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【つの版】度量衡比較・貨幣215

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は美濃の続きで、東濃編です。

岐阜県

◆織◆

◆部◆


東濃概略

岐阜県行政区分地図

 美濃国21郡のうち、東部の恵那・土岐の両郡を東濃と呼びます。現在の岐阜県中津川市・恵那市・瑞浪市・土岐市・多治見市にあたります。

 東濃は、東は木曽山脈を挟んで信濃に接し、南は奥三河、西は尾張、北は飛騨に面しています。恵那郡は古くは木曽を含み、古代には土岐郡の一部でした。山深い土地ですが東山道/中山道が東西に貫き、恵那を源流とする土岐川/庄内川が尾張へ向かって流れ、名古屋を経て伊勢湾に注いでいます。

 美濃源氏の土岐氏は土岐郡を拠点として鎌倉時代より勢力を保ち、南北朝時代には美濃守護に任じられましたが、暦応2年(1339年)に西の厚見郡長森城(現岐阜市長森)に拠点を移しました。以後も岐阜市付近が土岐氏の拠点となり、土岐郡には恵那郡の豪族・遠山氏が勢力を伸ばします。

 土岐頼芸は斎藤道三に国外追放された後、流浪の末に武田家に身を寄せ、甲州征伐の時に織田家に庇護されますが、81歳の高齢のうえ失明しており、半年後に美濃で病没します。子の頼次は一色義龍・松永久秀・豊臣秀吉を経て徳川家康に仕え、子孫は高家旗本として江戸幕府に仕えましたが、玄孫が不祥事を起こして改易され、宝永5年(1708)年に絶家しています。

 尾張北東部の瀬戸(現愛知県瀬戸市)は、古墳時代から陶磁器の一大生産地として栄えましたが、北に隣接する美濃国土岐郡付近にも陶工が移住し、工房を構えました。織田信長が美濃を平定すると陶工の移住は本格化し、桃山時代には志野焼、江戸時代初期には茶人古田織部の影響を受けた織部焼が出現しました。その後も美濃の陶磁器生産は盛んになり、現在では全国の陶磁器生産量の半数を東濃地方が占めているといいます。

 古田織部は通称を佐介、諱を景安、のち重然しげなりといい、従五位下・織部助(織部頭/織部正とも)の官位を賜ったことから織部と呼ばれます。古田氏は伊勢国員弁いなべ郡古田邑を本貫としますが、祖父の総兵衛、伯父の重安は土岐氏・斎藤氏に仕えた美濃の国人でした。織部の父の勘阿弥は桑原氏の養子となり、土岐氏の同朋衆だったといいます。信長が美濃を平定すると重然はこれに仕えて各地を転戦し、摂津茨木の領主中川清秀の妹婿となりました。やがて茶人・千宗易(利休)の弟子となり、本能寺の変の後は秀吉に仕え、利休の没後は秀吉より「茶頭」に抜擢され、茶の湯を通して政治的な影響力を持ちました。秀吉が没すると家康・秀忠に仕えますが、大坂の陣終結後に内通の嫌疑をかけられ切腹しています。

岩村城主

岩村遠山氏

 美濃東端の恵那郡には平安時代に遠山荘が置かれ、鎌倉時代には加藤景廉が源頼朝より地頭に任じられました。その子孫は遠山氏を称し、木曽川の南の岩村城(現恵那市岩村町)を拠点としましたが、木曽川の北には分家が進出して苗木城を築き、岩村・苗木を含めて七家に分かれました。南北朝時代に土岐氏が西へ拠点を移すと、土岐郡にも遠山氏が進出しています。

 武田信玄が信濃・木曽を平定すると遠山氏はこれに従い、さらに織田信長ともよしみを通じ、外交僧を介して信玄と信長に手を組ませます。斎藤道三を倒して西濃と中濃を制した一色義龍、三河から美濃をうかがう今川義元に対抗するためでしょう。信長は岩村城主の遠山景任に叔母(おつやの方)を、景任の弟で苗木城主の遠山直廉に自らの姉妹を嫁がせて同盟し、遠山氏からも尾張へ援軍を派遣しています。しかし信玄は後に信長との同盟を破棄し、美濃への侵攻を行い始めました。

秋山虎繁

 元亀3年(1572年)、遠山景任が病没すると、信長は自分の子(御坊丸)を養嗣子とします。翌元亀4年(1573年)武田信玄は伊那郡代の秋山虎繁に岩村城を攻撃させ、おつやの方は虎繁の妻となることで和睦し、御坊丸は人質として甲府に送られます。信長は1万の兵を率いて駆け付けますが撃退されました。しかし同年4月、信玄が病没します。

