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【つの版】度量衡比較・貨幣212

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は尾張の隣国、美濃国です。

岐阜県

◆岐◆

◆阜◆


古代美濃

 美濃国(濃州)は現在の岐阜県南部にあたり、五畿七道のうち東山道に属します。東は信濃、南は三河・尾張・伊勢、西は近江、北は越前・飛騨に接し、近江との境には不破関/関ヶ原があって、日本の東西を分けています。古くは三野や御野・美野・美乃・美努などとも表記されました。

岐阜県行政区分地図

 現在の岐阜県のうち、高山市・飛騨市・下呂市の大部分と白川村は飛騨国に属します。それらを除いた美濃国を4つに分けて、大垣市・海津市・安八郡・揖斐郡・養老郡・不破郡を西濃、岐阜市・各務原市・羽島市・瑞穂市・本巣市・山県市・羽島郡・本巣郡を岐阜地区、関市・美濃市・美濃加茂市・可児市・郡上市・加茂郡・可児郡を中濃(郡上市は北濃・奥美濃とも)、多治見市・土岐市・瑞浪市・恵那市・中津川市を東濃と呼びます。明治以前の令制郡で分ければ、池田・大野・不破・石津・多芸・安八・海西が西濃、本巣・席田・方県・厚見・各務・山県・羽栗・中島が岐阜、武儀・郡上・加茂・可児が中濃、土岐・恵那が東濃となります。西ほど郡が多くて細かく、東や北ほど郡が少なくて広いのは人口密度の違いでしょう。

『古事記』や『先代旧事本紀』などによると、この地域には額田ぬかた(池田郡額田郷など)、三野前みののさき(不破郡など)、本巣もとす(本巣郡など)、牟義むげ(武儀郡など)、三野後みののしり(岐阜以東)という5つの国があり、各々が国造くにのみやつこに治められていました。このうち本巣国造と三野前国造の祖は四道将軍の一人・日子坐王の子である神大根かむおほねとされ、美濃国造の祖ともされることから同一とも考えられます。

『古事記』や『日本書紀』によると、景行天皇は神大根王の娘たちが美人であると聞き、子の大碓皇子を遣わして求めさせました。しかし大碓は父に彼女たちを渡すのがもったいないと思い、密通して子を儲け、別の女性を父のもとへ送りました。のち天皇が大碓の双子の弟・小碓(日本武尊)を遣わして詰問させたところ、小碓は大碓を殺害したといいます(東征を命じられて逃げ隠れたとも)。大碓が産ませた子の一人は押黒弟日子といい、牟義都国造の祖となりました。

 7世紀にはこの国々と美濃・鴨・刀支の3県、さらに木蘇(木曽)国が統合されて美濃国となります。尾張国との境は木曽川と定められましたが、流路がしばしば変わり、両国の境界も時代により変わっています。また中心部は本巣郡美濃郷と思われますが、国府は西の不破郡に置かれ、不破関を管理する役目を担いました。ここは伊勢の鈴鹿関、越前の愛発関とともに都を守る三関のひとつとされ、古くはこの三関から東を「関東」と呼びました。壬申の乱の時、大海人皇子は吉野から伊賀・伊勢を経て美濃に入り、東国から兵力を集めて近江朝廷と戦っています。

美濃源氏

 三関は後に廃れ、国府も10世紀には廃れますが、美濃は南に濃尾平野が開けた肥沃な地で、東山道が東西に貫く要衝であることに変わりありません。都にも近いことから南の尾張とともに栄え、平安時代中期から後期にかけて清和源氏の諸支流が定着し、美濃源氏と呼ばれる武士団群が形成されます。

 清和源氏の祖・源経基の子を満仲といい、その子・頼光、孫の頼国ともども摂関家に仕えて栄えましたが、頼国の六男・国房は父祖が国司をつとめた美濃に勢力を広げ、頼光の弟・頼信の子孫である河内源氏と権益を巡って対立します。彼は子の光国、孫の光信光保ともども白河院や鳥羽院に仕えて後ろ盾とし、光保は保元の乱で後白河天皇に味方して活躍しますが、平治の乱で後白河天皇に一時背いたため疑われ、戦後に誅殺されています。

