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【つの版】度量衡比較・貨幣209

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回からは三河の隣国、尾張です。

愛知県

◆織田◆

◆信長◆


尾張古代

 尾張国(尾州)は東海道に属し、現在の愛知県西部にあたります。東は三河、南は伊勢湾、西は伊勢、北は美濃に接し、三河とは境川、伊勢・美濃とは木曽川を境としています。多くの河川が流れて低湿な平地(濃尾平野)を形成し、南には知多半島が伸びて三河湾と伊勢湾を分けており、海陸河川で四方との交通が開けた要衝の地です。

 縄文時代以前には濃尾平野のほぼ全域が海の底でしたが、海面下降と土砂の堆積によって次第に拡大し、弥生時代には稲作や青銅器(銅鐸など)が持ち込まれて環濠集落が形成されました。『三国志』魏志倭人伝に見える3世紀頃の「東海の彼方の倭種の国」は、畿内邪馬台国から伊勢湾を渡った尾張以東の諸国ではないかとつのは考えています。纏向遺跡からも東海地方系の土器が多数出土しており、頻繁に交易がおこなわれていたようです。

 古墳時代には尾張にも前方後円墳が出現し、尾張(尾治)国造と呼ばれる有力者が勢力を広げます。奈良盆地南西部の葛城山地東麓に「高尾張(高丘墾)」という地名があり、そこからの移住者とも言われますが定かではありません。現名古屋市北東部に尾張戸神社があり、志段味古墳群が周辺に存在しますから、尾張国造の墳墓群にあたると推測されます。また国造の拠点は南部の年魚市あゆち/愛知郡(熱田神宮付近)にあったようです。

 尾張国造の草香の娘・目子媛は継体天皇の最初の妃となり、安閑天皇と宣化天皇を産みました。彼らの在位は短期間で、雄略天皇の外孫を母とする欽明天皇の系譜が嫡流となりましたが、宣化の娘・石姫は欽明に嫁いで敏達天皇を産んでおり、現在までの皇統の祖となっています。

 7世紀に律令制が敷かれると、尾張国造の支配領域はそのまま令制国の尾張国とされ、海部あま・中嶋・葉栗・丹羽・春部かすがべ・山田・愛知・知多の8郡が置かれました。尾張国府は中嶋郡にあり(現稲沢市)、総社(尾張大国霊神社)・国分寺・国分尼寺が設置されましたが、9世紀末に国分寺は消失し、愛知郡元興寺(願興寺)に移転しています。

 三種の神器のひとつ草薙剣(天叢雲剣)は、古くから尾張国愛知郡の熱田神宮に祀られており、宮中にあるのはその形代とされます。創建年代は7世紀中頃と推測されますが、この地に草薙剣をもたらした日本武尊の崩御後であるとも伝えられ、尾張国造は熱田神宮の大宮司となり、尾張国司をも凌ぐ権威と権力を誇っていました。

 11世紀後半、熱田神宮大宮司であった尾張員職は、娘の職子を尾張目代(国司の代官)の藤原季兼に嫁がせ、国衙と友好関係を結びます。この婚姻によって生まれた男児・季範は、父が没すると外祖父のもとで育てられ、永久2年(1114年)霊夢によるとして外祖父から大宮司職を譲られました。以後大宮司職は季範の子孫(千秋家)が世襲することとなります。この季範の娘・由良御前は源義朝に嫁いで頼朝らを産み、季兼の長男の娘は季兼の養女となって足利義康に嫁ぎました。このため鎌倉時代以後は源氏将軍の母方の実家にして東国の武門の守護神として崇敬を集めています。

斯波尾州

 足利義康の玄孫・家氏は、父・泰氏の嫡男で名越(北条)朝時(北条義時の子)の娘を母としていましたが、のち父が北条時氏(義時の孫)の娘を正室としたため廃嫡され、彼女が生んだ子の頼氏が嫡男とされます。しかし家氏も時氏の娘を娶っており、頼氏が早世してその子・家時が後を継ぐと、一門の長老として後見人をつとめました。家氏は晩年に尾張守に叙任され、子孫がこれを通称としたため、彼の子孫を「足利尾張守家」と呼びます。

