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【つの版】度量衡比較・貨幣239

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は近江国の続きです。

滋賀県

◆佐々◆

◆木◆


佐々木氏

 平安京に遷都した桓武天皇の玄孫に宇多天皇がおり、その子孫は源姓を賜って臣籍降下しました(宇多源氏)。その一派は近江国蒲生郡佐々木荘(現滋賀県近江八幡市安土町)に土着して佐々木氏を名乗り、様々な近江源氏の代表となりました。系譜によれば宇多天皇の第八皇子敦実親王の子を源雅信といい、左大臣に登り、藤原道長に娘の倫子を嫁がせました。その四男であった扶義の長男を成頼といい、彼の子の義経、ないし孫の経方が近江守に任じられ、佐々木荘下司(荘官)と佐々木宮神主に就いたといいます。

 この佐々木宮とは、古代の豪族沙沙貴山君ささきやまのきみの氏神である沙沙貴神社(現近江八幡市安土町常楽寺)のことです。この氏族は記紀に佐佐紀山君・狭狭城山君として見え、孝元天皇の皇子・大彦命の末裔とされます。

 記紀によると、雄略天皇は即位する前、従兄弟の市辺押磐皇子を近江国蒲生郡来田絮くたわた蚊屋野かやのに誘い出して狩猟を行いましたが、猪と間違えたふりをして射殺し、野に埋めてしまいました。皇位継承者を始末した彼は天皇に即位しますが、その子に跡継ぎがなかったので押磐皇子の子が皇位を継承します(顕宗天皇)。彼は老人を呼び集めて父の遺骸の場所を尋ね、狭狭城山君の倭帒やまとふくろ宿禰の妹で置目という老婆が「知っています」と申し出て、遺骸の場所を教えました。

 喜んだ天皇は彼女に褒美を与え宮中に住まわせましたが、倭帒の同族の韓帒からふくろが父殺しに加担していたと聞いて怒り、捕えさせました。しかし彼が命乞いして謝罪したので、死刑に処す代わりに氏姓と官籍を剥奪して庶民に落とし、押磐皇子の陵を管理する部民の陵戸みさざきのへにしたといいます。おそらく沙沙貴山君が本来みささきを管理する氏族だったことを物語る神話でしょう。

 後世の伝説では、神代に少彦名神がササゲ(大角豆)のさやを舟としてこの地に(琵琶湖から)漂着したことから地名がついたとしますが、『古事記』では羅摩カガミすなわちガガイモ、『日本書紀』では白蘞ヤマカガミの皮を舟としていたとあり、ササゲではありません。しかし『古事記』では鵝/ひむしの皮を、『日本書紀』では鷦鷯さざきの羽を衣としていたというのですから、これが訛って伝わったのでしょう。少彦名が漂着したのは出雲のはずですが、琵琶湖には古くから舟が往来していたのですし、オヒガンから神が漂着することもあるでしょう。

 サザキとは小鳥のミソサザイのこととも、細毛ささげの訛りで小鳥全般を指すともいい、雄略天皇の祖父仁徳天皇の諱をオオサザキ(大鷦鷯/大雀)、顕宗天皇の甥武烈天皇の諱をワカサザキ(稚鷦鷯/若雀)といいます。仁徳天皇は巨大なみささぎを建造したとされますから、「大陵」の意味の称号かも知れません。陵をミササギ(古くはミサザキ、または濁らずミササキ)と読むのは、敬意を示す接頭語のミ(御)を、おそらく墓所を指す語である「サザキ/ササキ」に冠したものです。

 古代には葬送儀礼にが関係しており、魂が鳥となって(鳥に乗って)オヒガンへ行くとも信じられていましたから、死者を葬る場所が隠語的にサザキ(小鳥)と呼ばれ、オヒガンから漂着した少彦名神がサザキの羽を衣としていたというのはもっともなことです。「捧げる(差し上げる)」が転じたとか「小さな丘(さき)」のことだとか諸説ありますが。