 光信の子・光長は平治の乱後に政権を掌握した平清盛に仕えましたが、清盛が後白河院を幽閉して各地で平家に対する反乱が勃発すると、これに呼応して美濃で挙兵します。しかし敗れて伊豆へ逃れ、木曽義仲に従って平家を駆逐し上洛しますが、義仲と後白河院が対立すると院に味方し、義仲に討ち取られています。その子・光衡は頼朝のもとへ逃れて御家人となり、美濃国東部の土岐郡に定着して土岐氏を名乗りました。東は恵那郡・木曽を経て信濃へ、南は三河へ、西は尾張へ通じる交通の要衝です。

 鎌倉時代から南北朝時代にかけて、美濃には赤坂、志津、などに刀工集団が出現します。特に関は北陸・信濃・東海を結ぶ街道が交わる要衝として関所が置かれ、市場が開かれて栄えました。関の刀工集団は室町時代には座(ギルド)を形成し、武器を大量生産して全国各地に流通させました。土岐郡は関からだいぶ南東に離れていますが、街道は通じてはいます。

土岐桔梗

 土岐氏は鎌倉幕府執権・北条氏とも姻戚関係にあり、家紋から「土岐桔梗一揆」と呼ばれる一門衆を率いる美濃国の有力な御家人ではありましたが、美濃守護職は得られませんでした。足利尊氏らによって鎌倉幕府が滅ぼされると、土岐氏の当主頼貞は尊氏に従い、以後代々美濃守護職を世襲します。頼貞の子・頼遠は青野ヶ原(関ヶ原)で南朝軍を率いる北畠顕家らと戦い、決死の勇を振るって南朝軍を疲弊させ、伊勢へ転進させています。しかし手柄を鼻にかけて我儘に振舞った末、北朝の光厳院の車に矢を射かけるという無礼を働き、助命嘆願はされましたが処刑されています。

 幸い累は土岐氏全体には及ばず、頼遠の甥・頼康が惣領の家督と美濃守護職を引き継ぎます。彼は暦応2年(1339年)に西の厚見郡長森城(現岐阜市長森)に拠点を移しました。以後も岐阜市付近が土岐氏の拠点となり、土岐郡には恵那郡の豪族・遠山氏が勢力を伸ばします。尊氏と弟の直義が争った観応の擾乱では尊氏を支持し、その功績により観応2年(1351年)尾張守護職、尊氏没後の延文5年(1360年)には伊勢守護職も授かります(1360-66年、1379-87年)。また幕府宿老として尊氏の子義詮を支え、三代将軍義満の管領細川頼之と対立して諸将とともに御所巻を行い、頼之を辞任に追い込んでいます。

 嘉慶元年末(1388年)頼康は71歳で没し、甥の康行が跡を継ぎますが、足利義満は康行の弟・満貞に尾張守護職を与え、尾張守護代であった土岐詮直は満貞を合戦で駆逐しました。義満は詮直と康行が謀反したと喧伝して諸将に討伐を呼びかけ、康行はやむなく挙兵しますが敗れ、尾張・伊勢守護職を失います。また美濃守護職も取り上げられて叔父の頼忠に与えられ、康行は後に許されて伊勢守護職を得たものの、満貞も尾張守護職を罷免され、土岐氏はかつての勢力を大きく削がれることとなりました。

 頼忠はすでに高齢であり、美濃守護職を子の頼益に譲って隠居します。傍流の西池田家から美濃守護になったため国内の反発も根強く、頼益は幕府に忠勤して後ろ盾とすることになり、義満・義持二代に仕えて功績を挙げ、幕府宿老として中央では重んじられました。しかし美濃には守護代を置いて京都に常駐したため、美濃での地盤はますます脆弱となります。

 応永21年(1414年)頼益が64歳で没すると、子の持益が跡を継ぎますがまだ9歳で、家中の実権は守護代ら家臣が掌握します。美濃守護代の富島氏の当主も若年であったため、被官の斎藤経永(祐具)とその子利明(宗円)が勢力を伸ばしました。

