【つの版】度量衡比較・貨幣238
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は近江国の続きです。

◆地◆
◆獄◆
戒壇論争
良源を支援した藤原兼家の没後、家督を継いだ嫡男の道隆、次男の道兼が相次いで没すると、三男道長が家督を継いで左大臣に昇進します。彼は寺門派の余慶の弟子勧修を支援し、長徳3年(997年)には園城寺長吏、長保2年(1000年)には大僧正としています。また浄妙寺、解脱寺、法成寺などの主要な職を寺門派に与え、熊野三山なども寺門派に転じました。道長の三男顕信が寛弘9年(1012年)正月に突然出家して比叡山に入ったこともあり延暦寺との関係は悪化しますが、寛仁3年(1019年)には病気により山門派の院源を戒師として出家し、関係を修復しています。
道長の子頼通は寺門派の明尊に帰依しており、長暦2年(1038年)には明尊が天台座主に就任します。山門派は頼通に抗議しますが聞き入れられず、翌年2月に3000人が集まって頼通邸に強訴を行います。邸内に乱入した僧徒に対し、頼通は家人の平直方(桓武平氏)に命じて矢を射させ、僧徒も応戦して双方に死傷者が出る騒ぎとなります。朝廷は山門派の首謀者を処罰しますが、明尊は辞任に追い込まれ、山門派が天台座主となりました。
この頃から、山門派は延暦寺の戒壇で寺門派が受戒する(正式な僧侶や尼となる)ことを拒むようになり、寺門派は東大寺での受戒を余儀なくされます。明尊は園城寺に独立の戒壇を設置するよう朝廷に働きかけますが、山門派は強く反発し、朝廷も頼通も責任回避のため承認しませんでした。摂関家はその後も寺門派の僧侶を支援して天台座主としたものの、そのたびに山門派の反発で短期間で辞任することが定例化してしまいます。頼通の子で明尊の弟子の覚円も承暦元年(1077年)に天台座主の勅許を受けますが3日で辞任させられ、代わりに京都白河の法勝寺の初代住職となっています。
『平家物語』によると、園城寺の僧侶・頼豪は白河天皇に皇子誕生の祈願を依頼され、成功すれば褒美を思いのままにとらせると約束されます。そこで頼豪は一心不乱に祈願して見事成就させ、園城寺に戒壇を建立する勅許を願い出ます。天皇は延暦寺を恐れて勅許を与えませんでしたが、頼豪は「わしが産ませた皇子はわしが連れていく」と断食して呪詛を行い、悪鬼の如き姿となって死にました。果たして皇子は彼の祟りで病没したといいます。
また『平家物語』異本や『太平記』によれば、頼豪の怨念は八万四千匹の石身鉄牙の鼠と化し、比叡山延暦寺に駆け登って仏像・仏具・経巻を食い荒らしたので、延暦寺は東坂本(現大津市坂本)に社を築いて彼を祀り、怨念を鎮めたといいます。実際に白河天皇の第一子・敦文親王は承保4年(1077年)4歳で病没していますが、頼豪が没したのは応徳元年(1084年)で年代が合いません。両者の争いをもとにした後世の伝説でしょう。
両者の争いはさらにエスカレートし、永保元年(1081年)には山門派が園城寺を焼き討ちする事態にまで発展しました。これは大津浜で寺門派の男が山門派の日吉社の宝殿に放尿し、法師らが彼を捉えようとしたところ、逆に男によって法師の一人が捕縛されたことによります。怒った山門派は大津浜に攻め寄せ、住人たちは奉仕先を日吉社から寺門派の三井寺新宮に変えて庇護を求めました。日吉社は朝廷に訴えますが事態が好転せず、業を煮やした山法師らは6月に数千人で園城寺を焼き討ちしたのです。
甚大な被害を受けて掠奪までされた園城寺は怒り狂い、9月に300人の僧徒が延暦寺を襲撃しますが、山門派は濠を築いて防戦し、朝廷も検非違使を遣わして寺門派を処罰します。山門派はこれでおさまらず、再び数百の僧徒が園城寺を焼き討ちしたといいます。このような状況で、白河天皇は個人的な護衛として有力な武士を雇うこととなります。
河内源氏
