【つの版】度量衡比較・貨幣213
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は美濃の続きです。

◆美◆
◆濃◆
長井規秀
斎藤道三は、もとの名を長井新九郎藤原規秀といい、天文2年(1533年)にこの名で確実な同時代史料に初出します。生年は明応3年(1494年)ないし永正元年(1504年)とされ、天文2年には数え40歳ないし30歳ですが、後者が有力視されています。寛永末年(1643年)頃に記された軍記『美濃国諸旧記』では永正元年とし、山城国乙訓郡西岡(京都府長岡京市付近)で生まれたとします。この地は桂川の西にあり、室町幕府に仕える多数の土豪「西岡被官衆」が割拠していて、その連合/一揆が結成されていました。
道三の父は松波左近将監元宗といい、藤原秀郷の末裔で、代々北面武士を務めた家柄でした。幼名を峰丸と名付けられた道三は、11歳の春に京都妙覚寺(日蓮宗)で得度を受け、出家して法蓮坊と名乗りましたが、のち還俗して松波庄五郎と名乗りました。ついで商人の奈良屋又兵衛の娘婿となり、山崎屋庄五郎を名乗って油売りの行商人となり、美濃まで行商に赴きました。その商法は油を注ぐ時に漏斗を用いず、一文銭の穴に通してみせるという大道芸の一種で、大いに成功をおさめたといいます。
しかしある時、土岐家の矢野という武士から「このわざまえを武芸に注げば立派な武士となれように」と言われ、一念発起して商売をやめ、武芸の稽古を行います。そして同門の南陽坊日運が常在寺の住職になっていたのを頼り、日運の甥・長井長弘の家臣となり、長井氏の家臣・西村氏の家名を継いで西村勘九郎正利と称しました。
長弘の父・利隆は斎藤持是院家の分家ですが長老格で、守護の土岐頼芸、守護代の斎藤利良(持是院家、妙純の孫で利親の子)を輔佐して実権を握っていました。しかし頼芸の兄頼武は妻の実家の越前朝倉家を後ろ盾として守護となり、守護代に斎藤利茂(利藤の孫)を任じて頼芸・利良・長弘と抗争を繰り広げていました。大永5年(1525年)長弘は頼芸を奉じて挙兵し、利茂の居城である稲葉山城を攻め取ります。翌大永6年(1526年)6月の文書には長井長弘とともに「長井新左衛門」の名が見えますが、これは庄五郎改め西村勘九郎がさらに改名したものとされます。
享禄3年(1530年)正月、新左衛門は長井長弘を殺害して長井家を乗っ取り、長井新九郎正利を名乗りました。さらに斎藤山城守秀龍と改め、のちに出家して道三と号したといいます。ただし同時代史料の『実隆公記』には、天文2年(1533年)3月に「長井豊後守が病になった」との記述があり、同年6月に長井新九郎の初見文書が出現することから、道三の前半生として知られる長井豊後守=新左衛門=西村勘九郎=松波庄五郎は道三=新九郎の父のことと思われます。美濃の実権を握る長井長弘と長井新左衛門が同時期に揃って死んだことから暗殺説が立ったもののようですが、あくまで新九郎は父の権力基盤を受け継いだに過ぎません。彼が永正元年生まれとすれば、父の長井新左衛門はそれより20-30歳は年上でしょう。
土岐頼武もこの頃に没しましたが、長弘の子・景弘や美濃守護の土岐頼芸は健在で、守護代の斎藤利茂は頼武派でしたから、景弘・新九郎が実質的な守護代として美濃を差配することとなりました。ところが長井景弘も間もなく没したらしく、天文3年(1534年)には長井新九郎規秀が単独で文書を発行しています。病死か暗殺かは定かでありません。
斎藤利政
天文4年(1535年)長良川が氾濫して洪水を起こすと、頼武の子・頼充はこの混乱の隙をつき、越前朝倉氏・近江六角氏の支援を得て美濃へ攻め込みました。頼芸は翌年朝廷から美濃守に任官されて対抗し、戦乱により多数の寺院が焼亡しましたが、天文8年(1539年)正月までに和睦が成立し、頼充は頼芸の後継者とされ、六角氏と頼芸の間で同盟が締結されています。この頃に長井新九郎規秀は「斎藤新九郎利政」と改名し、左近大夫と名乗っており、家中では守護代の斎藤利茂、斎藤彦九郎宗雄に次ぐ地位にありました。
しかし天文12年(1543年)、利政は頼充の居城・大桑城(山県市大桑)を攻め、頼充は尾張に逃れます。守護の頼芸は稲葉山城におり加勢はしませんでしたが、頼充との後継者問題がこじれたせいではないかと推察されます。頼充は尾張守護の斯波氏、尾張守護代の織田氏、越前朝倉氏らの助力を得て翌年再び美濃に侵攻し、連合軍が稲葉山城を包囲します。城の守りは堅く、利政らの奮戦でこれを撃退しますが、天文15年(1546年)に頼充との間で再び和議が成立し、利政は自らの娘を頼充に嫁がせています。
ところが翌天文16年(1547年)11月、その頼充が24歳の若さで病死しました。『信長公記』では利政による毒殺だとしますが、六角氏の文書などでは単に早世したとのみあり、毒殺や暗殺とはしていません。翌天文17年(1548年)2月には、持是院家の惣領たる斎藤正義が国衆の久々利頼興により謀殺されます。正義は関白近衛家の庶子で、天文7年(1538年)に没した利良の養嗣子となって大納言を称し、利政に並ぶ権威の持ち主でした。頼芸も利政も頼興を処罰していないことから、彼らの意向を受けた頼興が正義を排除した可能性は否定できません。守護代の斎藤利茂や頼充の弟の頼香も、この頃から動静が不明になっており、暗殺された可能性があります。
