【つの版】度量衡比較・貨幣214
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は美濃の続きです。

◆関◆
◆原◆
岐阜城主
織田信長・信忠
永禄10年(1567年)、織田信長は尾張北部の小牧山城から、斎藤道三らの居城であった稲葉山城に拠点を移して美濃を制圧し、古代チャイナの周の文王が岐山の麓に都を置いた故事にちなんで、城と城下町の名を「岐阜」と改めました。またこの頃から「天下布武」の朱印を用い始めるようになり、足利義昭を擁立して上洛し、天下(畿内)を武力で平定し、平和をもたらすことを宣言したのです。以後も岐阜城は天正4年(1576年)近江安土城に移るまで信長の本拠となり、嫡男の信忠に譲渡されています。
木曽は古来美濃国恵那郡に属していましたが、この頃には武田信玄に服属しており、信長は信玄と同盟を結んで美濃への侵攻を防ぎました。信玄は今川氏真との同盟を破棄して駿河へ侵攻し、東国を巡り徳川家康や北条氏康と争いましたが、これがひと段落すると元亀3年(1572年)飛騨を制圧し、信長との同盟を破棄して遠江・三河・東美濃に侵攻します(岩村城の戦い)。翌年信玄が没しておさまりますが、後を継いだ勝頼は再び東美濃に侵攻し(明知城の戦い)、信長を東から脅かします。信長は天正3年(1575年)長篠の戦いで武田に大打撃を与え、翌年岐阜から安土へ拠点を移しています。
交通の要衝とはいえ内陸国の美濃に対し、近江には琵琶湖という巨大な水運があり、北陸と畿内を繋ぐ物流の大動脈です。ここを抑えた信長は経済力で武田家を凌駕し、朝廷の権威をもって正統性も獲得し、徳川家康を武田家への盾としながら調略を仕掛けました。天正10年(1582年)2月、信長は信忠を総大将として木曽から武田領に侵攻させ、1か月ほどでこれを平定、勝頼を自刃に追い込みます。しかし同年6月に本能寺の変が勃発し、京都にいた信長と信忠はともに自害することとなりました。
斎藤利堯
信忠の留守中に岐阜城を守っていたのは、斎藤道三の子利堯です。彼の母は美濃の有力国人・稲葉一鉄の姉妹にあたり、道三が没すると兄の義龍には仕えず、弟の利治とともに信長に仕えました。信忠が織田家の家督と尾張・美濃の領国を継ぐとその家臣となりますが、信忠が没すると中立を保ち、主君の仇である明智光秀を積極的に討つ動きは起こしませんでした。信長に追放された安藤守就はこれを好機として旧領回復のため挙兵しますが稲葉一鉄に迎撃されて戦死し、東美濃には関東・甲信にいた織田家家臣らが逃げ延びており、美濃国内は騒乱のただ中にあったため、利堯は動こうにも動けなかったのでしょう。なお斎藤利治は信忠に同行しており、光秀の家臣で同じ美濃斎藤氏の利三により討死しています。
織田信孝
やがて羽柴秀吉らが明智光秀を討伐し、尾張清洲城に逃れていた信忠の子の三法師が織田宗家の家督を相続することになります。ただし三法師の領地は信長のいた近江とされ、信忠の弟の信雄は尾張、信孝は美濃を相続しました。しかし信雄と信孝は三法師の後見人の地位を巡って対立し、秀吉は信雄に、柴田勝家らは信孝に味方します。また信孝は岐阜城に入ると三法師を抱え込んで近江へ行かせず、織田家の実権を握ろうとしました。
これに対し、秀吉は織田家重臣の丹羽長秀と池田恒興を味方に引き入れ、翌天正11年(1583年)正月に兵を率いて岐阜城に迫ります。やむなく信孝は和睦して三法師を引き渡し、母や乳母、娘らを人質として差し出しました。翌年伊勢長島で滝川一益が挙兵し、柴田勝家が越前から近江に侵攻すると、信孝はこれに呼応して再び岐阜で挙兵し、美濃を制圧せんと図ります。北近江で勝家軍と対峙していた秀吉は、これを聞いて美濃へ移動しますが、大雨で長良川と揖斐川が増水し、岐阜城を攻めることができず大垣城にとどまります。勝家軍はこれを好機として近江の大岩山砦を攻め落としました。