 これはあくまで通称であり、南北朝時代には美濃守護の土岐頼康が尾張守護を兼ねるなどしていましたが、応永7年(1400年)足利家氏の末裔である斯波義重が足利義満より尾張守護に任じられ、以後戦国時代まで150年余にわたり斯波氏(足利尾張守家/武衛家)が尾張守護職を世襲しました。家格は足利将軍家に次ぐほど高く、諸国の守護職を兼ね、幕府の実権を握る管領職もつとめた斯波氏でしたが、まもなく勢力争いに敗れて没落していきます。また知多郡や海東郡には一色氏が分郡守護として任じられていました。

 この頃に台頭したのが織田氏です。本貫地は越前国丹生郡織田荘で、鎌倉幕府滅亡後に足利尾張守家の高経が越前守護に任じられた時に家来となり、斯波氏執事の甲斐氏に次ぐ地位に昇りました。斯波義重が尾張守護に任じられると織田常松(伊勢守入道)が尾張守護代となりますが、主君とともに京都にとどまり、弟の常竹(出雲守入道)が又守護代として下向します。常竹の子・久長以後は大和守を称したため、この家を「織田大和守家」と呼び、常松の子孫を「織田伊勢守家」と呼びます。

 しかし斯波氏は家督を巡る争い(武衛騒動)で義廉派と義敏派に分裂し、応仁の乱において義廉は西軍に、義敏は東軍に与します。織田家も伊勢守家の敏広が義廉に従って西軍に、大和守家の敏定が義敏に従って東軍につきました。京都で旗色が悪くなった義廉は敏広とともに尾張へ逃れ東軍勢力と戦いますが、文明10年(1478年)幕府より更迭されて討伐を命じられ失脚します。敏広は美濃守護代の斎藤妙椿の支援を受けて戦い続け、丹羽郡に岩倉城を築いて尾張北部4郡に割拠し、敏定は南部4郡を治めることとなります。

 尾張守護・守護代・又守護代の居城は応永7年より中島郡下津おりづ(現稲沢市下津高戸町)にありましたが、この時の戦乱で焼失し、敏定は南に5kmほど離れた春日井郡清須(現清須市)の清洲城に入りました。これより伊勢守家を岩倉織田氏、大和守家を清洲織田氏とも呼びます。

 斯波義敏の子・義寛は、越前を家臣の朝倉孝景に奪われたため尾張に拠点を移し、清洲城に入ります。彼は東の今川義忠の侵攻を阻み、西は大軍を率いて近江六角氏を討伐し、室町幕府において重きをなしますが、明応の政変で失脚します。その後は美濃の内紛に巻き込まれ、今川義忠の子・氏親らによる遠江・三河侵攻を防げず、子の義達も遠江遠征に固執して織田氏ら家臣の支持を失い、実質的な隠居に追い込まれてしまいます。

織田信秀

 織田信長の父・信秀は、こうした時代の永正8年(1511年)織田大和守家/清洲織田家の分家・織田弾正忠家に生まれました。彼の父・信定は中島郡と海西郡(海部郡西部)に勢力を広げ、河川交通の要所である津島を掌握して経済力を強め、津島牛頭天王社(津島神社)の神紋・木瓜紋を家紋としています。永正年間(1504-21年)には津島の北に勝幡しょばた(現愛西市勝幡)を築いて拠点を移し、主君を上回る勢力となりました。

 信秀は天文7年(1538年)、今川氏豊の居城の那古野城(現名古屋市中区)を謀略で奪い取り、ここに居城を移して愛知郡に勢力を拡大します。翌天文8年(1539年)には古渡城を築き、熱田を掌握します。津島も熱田も交通の要衝で、市場や宿場として経済的に栄えており、神社を中心とすることから多くの氏子も抱えています。ここから関銭(交通料)や津料(港湾使用料)、市場税を取るだけで莫大な銭が手に入るのです。