同年に尾張の戦国大名・織田信秀は美濃に侵攻しますが打ち破られ、政利の娘が信秀の嫡男・信長に嫁ぐ形で和睦が成立します。彼女は「濃姫」とも「帰蝶」「胡蝶」とも呼ばれますが後世の創作で、濃姫というのも美濃から来た姫君というほどの呼び名でしょう。
この婚姻が成立したとされる天文18年(1549年)の5月には、利政は出家入道して「道三」と称しています。そして翌天文19年(1550年)かその次の年、道三はついに主君である土岐頼芸を追放します。頼芸は妻の実家である近江六角氏、ついで常陸にいた実弟の治頼のもとに身を寄せ、さらに上総国夷隅郡の国人である土岐為頼を頼ります。やがて同族の禅僧快川紹喜のもとを訪れ、武田家に庇護されたものの、この頃に失明しました。
守護も守護代も不在となった美濃では、斎藤道三が事実上の国主となり、幕府からもその地位を黙認されます。天文21年(1551年)同盟相手の織田信秀が没して信長が跡を継ぐと、道三はその娘婿として尾張にも影響力を及ぼすことになりました。しかし、道三の地位は数年後に崩れます。
一色義龍
天文23年(1554年)51歳の道三は隠居し、26歳の嫡男利尚(後の義龍)に家督を継がせました。しかし利尚の弟の孫四郎と喜平次は利尚と対立し、弘治元年(1555年)に2人とも利尚に殺されます。道三はこれを聞いて長良川を渡り、大桑城に立て籠もって兵を集めました。道三の側には娘婿の織田信長、大野郡大御堂城主代理の竹中半兵衛らがつきますが、道三は度重なる暗殺や謀殺、主君追放により人心を失っており、稲葉良通(一鉄)ら主だった美濃の国人衆(西美濃三人衆)は利尚の側につきます。
利尚軍1万7500余に対し、道三軍は2700余と6分の1しか集まらず、弘治2年(1556年)4月に利尚は信長軍が到着する前に勝敗を決し、父道三を討ち取ります。信長はやむなく撤退し、尾張でも利尚に呼応した反乱が勃発してしばらく美濃への介入はできなくなりました。なお利尚の実父が土岐頼芸だったとか、父殺しの汚名として自ら「范可」と名乗ったとかいうのは後世の俗説です。実際に利尚は「范可」の名で文書を発行していますが、道三を討つ前年の弘治元年末のもので、同年9月には高政と改名しました。
なお元禄年間に成立した軍記物語『明智軍記』によれば、明智光秀はもと斎藤道三に仕えていたとされます。明智氏は土岐氏支流にあたり、美濃国可児郡明智荘(現岐阜県可児市瀬田)を200年間治めた武家でしたが、道三の姻戚であったゆえ義龍(利尚/高政)軍に城を包囲されて滅亡し、光秀らは逃れて越前朝倉氏に身を寄せたといいます。光秀の前半生については確実な同時代史料が乏しいため定かではありませんが、美濃の出自であろうとは思われ、この10年後には足利義昭の家来として名が現れます。
斎藤高政は六人の側近に政治を輔佐させ、弘治4年/永禄元年(1558年)には室町幕府政所頭人・伊勢貞孝を介して治部大輔任官を願い出、補任されています。翌永禄2年(1559年)4月には上洛して足利義輝に謁見し、御相伴衆に任じられました。さらに同年8月には一色氏の家督を認められ、一色義龍と氏名を改めます。従って彼が「斎藤義龍」と名乗ったことはありません。
これは義龍の母が一色氏の血を引くゆえとされますが怪しく、清和源氏でも河内源氏ではない土岐氏より格上とするため、当時没落していたとはいえ足利氏の分家である一色氏を名乗ったものと思われます。義輝は政権基盤が脆弱ですから、美濃国を領有する大名を味方につけておくことは必要です。義龍と敵対する織田信長はこれを認めず、斎藤氏と呼び続けました。
一色龍興
義龍は近江六角氏とも関係を改善し、永禄4年(1561年)2月には左京大夫に任じられますが、同年5月に33歳で病没します。子の龍興が14歳で家督を相続しますが、信長はこれに乗じて美濃へ侵攻し、墨俣城を制圧して圧力をかけます。さらに北近江の浅井長政が信長と同盟して西から美濃を脅かし、信長は尾張北部の小牧山に城を築きました。
竹中半兵衛らの活躍により信長の美濃侵攻は一時食い止められたものの、龍興はその半兵衛らの裏切りで稲葉山城から追放され、帰還は果たしますが家臣からの支持を失います。龍興(この頃に義棟/義紀と改名)は室町幕府や武田信玄らとも手を結び信長に対抗しようとしますがうまくいかず、永禄10年(1567年)再び家臣らに裏切られ、信長に稲葉山城を奪われます。龍興改め義紀は木曽川を船で下り、伊勢長島を経て畿内に逃げ、義昭の兄・義輝を弑逆した三好三人衆に身を寄せました。
織田信長は小牧山城から稲葉山城に拠点を移して美濃を制圧し、古代チャイナの周の文王が岐山の麓に都を置いた故事にちなんで、城と城下町の名を「岐阜」と改めました。またこの頃から「天下布武」の朱印を用い始めるようになり、足利義昭を擁立して上洛し、天下(畿内)を武力で平定し、平和をもたらすことを宣言したのです。以後も岐阜城は天正4年(1576年)近江安土城に移るまで信長の本拠となり、嫡男の信忠に譲渡されています。
◆美◆
◆濃◆
【続く】
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