 跡を継いだ武田勝頼は東濃への侵攻を継続し、翌年には各地の城を陥落させます。翌年信長は長篠の戦いで武田軍に大打撃を与え、勢いに乗じて東濃の諸城を奪還しました。武田方についた遠山氏やおつやの方、秋山虎繁らは皆殺しにされ、岩村城には武田への抑えとして河尻秀隆が入ります。

河尻秀隆

 秀隆は信秀以来の重臣で、信長直属の近衛部隊「黒母衣衆」の筆頭をつとめ、桶狭間以前より信長に従って各地を転戦した人物です。長篠の戦いの翌年に信忠が尾張・美濃国主に任じられると、その補佐役として対武田勝頼の最前線にとどまりました。彼は岩村城を近世城郭として改築し、地元の国人衆らを硬軟両面で手懐け、武田方には調略を行い続けます。

 天正8年(1580年)、勝頼は越後上杉家の御家騒動に介入して小田原北条氏と対立することとなり、翌年信長と和睦するため御坊丸(甲府で元服して源三郎信房)を返還します。信長は信房を勝長と改名させ犬山城主としますが、武田との和睦は断り、翌年には甲州征伐を開始しました。ただし総大将は信忠とし、信長は岩村城に滞在して戦果の報告を受けています。戦後処理により河尻秀隆は甲斐国主に任じられ諏訪郡も賜りましたが、同年に本能寺の変が起きて武田の旧臣が蜂起し、討ち取られます。

団忠正・各務元正・田丸直昌

 秀隆に代わって岩村城主となっていたのは団忠正ですが、信忠に同行して上洛していたため、本能寺の変に際して信忠とともに戦い討死します。越後に出陣していた森長可は信濃を経て美濃に帰還し、岩村城を奪還せんと歯向かって来た遠山氏らを蹴散らすと、家来の各務元正を岩村城主としました。のち長可が戦死すると元正は弟の忠政に仕え、忠政が川中島へ国替えされるとこれに従いますが、同年に病没しています。

 代わって岩村城主となったのは、伊勢北畠家庶流の田丸直昌です。彼は織田信雄の家来でしたが秀吉に寝返り、蒲生氏郷の妹婿として各地の与力大名となった後、秀吉から川中島4郡を治める海津城主に任じられていました。しかし森忠政と入れ替わりに4万石で岩村城主となったのです。関ヶ原の戦いでは西軍につき、岩村城は家来に任せて大坂城の守備に赴きますが、西軍が敗れたため越後へ流され出家します。

松平家乗・乗寿

 翌慶長6年(1601年)、家康は大給松平家当主の家乗を岩村城主とし、美濃国のうち土岐郡・恵那郡の2万石を授けました。家乗は居館を城の北西の麓に移して城下町を整備し、慶長19年(1614年)に彼が没すると子の乗寿が跡を継ぎますが、寛永15年(1638年)遠江浜松に加増転封されました。

丹羽五代

 代わって岩村藩主となったのは丹羽氏信です。彼の先祖は足利氏の分家・一色氏で、尾張国丹羽荘に定着して丹羽氏を名乗りました(丹羽長秀とは別系)。氏信の祖父氏勝は織田信次と信長に仕え、父氏次は信長・信雄・秀次を経て家康に仕え、関ヶ原の後は三河国伊保に1万石を授かりましたが、その翌年に没しています。氏信は若くして家督を継ぎ、大坂の陣にも参戦して手柄を立て、1万石の加増を受けて国替えされたのです。

 正保3年(1646年)氏信が没すると子の氏定が継ぎ、氏純氏明と父子で相続されましたが、氏明は男子がなく早世したため、分家の氏音が末期養子となって跡を継ぎます。この頃岩村藩は財政が窮乏しており、氏音は藩士の山村瀬兵衛を抜擢して財政改革を行わせました。瀬兵衛は質素倹約を旨として出費を抑える一方、藩士が世襲する際に秩禄を減らす制度を導入し、新税を次々に導入して藩の収入を増やしました。これにより藩の財政は数年で再建され、負債を償却して余りあるほどでしたが、藩士や領民は減収と増税に苦しめられ、瀬兵衛に対して恨みを燃やします。

 元禄14年(1701年)末、恵那郡竹折村の庄屋・田中輿一郎が岩村藩の苛政について幕府に直訴し、重臣の妻木郷左衛門ら30名も徒党を組んで連署し、藩主の丹羽氏音に瀬兵衛の排除を訴えます。氏音はやむなく瀬兵衛を解任、新税を撤廃しました。しかし瀬兵衛は翌元禄15年(1702年)幕府に訴状を提出し、反瀬兵衛派も幕府に対して瀬兵衛の専横を訴えました。

