【つの版】度量衡比較・貨幣210
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は尾張の続きです。
◆尾◆
◆張◆
清洲会議
信長は尾張に生まれ育ちましたが、永禄10年(1567年)に美濃国稲葉山城(岐阜城)、天正4年(1576年)に近江国安土城に移り、尾張と美濃の領国は嫡男の信忠に委ねていました。しかし本能寺の変で信長と信忠がともに没すると、城代たちはいたものの、両国の支配権は宙に浮きます。間もなく秀吉が中国攻めから取って返し、明智光秀を討って混乱を収拾しますが、これで織田家が滅んだわけではありません。
本能寺の変の時、信長の次男・信雄は北畠氏の養嗣子となって伊勢松島城におり、三男の信孝は伊勢神戸氏の養嗣子となっていて、摂津から四国へ攻め込む準備中でした。四男の秀勝は羽柴秀吉の養嗣子となって中国攻めや光秀討伐に同行しています。しかし三人とも秀吉に主導権を握られており、他家に養子に出たこともあって、織田家の家督を継ぐ立場にはありません。
信忠の嫡男・三法師はこの時3歳で、本能寺の変の時は岐阜城にいましたが、家来の前田玄以・長谷川与次らによって清洲城に移されていました。そこで天正10年(1582年)6月27日、織田家の宿老たちは尾張国清洲城に集まり、三法師を織田家の家督相続人とすることで合意し、今後の支配体制について会議を開きます。集まったのは羽柴秀吉、柴田勝家(北陸方面総司令官)、丹羽長秀(信孝の副将として四国攻め総司令官)、池田恒興(摂津伊丹城主)の4人で、信雄と信孝は会議に呼ばれませんでした。
この結果、信長・信忠の領地のうち尾張は信雄、美濃は信孝が相続し、三法師は近江のうち20万石を領有し、堀秀政が傅役として代官に任じられました。後見人は信雄と信孝がつとめ、秀吉・勝家・長秀・恒興の4宿老が輔佐し、家康ら諸大名がこれを支えることとなります。また秀勝は光秀の旧領である丹波を相続し、勝家は越前に加え北近江3郡12万石を、長秀は若狭に加え近江2郡15万石を、恒興は摂津3郡15万石を、秀吉は但馬・播磨に加え河内・山城の2国を授かります。さらに信長の弟・信包は伊勢安濃津15万石、丹後は細川藤孝、大和は筒井順慶が領有し、加賀は佐久間盛政、能登は前田利家、越中は佐々成政による領有が認められます。そして三河・遠江・駿河・信濃・甲斐は徳川家康が掌握しました。
秀吉は秀政・長秀・恒興・家康を懐柔して最大派閥を形成しますが、これに危機感を覚えた信孝は柴田勝家・滝川一益らと手を組んで反秀吉陣営を形成し、三法師を岐阜城に抱えて近江へ行かせませんでした。そこで秀吉は信雄を織田氏に復姓させて家督相続権者(正式には三法師の名代)とし、11月には清洲会議の決定を破棄します。家康もこれを承認し、秀吉は12月に長浜城と岐阜城を攻め、勝家の養子・勝豊と織田信孝を降伏させました。
そこで翌天正11年(1583年)、勝家は西の毛利輝元のもとに身を寄せていた足利義昭と手を組み、信孝を再び挙兵させますが、輝元ら毛利勢は動きませんでした。勝家・信孝・一益は各個撃破されて自害ないし出家し、越前は丹羽長秀、美濃は池田恒興に与えられます。佐久間盛政は勝家に従って戦い処刑され、その領国であった加賀は前田利家に授けられます。恒興の領国であった摂津・大坂の地は秀吉が譲り受け、同年に石山本願寺の跡地に壮大な大坂城を築いて諸大名を召集、天下人となったことを内外に知らせました。
小牧合戦
尾張・伊勢・伊賀を領有し、近江安土城に入った信雄でしたが、実権は秀吉に握られ、三法師と同じく傀儡でしかありません。これを不満に思った信雄は翌天正12年(1584年)伊勢長島城に戻り、秀吉に内通したとの疑いをかけて三人の家老を誅殺すると、徳川家康と手を結びました。紀州の雑賀衆・根来衆、四国の長宗我部元親、越中の佐々成政、関東の北条氏政らもこれに呼応し、秀吉を脅かします。この時点ではあくまでも秀吉は織田家中の筆頭家老に過ぎないのですから、信雄の方が格上です。