 さて律令制度が敷かれて近江国蒲生郡が成立すると、その中には篠笥ささき郷が置かれました。沙沙貴山君改め佐々貴氏は古来の豪族として勢力を保ち、蒲生郡の大領(郡司)や近江国追捕使に任命されています。『万葉集』によると孝謙女帝の内侍(女官)に佐々貴山君出身の者がおり、女帝が光明皇后とともに藤原仲麻呂の邸宅に招かれた際、彼女に庭の澤蘭さわあららぎを持たせて仲麻呂に贈らせ、歌を詠んだといいます。仲麻呂は前述のように孝謙女帝とは政治的に対立しており近江に拠点がありましたから、佐々貴山君の女官は女帝に対するスパイでしょうか。

 このようなところへ、平安時代に宇多源氏が入り込んだのです。佐々貴氏が大彦命の末裔といえど、摂関家と連なる元皇族の公卿の子孫と比べれば、現在の権威では見劣りします。当然ながら政略結婚が行われ、おそらくはより貴種である宇多源氏の方へ佐々貴氏の女性が嫁ぎ(平安時代ですから婿入り婚ですが)、両者は一体となって結びついたことでしょう。あるいは佐々貴氏が宇多源氏を称したともいいますが、都にほど近いのですし証拠は必要で、何らかの婚姻関係は結ばれたに違いありません。

 しかし両者の区別はあったらしく、当初実権を握っていたのは古来の佐々貴氏の方でした。後三条天皇の孫・源有仁が左大臣になった頃(1136年)、佐々貴守真は彼に仕えて佐々木荘の下司職を得ており、弟の行正は鳥羽院の側近藤原忠実に仕えています。

坂東挙兵

 対する宇多源氏の佐々木秀義(経方の孫)は河内源氏の棟梁である源為義に仕え、その娘を娶って猶子(養子扱い)とされました。秀義の母は奥州の豪族・安倍宗任の娘で、母方の伯母は奥州藤原氏第2代基衡に嫁いでおり、近江におりながら奥州と関係が深い人物です。しかし保元の乱(1156年)では為義につかず、その子で為義と対立していた義朝につきました。

 平治の乱(1159年)でも義朝につきますが敗北し、賊軍として所領を失った秀義は奥州藤原氏に身を寄せようと東国へ逃亡します。その途中で相模国の渋谷重国に引き止められて庇護を受け、その娘を娶って定住し、20年を過ごすこととなりました。秀義の妻の一人は下野国宇都宮氏の娘であったともいい、東国とも縁が深かったようです。誕生は天永3年(1112年)といいますから保元・平治の乱の時は40代半ばを過ぎていました。近江国佐々木荘は佐々貴氏が平家政権より改めて下司職を授かり、佐々木秀義が有していた預所職と領家職もともに保有することとなります。

 佐々木秀義には5人の主な子がおり、嫡男は定綱、次男は経高、三男は盛綱、四男は高綱といい、五男は渋谷重国の娘を母として武蔵で生まれた義清です。他に仏門に入った息子が2人いました。定綱は平治の乱の時は数え18歳の若武者でしたが、所領を失い居候の身で長年過ごすこととなり、一族は平家政権への恨みを募らせます。そこで義朝の子で伊豆に流されていた頼朝を主君として仰ぎ、来るべき時に備えていました。ただし渋谷重国は平家に恩義があり、彼の孫でもある義清は平家の家人である相模国の大庭景親の娘婿となり、頼朝とは距離を置いています。

 治承4年(1180年)8月、以仁王の乱を鎮圧した大庭景親は所領に戻ると佐々木秀義を自邸に招き、頼朝が平家に対して挙兵を目論んでいるから討伐すべしとの密命を伝えます。秀義は平家方の渋谷重国の世話になっているためこちらにつくだろうとの考えでしたが、驚愕した秀義は嫡男の定綱を頼朝のもとへ密かに派遣し、危急を知らせました。義清を除く他の兄弟も頼朝のもとへ馳せ参じ、ついに頼朝は挙兵します。最初の標的は伊豆目代の山木兼隆とその後見役の堤信遠で、佐々木兄弟の奮戦もあり見事に勝利しました。