 これをもとでとして、信秀は上洛して朝廷や幕府に献金し、伊勢神宮遷宮のために材木や銭700貫文(1貫文10万円として7000万円)、内裏の修復のために4000貫文(4億円)を献じました。中央との繋がりをアピールして権威付けとし、三河の松平氏、美濃の斎藤氏、駿河・遠江の今川氏などと渡り合ったのです。ただし彼はあくまで「尾張守護代の家来」の地位を変えず、権威の源泉である守護の斯波氏、守護代の清洲織田氏らを排除することのないまま戦国大名化しました。

 信秀は勢いに乗じて北尾張や美濃、西三河に勢力を広げ、天文16年(1547年)には岡崎城を攻め落とし、松平広忠の子・竹千代を人質にとります。しかし翌年広忠は美濃の斎藤道三、駿河・遠江の今川義元の支援を受けて反撃し、尾張でも反信秀勢力が挙兵したため、信秀は道三と和睦し、翌年に嫡男の信長と道三の娘・帰蝶を婚姻させて同盟を結びました。

 これに対し今川義元は西三河の織田方の拠点・安祥城を攻め落とし、信秀の庶長子・信広を捕虜として竹千代と交換させます。さらに知多郡の水野信元、愛知郡鳴海城主の山口教継を調略し、尾張攻略の道筋をつけました。こうした中で天文21年(1552年)に信秀は42歳にして病没し、18歳の信長が後を継ぎます。

織田信長

 家督継承直後の信長は、清洲城の尾張守護代・織田信友と対立します。彼は分家で家来に過ぎぬ信秀の増長を嫌っており、尾張守護の斯波義統を傀儡とし、信長を暗殺してその弟の信勝(信行)を擁立しようとしました。義統はこの計画を信長に密告しますが信友に弑逆され、義統の嫡男・義銀は信長のもとへ身を寄せます。大義名分を得た信長は諸将と協力して信友を討伐、清洲織田家を滅ぼします。しかし弘治2年(1556年)義父の斎藤道三が子の義龍に討たれ、後ろ盾を失った信長は窮地に陥ります。

 弟の信勝は柴田勝家らに擁立され、岩倉織田家の信賢、美濃の斎藤義龍らと結んで挙兵しますが、信長はこれを撃破して信勝を謀殺し、岩倉織田家をも滅ぼします。北の犬山城に拠る織田信清、知多郡の水野信元らは残っていましたが、尾張の主要部を統一した信長は永禄2年(1559年)に上洛し、将軍足利義輝に謁見しています。しかし翌年、今川義元が尾張に侵攻します。

 永禄3年(1560年)5月、清洲から出陣した信長軍が桶狭間の戦いで総大将の今川義元を討ち取ったことで、今川氏の領国は大混乱に陥ります。信長はこれに乗じて西三河の松平元康(のちの徳川家康)らを調略し、今川氏に反旗を翻させました(清洲同盟)。また美濃の斎藤義龍が永禄4年に急死し、嫡男の龍興が後を継ぐと、これを討つべく北上し、永禄6年(1563年)尾張北部に小牧山城(現小牧市堀の内)を築いて清洲から移ります。

 信長は美濃の諸将に調略を行いつつ北上し、永禄7年(1564年)には犬山城を落として尾張を統一、永禄10年(1567年)に龍興の居城・稲葉山城を陥落させます。龍興は伊勢長島に逃走し、信長は本拠地を小牧山城から稲葉山城に移すと「岐阜城」と改名しました。さらに翌年には足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛し、彼を将軍に据えて幕府を再興します。信長は尾張と美濃を領するだけの大名でしたが、これにより旧主家の斯波家と同等に扱われ、管領に準じる待遇を受けることとなりました。

 以後も信長は岐阜を拠点とし続けますが、やがて足利義昭を追放して事実上の天下人となり、天正3年(1575年)には朝廷より権大納言・右近衛大将に任じられます。同年には嫡男の信忠に尾張・美濃などの領国を譲り、翌年には近江国蒲生郡に安土城を建設します。しかし天正10年(1582年)本能寺の変で信長と信忠はともに没し、織田政権は瓦解することになります。

◆織田◆

◆信長◆

【続く】

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