秀吉は状況判断して美濃から近江へ急ぎ引き返し(美濃大返し)、油断していた勝家軍を打ち破ります。間もなく勝家軍から前田利家が寝返り、勝家は北庄城を囲まれて自害しました。秀吉は信孝の人質を処刑すると、尾張を領する信雄を動かして信孝を攻撃させます。後ろ盾を失った信孝は降伏し、尾張へ連行されて自害しました。
池田元助・照政
秀吉は池田恒興を摂津から美濃に国替えし大垣城主として13万石を授け、恒興の嫡男・元助を岐阜城主、次男の照政(輝政)を池尻城主としました。また恒興の娘婿森長可は信濃から逃れて父可成以来の居城・金山城に拠り、東濃・中濃を制圧しており、恒興とともに美濃を領有することとなります。しかし信雄は家臣である秀吉と対立し、天正12年(1584年)徳川家康らと手を結んで挙兵しました(小牧・長久手の戦い)。
池田恒興・森長可らは秀吉方につき、美濃から尾張へ侵攻します。秀吉は恒興の娘婿である甥の羽柴信吉(秀次)を援軍として派遣し、家康の本拠地である三河に侵攻させようとしますが、返り討ちに遭って恒興・元助・長可らが討死する大敗を喫しました。生き残った照政は家督を相続し、翌年居城を岐阜に移しています。大垣城には一柳直末が3万石で入りました。秀吉は紀州での雑賀衆らの挙兵もあって東奔西走し、信雄と和睦して終戦します。
豊臣秀勝・織田秀信
天正18年(1590年)、徳川家康が小田原北条氏の領国へ国替えされると、池田照政は東三河吉田城主15万2000石に封じられ、岐阜城には代わって豊臣秀勝(秀次の弟)が入ります。天正20年(1592年)24歳の秀勝は朝鮮南部の巨済島で病没し、跡継ぎの男子がいなかったため、その所領は織田信忠の子の三法師こと織田秀信に授けられました。
祖父信長、父信忠に続いて岐阜城主となった秀信は、叔父の信雄がこの頃に失脚・出家していたこともあり、数え13歳の少年とはいえ事実上の織田家嫡流の当主です。しかし岐阜城主となる時に秀勝の養子となり、翌年には羽柴氏・中納言を賜り、豊臣摂関家の一員として扱われました。秀次が粛清された時にも連座はせず、秀吉没後は秀頼に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては「戦勝の暁には美濃と尾張を授ける」と石田三成らに約束されて反家康派/西軍に与しました。慶長3年の検地では、美濃は54万石、尾張は57万石ですから、両国を合わせれば100万石を超えます。
東濃を領していた森長可の子・忠政は同年に信州川中島に転封されており東軍につきますが、金山城とその所領は尾張犬山城主の石川貞清が接収しており、木曽・東濃を領していた諸大名は全て西軍につきます。そこで家康はかつて木曽・東濃に長年割拠していた国衆たちを呼び集め、旧領を奪還すれば安堵すると約束して派遣しました。彼らは旧領の庄屋や百姓を説得して味方につけ、各地の城や砦を占領したので、東軍は美濃への侵攻が可能となります。こうした国衆たちには、明智光秀の妻の実家である妻木氏もいます。
福島正則・池田照政率いる東軍主力は東海道を通って8月に尾張に入り、木曽川を越えて美濃へ攻め入ります。秀信は自ら出陣して迎え撃ちますが、自軍に倍する東軍の数と勢いに押されて撃破され、たちまち岐阜城を包囲されます。石田三成ら西軍の主力は大垣城から救援に向かいますが撃退され、犬山城は東軍に降り、追い詰められた秀信は降伏、出家しました。包囲から落城まで僅か1日です。さらに大垣城も包囲され、西軍は動揺します。