家康は天正12年3月、遠州浜松城から清洲城に移りますが、美濃国主の池田恒興は秀吉方につき、尾張北部の犬山城を占拠します。家康は直ちに出陣して小牧山城を制圧し、小牧山へ向かって進軍していた恒興の娘婿・森長可を奇襲します。長可は包囲されそうになりますが必死で撤退し、家康は小牧山城を修築して堅牢な防衛線を築き、本軍を待ち構えます。秀吉は自ら3万の兵を率いて大坂城を出発し、岐阜を経て犬山城に入りましたが、この間に紀州勢に堺や大坂を襲撃されています。一応留守居の軍はいたものの、紀州勢の背後には元親もおり、長期の滞陣は難しい状況でした。
そこで秀吉は恒興・長可の提案を入れ、甥の信吉(秀次)と堀秀政に別動隊を率いさせて、尾張東部から三河へ攻め込む「中入れ」を命じます。ところがこれは家康に察知され、別動隊は散々に打ち破られたうえ、恒興・長可ほか多くの将兵が討死します。秀吉方は尾張や伊勢でいくつかの城を開城させたものの、東美濃や紀州での反乱が相次ぎ、秀吉は一時岐阜を経て大坂へ戻っています。その後も膠着状態と秀吉の東西往復が続き、京都でも謀反騒動が起きる始末となります。やむなく秀吉は9月から信雄・家康と和議交渉を開始し、長期戦で疲弊していた信雄・家康はこれを受諾しました。
秀吉は信雄を織田家の当主として尊重し、主君に平伏して許しを請うというパフォーマンスを取りましたが、実質上は信雄・家康の敗戦でした。信雄の領国からは伊勢4郡・伊賀3郡・三河碧海郡の一部が削減され、石高は113万9000石から78万3000石に減少します。同年末に秀吉は従五位下・左近衛権少将から従三位・権大納言に昇進し、正五位・左近衛権中将であった信雄を官位で上回りました。またこの頃、弟の羽柴小一郎長秀を「羽柴秀長」と改名させ、信長から賜った偏諱の「長」字を「秀」の下としました。
翌天正13年(1585年)秀吉は毛利輝元とも和睦し、紀州・四国・越中を次々と平定し、秀吉包囲網は瓦解しました。この頃信雄は大坂城に登城し、朝廷より正三位・権大納言に叙任されますが、まもなく秀吉は正二位・内大臣に叙任され、7月には関白宣下を受けます。同年9月には朝廷より豊臣の姓を賜り、年末には太政大臣に任じられました。
秀吉は関白任官のために自分の出生伝記を書かせ、「母親は萩の中納言の娘であり、宮仕えをしていた」とし、天皇の御落胤であることを仄めかしています。ただ寛永3年(1626年)刊行された小瀬甫庵の『太閤記』では「父は尾張国愛智郡中村(現名古屋市中村区中村)の住人で筑阿弥といい、ある時母が懐に日輪が入る夢を見て懐妊した。童名を日吉丸という」とします。
江戸初期の『太閤素生記』では尾州愛知郡中中村に天文5年(1536年)正月元日に生まれたとし、父は木下弥右衛門といい織田信秀の鉄砲足軽(まだ鉄砲は伝来していませんが)でしたが、戦場で負傷して故郷に戻り百姓となり、妻子を持ったとします。しかし秀吉(幼名は猿、のち藤吉郎)が8歳の時に死去し、母は信秀の同朋衆であった竹阿弥と再婚したといいます。この木下弥右衛門と竹阿弥/筑阿弥は同一人物ともいい、寛永8年(1631年)竹中重門(半兵衛の子)が著した『豊鑑』には「郷のあやしの民の子なれば、父母の名もたれかはしらむ」とあります。
いずれにせよ、藤吉郎は幼い時に故郷を出て各地を放浪し、遠州頭陀城主の松下之綱に仕えた後、20歳前後の頃に織田信長の小者(奉公人)になったと伝えられます。実家は名字を持つ名主階級ではあったかも知れませんが、少なくとも高貴でも裕福でもなく、彼が関白・太政大臣まで成り上がったのは彼自身の才能と幸運と人脈によるものです。
家康はなおも東国にあって独立を保ち、大坂登城の招きにも応じませんでしたが、天正13年11月末(1586年1月)に飛騨・美濃・伊勢にかけての断層を震源とする巨大地震が発生し、東海・近江・畿内・北陸に甚大な被害を及ぼします。このため秀吉も家康も戦争どころではなくなり、ついに和睦しました。家康は秀吉の妹・朝日姫を娶って一門として扱われ、秀吉の母・大政所も人質として家康に差し出されています。
信雄失脚