 時の将軍・綱吉は幕府評定所にこれを審議させ、「山村瀬兵衛は有能な忠臣であるのに、家士はこれを妬んで徒党を組み、讒訴して失脚させた」として反瀬兵衛派側を処分します。また氏音に対しては「家中を服従させられず混乱を招いた」として越後高柳藩1万石に減転封となり、江戸での閉門蟄居を命じられました。ここに5代64年続いた丹羽家の藩主時代は終わります。

松平七代

 岩村藩領はしばし幕府美濃郡代の預かりとなったのち、松平乗寿の孫・乗紀が信濃小諸藩から移されました。以後廃藩置県まで7代170年にわたり大給松平家が再び岩村藩主となります(家乗・乗寿を併せて9代207年)。石高は2万石ですが、のち駿河などに1万石を加増され、藩主は寺社奉行など幕府の要職を歴任しました。また乗紀は城下に文武所(藩校)を設置して文武を奨励し、のち『論語』の「温故而知新」から「知新館」と名付けられました。

 第4代藩主・乗賢は賢君でしたが跡継ぎに先立たれ、大給松平家の宗家である伊勢亀山藩主家から養嗣子・乗薀を迎えました。その子の乗衡は儒学を学び、松平定信の命により大学頭林家の跡を継ぎ、林述斎と名乗って寛政の改革を支えました。

苗木城主

 鎌倉時代の仁治2年(1242年)、岩村城の北、木曽川の北岸に築かれたのが上述の苗木城(現中津川市苗木)です。城主は岩村遠山氏の分家で、南北朝時代には遠江から信州伊那に逃れた後醍醐天皇の皇子・宗良親王を付近に匿ったと伝えられ、戦国時代には信濃守護の小笠原氏、次いで信濃・木曽を制した武田信玄に服属しました。

遠山直廉・友勝・友忠

 遠山氏は上述のように信長とも手を結び、苗木城主の遠山直廉信長の妹を娶っています。この結婚で生まれた娘(龍勝院)は信長の養女とされ、信玄の庶子であった諏訪勝頼に嫁ぎ、永禄10年(1567年)には子の信勝を産んでいます。しかし直廉は跡継ぎとなる男子を儲けぬまま永禄13年/元亀元年(1570年)に没し、信長は遠山氏の分家のひとつ・飯羽間遠山氏友勝を養嗣子として送り込みました。ところが武田軍は同年に三河を攻撃するため信濃から恵那郡に侵攻し、遠山氏は徳川軍と結んでこれを迎撃します。

 総大将の遠山景行は大敗を喫して自害しますが、武田軍は織田の援軍により撃退され、信長は東濃防衛に力を注ぎます。しかし元亀4年(1573年)には岩村城が奪われ、同年に信玄が没しますが翌年には勝頼が東濃に侵攻、苗木城など東濃の諸城が攻め落とされます。信長は長篠の戦いで武田軍に大打撃を与えると、勢いに乗じて東濃の諸城を奪還しました。

 友勝の子・友忠は信忠に仕え、甲州征伐に際しても先鋒部隊を率い功績を立てましたが、同年に本能寺の変が起きて信長・信忠がともに死ぬと、美濃は大混乱に陥ります。友忠らは遠山氏の本拠地であった岩村城を奪還しようとしますが、越後・信濃を経て美濃に戻って来た森長可に蹴散らされ、三河に逃げ延びて徳川家康に仕えました。苗木城は以後森家の支配下に入り、長可が小牧・長久手の戦いで戦死すると、弟の忠政が家督を継ぎます。

河尻秀長

 慶長5年(1600年)2月、森忠政が信濃川中島4郡に加増転封されると、河尻秀隆の子・秀長が苗木城主となります。父の横死以来秀吉から長らく恩顧を受けていたため、関ヶ原の戦いでは西軍につきますが討死しました。苗木城は城代の関治兵衛が守っていましたが、旧領回復を約束されて家康に送り込まれた遠山友政(友忠の子)らに襲撃され、城を明け渡して逃げました。

遠山友政

 遠山友政は戦後に河尻秀長の所領を賜り、恵那郡および加茂郡東部の1万5000石を授かります。これより遠山氏は苗木藩主として廃藩置県まで12代270年余にわたりこの地を治めました。小藩とはいえ鎌倉時代以来の武家が明治維新まで同じ土地の領主として存続した例は、島津家や諏訪家などの例はあるものの珍しく、遠山氏の他の分家もいくつかは旗本などとして存続しました。江戸後期の名奉行として知られる遠山金四郎景元は、旗本の明知遠山家の末裔です(父が永井氏からの養子ゆえ血縁関係はありませんが)。

◆遠◆

◆山◆

【続く】

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