9月、江戸を出発した徳川家康は岡崎・熱田・岐阜を経て美濃赤坂に到着し、関ヶ原の戦いで西軍主力を撃破・吸収、近江に侵攻します。西軍総大将の毛利輝元は家康と和睦して大坂城を退去し、家康が大坂城に入って秀頼に謁見、安国寺恵瓊・石田三成・小西行長らを首謀者として斬首しました。
加納城主
翌慶長6年(1601年)、家康は岐阜城の破却を決め、翌年5km南の平地にあった加納城跡に岐阜城の天守・櫓・石垣などを移築させました(現岐阜市加納)。岐阜城は標高329mの金華山(稲葉山)の上にある中世以来の堅牢な山城ですが、城下町から遠く、籠城されると東西の交通に支障をきたします。そこで平地に降ろして平城とし、城下町を江戸と京都を結ぶ中山道の宿場町としたのです(天下普請により堀を巡らし堅牢に作られてはいます)。のち金華山は尾張徳川家の御留山とされ、許可なき侵入は厳罰に処されることとなりました。現在金華山にある建造物は昭和31年(1956年)鉄筋コンクリートで建てられた模擬天守です。
加納城主には家康の娘婿奥平信昌が任じられ、10万石が授けられますが、彼は同年に隠居して子の忠政に家督を譲ります。しかし忠政は生来病弱で、実権は信昌が握りました。慶長19年(1614年)に忠政は父に先立って35歳で病没し、翌年信昌も没します。忠政の子の忠隆は寛永9年(1632年)25歳で病没し、子は生まれたばかりで家督相続を許されず、加納奥平家は3代で断絶・改易となります。
代わって5万石で加納藩主となったのは、信昌の娘を母とする大久保忠職です。彼は7年後に播州明石藩へ転封され、入れ替わりに明石藩主であった戸田松平家の光重が7万石で入ります。子の光永、孫の光煕と3代72年続き、宝永8年(1711年)山城国淀に転封されました。次いで安藤信友が6万石(+近江国内に5000石)で入ります。彼は父の従兄弟・信周を養嗣子とし、彼に先立たれたため、その子の信尹を跡継ぎとしました。
享保17年(1732年)信友が没すると、信尹が16歳で跡を継ぎます。しかし彼は奢侈を好んで財政を悪化させ、重税を課して領民を苦しめたため、宝暦3年(1753年)家老たちにより密かに幽閉されます。このことが幕府に露見し、宝暦5年(1755年)には幕府より隠居を命じられ、嫡男信成に家督を譲らされます。さらに所領のうち1万5000石が削られ、翌年信成は陸奥磐城平藩に転封されました。のち信成は老中に昇進して美濃領1万7000石を回復しますが、加納に戻ることはありませんでした。
続いて3万2000石で入ったのが永井直陳で、以後廃藩置県まで6代115年にわたり永井家が藩主となります。彼の養子となった尚備の母は織田信雄の末裔にあたり、母系ながらも信長の末裔が岐阜に戻って来たことになります。とはいえ加納藩は小さく、藩政改革にも見るべきところは多くありません。明治時代に加納城は破却され、かつての岐阜城の痕跡として残るのは石垣ぐらいなものです。
◆加◆
◆納◆
さて、美濃は太閤検地時に54万石もあり、織田秀信の領した岐阜城周辺だけでも13万石、加納藩初期の奥平家の所領も10万石はありました。残りの40万石あまりのうち多くは幕府領や尾張名古屋藩領に組み入れられましたが、美濃には他にも東濃に苗木(1万石)・岩村、中濃に郡上、岐阜地区に高富(1万石)、西濃に大垣・今尾(3万石/尾張藩家老)・高須(尾張藩支藩)などの藩が存在しました。このうち大垣藩は江戸前期より10万石を領し、美濃最大の大名として廃藩置県まで存続しています。次回はこれら美濃の諸藩について見ていきましょう。
【続く】
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