同年9月、源義家は検非違使とともに「園城寺の悪僧」を追捕し、翌月には白河天皇の石清水八幡宮行幸に際し、「園城寺の悪僧の襲撃を防ぐため」として、弟の義綱とともに郎党を率いて護衛しています。彼らは曾祖父の満仲以来摂関家に仕えた清和源氏の武家で、祖父の頼信(河内源氏)は藤原道長と頼通に仕えて平忠常の乱を鎮圧し、父の頼義も頼通に仕えて奥州安倍氏を討伐しています。頼義の妻の父は同じく頼通に仕えた平直方で、鎌倉や坂東の郎党を頼義に譲り渡しており、義家・義綱らは直方の孫にあたります。
義家は真言宗系の石清水八幡宮で元服したため八幡太郎と称し、義綱は賀茂神社で元服して賀茂次郎、弟の義光は園城寺の守護神・新羅明神の堂舎で元服したことから新羅三郎と称しており、いずれも延暦寺より園城寺に近い立場です。藤原道長・頼通も白河天皇も園城寺を贔屓して延暦寺に怨まれています。彼らが「園城寺の悪僧」を取り締まったのは、延暦寺に近い連中だと悪僧らが命令に従わず、さらに衝突の火種となるためでしょう。
義家はこのあと陸奥守に任じられて奥羽清原氏と戦い、義綱も続いて陸奥守となり、義光は婚姻により甲斐や常陸に勢力を伸ばします。義綱は兄義家よりも出世して嘉保2年(1095年)美濃守に就任しますが、白河上皇(院)の宣旨により美濃の延暦寺領荘園を収公した際に寺側と小競り合いになり、僧侶1名が流れ矢に当たって死亡しました。怒った延暦寺側は日吉社の神輿を担いで強訴を行い、義綱の配流を要求します。
義綱の主君である関白・藤原師通(頼通の孫)は源頼治(満仲の孫、大和源氏)と義綱に命じてこれを撃退させますが、この時に矢が神輿や神人に命中し、延暦寺側は態度を硬化させます。4年後の承徳3年(1099年)には師通が数え38歳の若さで病没し、延暦寺は「仏罰だ」と喧伝しました。朝廷は頼治を土佐ないし佐渡へ配流し、義綱も失脚させられます。師通の父師実も2年後に薨去し、師通の子忠実もまだ年若いため、政治の実権は結果的に白河院が握ることになりました(院政)。
ライバルの義綱が失脚した源義家は白河院に仕えて出世しますが、嘉承元年(1106年)に没し、子の義忠が家督を継ぎます。ところが3年後に義忠が暗殺され、義綱の三男義明が共犯者として殺害されました。怒った義綱らは京都を去って近江国甲賀山に立て籠もりますが、白河院は義忠の甥ないし弟の為義、近江に所領のある義光らに追討を命じます。義綱の子らは次々と自害し、義綱は為義に降伏しますが佐渡に流され、28年後に寂しく世を去ったといいます。一連の事件の真犯人は義光ともいいますが、真相は定かでありません。これにより河内源氏は一時中央での勢力を失い、代わって伊勢平氏が台頭してくるのです。
寺門焼討
この間に園城寺は復興され、白河院や清和源氏の庇護もあり延暦寺との争いも少しおさまりますが、今度は延暦寺と興福寺の直接対決が勃発します。天永4年(1113年)、白河院は延暦寺で出家した仏師の円勢を京都清水寺の別当(住職)としますが、ここは興福寺の末寺であるため反発を買い、閏3月20日に数千人の興福寺大衆が上洛して強訴を行いました。白河院は譲歩してその場をおさめたものの、大衆が祇園社の神人に暴行を働いたため延暦寺側が報復行動を起こし、29日に清水寺の堂舎を破壊します。さらに神輿を担いで白河院の御所に押しかけ、興福寺のトップ・実覚の流罪を求めました。
白河院は美濃源氏の源光国、河内源氏の源為義、伊勢平氏の平正盛(清盛の祖父)らに院御所と内裏を警備させますが、その場しのぎの対応で要求をのんだために再び興福寺が激怒して撤回を要求し、さらに天台座主と法性寺座主の流罪、祇園社を春日大社(藤原氏の氏神として興福寺と融合)の末社とするよう求めました。白河院は比叡山と興福寺の衝突を防ぐため、京都の比叡山西坂本に源光国と藤原盛重を配備し、南の宇治には平正盛と子の忠盛(清盛の父)、美濃源氏の源重時らを配備します。興福寺大衆は宇治で正盛らと対峙しますが、院側が鹿を射ようとしたことから合戦となり(鹿は春日大社の神使なので挑発行為)、大衆側に多数の死傷者が出ました。同年7月には永久と改元されたため、この一連の事件を「永久の強訴」と呼びます。