この頃、島津義久の侵攻を受けていた豊後の大名・大友宗麟が秀吉に救援を要請していました。秀吉は朝廷の権威をもって停戦を命じますが、義久はこれに従わず、秀吉は毛利輝元・長宗我部元親らに島津討伐を命じます。しかし島津軍はこれを打ち破り、やむなく秀吉は天正15年(1587年)自ら大軍を率いて九州平定に赴きます。秀吉の弟・秀長は豊前小倉から豊後を経て日向に攻め込み、島津氏の本国を脅かしたため、島津軍は急ぎ兵を引いて本国の防御に戻り、筑前・筑後・肥前・肥後の諸将は瞬く間に降伏しました。島津氏は抵抗しますが和睦に追い込まれ、本国を安堵されて服従します。
戦後処理を終えて帰還した秀吉は、平安京大内裏跡地の内野に広大な邸宅を築いて「聚楽第」と名付け、天正16年(1588年)正親町上皇と後陽成天皇を招いて饗応しました。この頃信雄は正二位・内大臣に叙任されて尾張内府と呼ばれ、秀吉に次いで武家では第二位の官位となっています。
天正18年(1590年)、秀吉は伊豆と関東を領する小田原北条氏を討伐し、続いて奥羽の諸侯を服属させて天下統一を成し遂げます。また家康を小田原北条氏の旧領に転封し、家康の旧領には織田信雄を封じるとしますが、信雄は「先祖伝来の土地である尾張と伊勢から移るのは忍びない」と拒みます。激怒した秀吉は信雄を突如追放処分し、下野国那須烏山に捨扶持2万石を与えました。信雄は常陸の佐竹義宣、次いで出羽の秋田実季に預けられ、出羽北部の檜山郡天瀬川(現秋田県山本郡三種町琴丘)に配流されました。信雄の旧領の尾張国と伊勢5郡は豊臣秀次に与えられ、家康の旧領は秀吉子飼いの諸大名に分与されます。信雄は翌年赦免されますが、京都の邸宅は前年に焼失しており、伊予松山の石手寺に移住して出家し常真と号しました。
信雄の子・秀雄は近江大溝城を授かっていましたが、文禄元年(1592年)越前大野郡5万石を授かり、従三位・参議に叙任されています。信雄改め常真も大和に捨扶持1万7000石を授かり、御伽衆に加えられて大坂に屋敷を賜りました。同年秋には信忠の子・三法師改め織田秀信が岐阜城主となって美濃13万石を授かっており、翌年従三位・中納言を賜り岐阜中納言と呼ばれました。秀吉の家来になったとはいえ、織田家は秀吉の元主君の家として敬意を払われてはいたのです。関ヶ原の戦いで織田家の多くは西軍につき没落しますが、信雄と有楽斎(信長の弟)は大坂の陣で家康に降り、その子孫は明治時代まで外様大名や高家旗本として存続しました。
清洲城主
信雄の旧領を授かった秀次は、天正19年(1591年)関白宣下を受け、秀吉は太政大臣のまま太閤(前関白)となります。これは秀次を豊臣政権の後継者とするためでしたが、文禄2年(1593年)に拾(秀頼)が産まれると疎んじられ、文禄4年(1595年)突如として切腹を命じられます。秀次の一族郎党も粛清され、領国のうち尾張清洲24万石は福島正則に与えられました。
福島正則は秀吉の子飼いの武将で、母は秀吉の母方の叔母にあたります。賤ヶ岳の戦いなどで手柄を重ね、九州平定後に伊予今治11万3000石余を授かり、文禄の役でも活躍しました。慶長3年(1598年)秀吉が没すると家康に接近し、関ヶ原の戦いでは織田秀信が籠る岐阜城を陥落させ、美濃を平定しています。戦後は安芸・備後49万8000石を賜り、清洲には代わりに家康の四男・松平忠吉が封じられ、尾張1国62万石の国主となります。
しかし忠吉は慶長12年(1607年)に28歳で病没し、後継ぎがなかったため家は断絶しました。家康は甲府藩主であった九男の義利を8歳で清洲城主とし尾張47万石余を授け、甲府城代であった平岩親吉を犬山城主として12万3000石を授け、義利の後見人として政務を委ねました。義利は駿府城の家康のもとで引き続き養育されますが、家康は義利の居城として慶長14年(1609年)尾張に新たな城を築かせ始めます。すなわち名古屋城です。
◆尾◆
◆張◆
【続く】
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