斎藤妙椿

 美濃斎藤氏は平安時代の鎮守府将軍・藤原利仁の末裔と称し、越前国足羽郡河合郷(現福井県福井市河合)を本拠とした河合斎藤氏が移住してきたものとされます。『太平記』には鎌倉幕府の六波羅探題に仕えた斎藤利行という御家人が見え、娘婿の土岐頼員は後醍醐天皇の討幕計画を妻に漏らし、彼女が父に密告して計画が露見したと記されています。利行は六波羅探題が滅ぼされた際に討ち死にしましたが、経永・利明はその一族の子孫と思われ、この頃から土岐氏との姻戚関係もあったようです。

 文安元年(1444年)閏6月、斎藤宗円は土岐持益の命令により、京都の土岐屋形において美濃守護代の富島氏を殺害しました。富島氏の八郎左衛門は美濃に逃走して挙兵し、持益は宗円を美濃守護代に任じて討伐させますが、決着がつかぬうちに宗円は京都で富島氏の家来に暗殺されます。子の利永が跡を継いで富島氏を滅ぼし、次いで主君の持益を隠居させて傍流の成頼を跡継ぎに擁立、家中の実権を掌握します。長禄4年(1460年)利永が没すると嫡男の利藤が跡を継ぎますが、実権は利永の弟の妙椿が握りました。

 妙椿は法名で、幼少時に出家したため俗名は伝わっていません。西山浄土宗の善恵寺に入り、子院の持是院を構えたために「持是院妙椿」と呼ばれ、50歳の時に僧職のまま甥の利藤の後見人となり、加納城(現岐阜市)へ移りました。彼は足利将軍家に接近して幕府奉公衆となり、三位法印・権大僧都に昇り、権威の上で主家たる土岐氏に匹敵します。さらに応仁の乱では土岐成頼とともに西軍に与し、上洛した成頼に代わって美濃国内を平定、近江から攻め込んできた京極氏を撃破し、多くの荘園を押領して主家を凌ぐ勢力を築きました。

 妙椿は勢いに乗じて近江・伊勢・越前へ侵攻し、敵を撃破して勢力を美濃国外まで広げましたが、東軍についた小笠原氏と木曽氏が信濃から東美濃へ侵攻し、その一部を占領されています。畿内で西軍が敗れると、土岐成頼は文明9年(1477年)足利義視らを連れて美濃に戻り、妙椿はこの権威を利用して尾張・飛騨など周辺諸国にも介入しています。

船田合戦

 妙椿も寄る年波には勝てず文明12年(1480年)68歳で没し、利藤はこの機会に実権を取り戻そうと画策しますが、妙椿の養子で甥(利藤の異母弟)にあたる利国(妙純)に敗れ、近江を経て京都へ逃れます。成頼も妙純を支援し、守護代としました。

 妙純は後に守護代の職を利藤に返しますが、隣国越前の朝倉氏と同盟を結んで実権を握り続けます。しかし土岐成頼は利藤と手を結び妙純を排除せんとし、明応4年(1495年)に両勢力の武力衝突が始まります(船田合戦)。

 妙純は尾張の織田氏、越前の朝倉氏、近江の京極氏と連合してこれを打ち破り、翌年利藤を隠居に追い込みます。次いで京極高清の求めに応じて近江の六角氏を討伐しますが長期戦となり、年末に撤収準備をしていたところを郷民・馬借らの土一揆に襲われます。不意を突かれた妙純は嫡男の利親ともども討死し、次男の又四郎が跡を継ぎますが3年後に急死します。

 又四郎の弟・彦四郎が跡を継ぎ、美濃守護代職を認められたものの、守護職の土岐政房(成頼の嫡男)と対立してたびたび追放され、政房没後は後継者を巡って越前朝倉氏の介入を招くなど、不安定な状況が続きました。斎藤道三はこのような時期に美濃に現れ、やがて戦国大名となっていきます。

◆土◆

◆岐◆

【続く】

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