また延暦寺側でも天台座主の仁豪と法性寺座主の覚慶が対立し、覚慶は仁豪の天台座主辞任を求めて強訴を行おうとする始末でした。翌年には延暦寺で両派の武力衝突が起きています。保安元年(1120年)から翌年にかけては園城寺との武力衝突も発生し、報復合戦の末に園城寺がまたも焼き討ちされて灰燼に帰しました。この後に仁豪が没すると覚慶が天台座主に就任しますが、反対派との対立はなおも続きました。『平家物語』に白河院が「賀茂川の水(洪水)、双六の賽(確率)、山法師(比叡山の衆徒)、これぞ我が心にかなわぬもの」と嘆いたというのは、このことを指しています。
なお保安元年に平忠盛は越前守となりますが、在任中に敦賀で起きた殺人事件の犯人が日吉社神人であったことから、延暦寺の悪僧が連行中の犯人の身柄を奪い取る事件が起きます。忠盛は悪僧ごと犯人を再逮捕し、延暦寺は強訴を行ったものの、白河院は忠盛を擁護しています。
白河院は園城寺を再建し、43年に渡って院政を敷き、大治4年(1129年)77歳で崩御しました。彼に続いて孫の鳥羽院が27年にわたる院政を敷き、摂関家は権勢を低下させることとなります。
祇園闘乱
保延6年(1140年)にも延暦寺と園城寺の武力衝突が起き、11度におよぶ合戦の末に山門派300名が死に、園城寺は報復としてまたも焼き討ちに遭っています。2年後の永治2年には園城寺が報復のため延暦寺東塔に侵攻し焼き討ちを行いますが、逆襲の焼き討ちを受けて死傷者を出しました。
久安3年(1147年)6月には、祇園社の神人と平清盛の郎党が小競り合いを起こし、郎党側の矢が宝殿に命中、多数の負傷者を出す騒ぎが起きます。祇園社の本寺である延暦寺は鳥羽院に訴えたため、清盛の父忠盛は下手人7名の身柄を院庁に差し出し、院庁から検非違使庁に引き渡されます。
しかし延暦寺は納得せず、日吉社・祇園社の神人とともに大衆が神輿を押し立てて強訴を起こし、忠盛と清盛の配流を要求しました。公卿らが集まって協議しますが結論が出ず、大衆らは西坂本で武士らと睨み合い、一触即発となりました。結局は清盛が「贖銅三十斤」という罰金刑に処せられ、忠盛には罪はないと裁決されましたが、大衆の不満はおさまらず、延暦寺上層部へのデモを行い内紛が3か月も続く有様でした。鳥羽院は彼らを宥めるため翌年祇園社で法華八講を修し、忠盛も所領を祇園社に寄進しています。
仁平3年(1153年)に平忠盛が没し、保元元年(1156年)に鳥羽院が崩御すると、清盛は保元・平治の乱を経て最終的な勝利者となります。彼は後白河院と手を結んで実権を握り、最初の武家政権「平氏政権」を打ち立てました。彼の時代にも戒壇設立を巡って延暦寺と園城寺の対立があり、長寛元年(1163年)にはまたも園城寺が焼き討ちされています。
仁安2年(1167年)、明雲が天台座主に就任すると、高倉天皇の護持僧や後白河院・平清盛の受戒師をつとめ、平氏政権と密接に結びつきました。彼は鳥羽院の弟で天台座主を短期間つとめた最雲法親王の弟子にあたります。しかし後白河院は延暦寺を牽制するために園城寺を贔屓したので、彼の時代にも延暦寺の大衆による強訴は繰り返されました。
叡山強訴
嘉応元年12月(西暦1170年1月)、尾張守・藤原家教の目代(代官)である政友が、延暦寺領である美濃国平野荘の神人に暴行を加える事件が勃発します。延暦寺は抗議を行い、家教の同母兄で尾張知行国主である成親の流刑と政友の投獄を求めました。しかし成親は後白河院の側近であったことから要求は通らず、延暦寺の使者は追い返されます。
後白河院は検非違使や武士を動員して院御所を警備させますが、大衆は神輿を担いで警備の手薄な内裏に向かい、乱入して神輿を内裏の中に据え、騒ぎ立てます。平氏の武士らも強訴の鎮圧を拒んだため、後白河院はやむなく要求をのみますが、数日後には明雲を高倉天皇護持僧の役から外し、事件の処理に当たった検非違使別当の平時忠(清盛の妻の弟)と蔵人頭の平信範を解任・配流すると布告しました。そして成親の処罰を取りやめたばかりか、時忠の後任として検非違使別当とします。
