祝と改め、徳川吉宗に仕えて大坂城代から老中に登りましたが、享保14年(1729年)遠州浜松へ転封されました。

 入れ替わりで浜松藩主だった松平資訓が7万石で入りますが、寛延2年(1749年)在任20年で浜松藩主に戻され、信祝の子で浜松藩主を継いでいた信復のぶなおが吉田藩主となります。以後はその子孫が7代130年余にわたって藩主となり、明治維新に及んでいます。

 信復の孫・信明は、松平定信とともに寛政の改革を推進し、定信が失脚すると老中首座となって幕政を主導しました。しかし外交問題や蝦夷地の開発などに多額の出費を強いられ、幕府財政を赤字に転じさせてしまい、これを建て直せぬまま文化4年(1817年)に没します。子の信順は寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中をつとめ、大塩平八郎の乱に対処していますが、幕政に関与するため出費がかさみ、藩財政は逼迫していました。

 明治維新の時、新政府は三河国吉田藩の名が伊予国宇和島藩の支藩・吉田藩に似て紛らわしいことから改名を命じました。藩主は豊橋・関屋・今橋の三案を提出し、政府は豊橋を選んだため、吉田藩は豊橋藩と改名し、現在の豊橋市に繋がっています。豊橋とは「川に架かる」のことで、鎌倉時代から今橋がありましたが、本多忠次の時に土橋が作られ、吉田大橋と名付けられました。のち池田照政が木の橋に架け替え、江戸時代には幕府が整備・管理を担っています。吉田藩の管轄下にはないものの、吉田を象徴するものとして親しまれていました。明治時代にこの橋は「豊橋」と改名され、昭和34年(1959年)には豊橋の東に新たな「吉田大橋」が建設されています。

東海道宿

東海道

 吉田城下町と吉田湊は、東海道五十三次のひとつ「吉田宿」を構成していました。現在の豊橋市中心部です。東海道は江戸から浜松を通り、浜名湖の南の今切口を舟で渡って三河に入っており、北の本坂通を通るルートもありましたが、いずれも浜名湖のほとりにある関所を通ることになります。このうち南の新居関所は元禄15年(1702年)より吉田藩が管理を委任されましたが、まもなく起きた宝永地震で東海道本筋が大きな被害を受けています。

 吉田城の北、宝飯郡豊川村には「豊川稲荷」として知られる円福山豊川閣妙厳寺があります。嘉吉元年(1441年)の創建と伝えられ、本尊は十一面観音ですが、境内の鎮守に密教の尊格吒枳尼だきにを祀っており、これが白狐に乗ることから稲荷信仰と習合したのです。江戸時代には立身出世や盗難避けの神として庶民からも信仰を集めました。

◆豊◆

◆橋◆

【続く】

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