 これに対し、大庭景親は渋谷重国・佐々木義清・熊谷直実ら3000余騎を率いて頼朝を討伐に向かいます。頼朝は敗れますが海を渡って安房国へ逃れ、房総半島の諸勢力を味方につけて反撃に出ました。佐々木兄弟は渋谷重国に匿われていましたが、これに応じて再び馳せ参じ、景親は逆に敵中に孤立します。10月に富士川の戦いで平家軍が敗走すると、景親は降伏しますが処刑され、同じく降伏した義清は兄盛綱に身柄を預けられました。佐々木兄弟はその後も頼朝の側近として戦い続け、木曽義仲や平家を討伐する大功を挙げており、秀義は近江国佐々木荘を安堵されて帰還することとなります。

山本義経

 この頃、近江では佐々木氏とは別系の近江源氏の一派が挙兵し、平家政権を脅かしています。その首領の名を義経といい、源氏ゆえ源義経となりますが、頼朝の弟の九郎判官義経と紛らわしいため、所領の名(名字)によって山本義経(山本兵衛尉)と呼ばれます。

 源頼朝の高祖父ないし曾祖父を八幡太郎義家といい、その弟を新羅三郎義光といいます。彼は前述のように近江国園城寺(三井寺)の守護神である新羅明神の神堂で元服したことからこの異名があり、嫡男義業は常陸佐竹氏、三男義清は甲斐武田氏ほか甲斐源氏、四男盛義は信濃平賀氏の祖となりました。この義光の子孫を「新羅源氏」と呼ぶこともあります。

 義業の子のうち義定は近江国浅井郡山本郷(現滋賀県長浜市湖北町山本)に所領を授かって山本氏の祖となり、義経はその子ないし孫にあたります。ここは琵琶湖北東部で、余呉川が琵琶湖に流れ込むあたりにあり、賤ヶ岳から湖沿いに南へ伸びる山がここで尽きます。山本氏はここに山本山城を築き、敦賀と近江を結ぶ道を抑えていました。山本義経は弓馬の道に優れた武将でしたが、先祖以来園城寺との縁が強いため延暦寺とは抗争関係にあり、安元2年(1176年)には延暦寺の僧侶を殺害した罪で佐渡へ流罪になっています。また弟の義兼は近江南部の甲賀郡柏木郷(現甲賀市水口町)に所領を持ち、のち出家して甲賀入道を名乗っています。ここは義光が新羅明神に寄進し、のち摂関家に寄進したもので、園城寺と深い関係があります。

 治承4年(1180年)に山本義経は罪を許され帰郷しますが、同年11月20日には諸国の源氏の挙兵に同調して、弟らとともに近江で挙兵しました。彼らは琵琶湖の南の要衝である勢多橋を制圧し、勢多・野路で平家の有力家人である藤原景家らを襲撃して殺し、水軍を率いて琵琶湖の水運を抑え、平家の財政基盤となる北陸道から京都に入る年貢の輸送を止めました。そして琵琶湖の南西岸に上陸して園城寺に入り、東から京都を脅かしたのです。

 伊豆や房総、甲斐などでの挙兵は都から遠く離れた出来事でしたが、都に隣接する近江での挙兵は、直接都を揺るがす大事件でした。平家はただちに平知盛を大将として近江へ追討軍を派遣し、勢多に放火して近江勢を駆逐しますが、美濃では美濃源氏がこれに呼応して挙兵し、関ヶ原を抜けて近江国東部の柏原に侵攻します。平家の追討軍はこれも追い散らしますが、山本義経はこの隙に園城寺から東へ進んで平家の本拠地六波羅を夜襲します。平家は必死で反撃して押し戻し、園城寺を攻め落とし、撤退して山本山城に籠った義経らを攻撃します。義経と義兼は辛くも逃げ延び、鎌倉の頼朝に身を寄せました。

 寿永2年(1183年)、山本義経は頼朝のもとを離れ、義兼とともに木曽義仲の軍勢に加わり、越前から近江に入ります。後白河院が比叡山から京都に戻る際には山本義経の子・錦部冠者義高が警護しました。義仲が上洛すると義経・義兼は京都の警護を命じられ、義経は伊賀守、ついで若狭守に任じられています。ところが義仲は後白河院と対立して幽閉し、翌寿永3年(1184年)頼朝が派遣した源範頼・義経に討伐されます。この時に錦部義高は逐電し、その兄弟の義広は戦死しましたが、山本義経と柏木義兼がこれ以後どうなったのかは定かでありません。

◆鎌◆

◆倉◆

【続く】

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