驚いた清盛は摂津福原から上洛し、本拠地の六波羅に家来を集め、武力で後白河院を脅しつけます。やむなく後白河院は成親を解任し、時忠と信範の配流はとりやめとなりました。しかし成親の配流はうやむやとなり、4月には検非違使別当に再任しています。これにより後白河院と平氏政権の対立が表面化し、延暦寺は明雲のもと平氏政権に接近しました。
治承元年(1177年)3月、延暦寺の大衆が強訴を起こし、加賀守藤原師高とその子で加賀目代(代官)の師経の配流を後白河院に要求します。師経が延暦寺の末寺である加賀白山の湧泉寺を焼き討ちする事件を起こしたためで訴えはもっともですが、師高の父で後白河院の側近である僧侶の西光が反発しました。後白河院は犯人である師経のみを備後へ配流すると裁定を下しますが、大衆は納得せず、神輿を担いで内裏へ押し寄せます。清盛の子重盛は兵を率いて警護にあたり、両者の間で衝突が起き、矢が神輿に命中して死傷者が出ました。後白河院は大衆の要求をのみ、師高の配流と師経の投獄、重盛の家人の拘禁を決定して大衆を引き下がらせます。
ところが例によって後白河院は前言を撤回し、明雲を「強訴を許可した」として検非違使に逮捕させて天台座主から解任し、所領を没収したうえ伊豆へ配流すると決定します。これに対して大衆は近江国粟津ないし国分寺で護送の行列を取り囲み、明雲の身柄を略取して比叡山へ匿いました。護衛の武士たちも相手が相手だけに抗うこともできず、激怒した後白河院は近衛大将の平重盛・宗盛に比叡山への攻撃を命じます。清盛は急ぎ上洛し、後白河院とその近臣に対するクーデターを開始しました。
まず「『平氏打倒の陰謀を巡らしていた』と密告があった」として西光を捕縛させ、拷問により「自供」させて殺害します。藤原成親は備前へ配流されたのち殺害され、尾張に配流されていた藤原師高も平家の家人に討たれ、関係者の一族郎党も配流や処刑されます。延暦寺は大喜びで清盛に感謝し、2年後には後白河院自身も幽閉され、明雲が天台座主に返り咲きます。
源氏挙兵
これに対して園城寺は後白河院・高倉院の身柄を抑えようと図り、興福寺および延暦寺の反平家派に呼びかけます。この計画は露見しますが、間もなく後白河院の子・以仁王は彼らと結託し、諸国の寺社と源氏に対して反平家の挙兵を呼びかけます。平家から追討軍が差し向けられると、以仁王は園城寺に逃げ込み、源頼政を味方につけて宇治平等院に立て籠もりました。これが打ち破られると興福寺へ逃げ込もうとしますが追いつかれ、頼政ともども討ち取られました。しかしこの乱は全国の反平家勢力の挙兵に繋がります。
平治の乱に敗れた源義朝(為義の子)の子らのうち、愛妾・常盤御前が生んだ七男の今若(義円)は真言宗の醍醐寺に、八男の乙若(全成)は園城寺に、九男の牛若(義経)は鞍馬寺に預けられていました。醍醐寺は山科盆地の南にあって園城寺とも縁が深く、鞍馬寺はこの頃には青蓮院門跡の下にあり、延暦寺の末寺とはいえ山門とは対立しています。義経はのち奥州藤原氏に身を寄せますが、3人は配流先の伊豆で挙兵した異母兄の頼朝のもとに馳せ参じ、ともに平家と戦っています。
対する平家は明雲のもと延暦寺をほぼ味方につけ、反乱に加担した園城寺や興福寺を焼き討ちしますが、間もなく清盛が仏の祟りか病没し、各地での戦いでも劣勢に追いやられます。寿永2年(1183年)に木曽義仲が平家を駆逐して上洛した後も明雲は天台座主として延暦寺にとどまったものの、義仲が後白河院を襲撃した法住寺合戦では武装して義仲と戦い、流れ矢に当たって討ち取られました。在任中の天台座主が武装して戦ったうえ討死したのは前代未聞で、弟子の慈円にも批判されています。
◆鎌◆
◆倉◆
【続く】
◆
いいなと思ったら応援しよう!
つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。