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【つの版】度量衡比較・貨幣217

 ドーモ、あけましておめでとうございます。三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は美濃の続きで、岐阜・西濃編です。

岐阜県

◆笠◆

◆松◆


岐阜西濃

岐阜県行政区分地図

 美濃国21郡のうち、本巣・席田・方県・厚見・各務・山県・羽栗・中島の8郡を岐阜地区、池田・大野・不破・石津・多芸・安八・海西の7郡を西濃と呼びます。各々現在の岐阜県各務原市・岐阜市・羽島郡・羽島市・瑞穂市・山県市・本巣郡・本巣市、安八郡・海津市・大垣市・養老郡・不破郡・揖斐郡に相当し、東は中濃、南は尾張国、南西は伊勢国、西は近江国、北は越前国と接しています。岐阜地区と西濃の境は根尾川と揖斐川、および長良川下流部です。面積は2つ合わせて美濃の3分の1程ですが、南側には肥沃な濃尾平野が広がり河川も多く、古代から美濃の中心地として栄えました。

 尾張と美濃の境の木曽川、その西の長良川および揖斐川を「木曽三川」と総称します。それぞれの源流は遠く隔たっていますが、濃尾平野の西部では並び流れ、尾張と伊勢の境を経て伊勢湾に注ぎます。しかし古くから下流部で合流と分流を繰り返し、頻繁に氾濫して流路を変えたため、徒歩や騎馬で渡ることは難しく、古代から東海道は伊勢と尾張の間を海路で結んでいました(桑名と熱田の間の「七里の渡し」など)。流域の村落は水没しないよう堤で囲まれた「輪中」となり、小舟で河川を往来していました。

 美濃を通る東山道は、国府のあった不破郡から北東の大野郡に向かい、揖斐川と根尾川の合流点付近を渡り、長良川の北の方県郡に達します。ここで北東の加茂・武儀両郡を経て飛騨川沿いに飛騨へ向かう道と、厚見・各務・土岐・恵那の各郡を経て信濃へ向かう本道に分かれました。稲葉山城/岐阜城はこの分岐点を抑える位置にあり、南北朝時代以後に美濃守護の居城がこの付近に置かれたのも、水陸の要衝を制することが目的です。

美濃郡代

 江戸幕府が成立すると、徳川家康は大久保長安を美濃国奉行に任じ、美濃の幕府領を管轄させました。木曽川と飛騨川から集まる木材を調達するのが主な役目で、江戸城・駿府城・名古屋城や寺社仏閣の部材の搬出に関する裁量権が与えられています。慶長18年(1613年)に長安が没し、その一派が粛清されると、勘定奉行直属の代官「美濃郡代」が派遣されました。

 これは美濃国内の幕府領18万石および伊勢国桑名郡の一部の幕府領を司る行政官で、席次は関東郡代に次ぎ、役高は400俵でした。陣屋は当初は可児郡姫村に置かれましたが、のち同郡徳野村に、ついで羽栗郡笠松(現岐阜県羽島郡笠松町)に移されています。ここは岐阜の南にあり、美濃と尾張の国境である木曽川に面し、交通の要衝を掌握して税収を確保でき、治水の役割もありました。なお羽栗郡は尾張国葉栗郡の一部でしたが、天正14年(1586年)の洪水で木曽川の流路が変わり分断されたため、天正17年(1589年)に豊臣秀吉が美濃国羽栗郡を新たに発足させています。

尾張藩領

 江戸時代の美濃は、総高65万石のうち幕府領が18万石、旗本領が75家11万石あり、残り36万石のうち12万石が尾張藩領でした。尾張藩は各地に代官を置いて統治させ、木曽川沿いに材木奉行所を設置し、木曽から熱田の貯木場まで木材を送らせました。代官所のうちで最大のものは天明2年(1782年)中山道の太田宿に置かれ、9つの宿場町と6郡130村5万6300石余の尾張藩領を統括しました。太田宿は中山道が木曽川を渡る難所のひとつで、現在の美濃加茂市太田町にあたります。

今尾陣屋

 揖斐川下流部東岸、西濃南部の安八郡今尾(現海津市平田町今尾)には、文明年間(1469-87年)に美濃斎藤氏の家来・中島氏が築いた今尾城がありました。中島氏が織田信長に滅ぼされたのちは高木氏・森寺氏・戸倉氏と城主が替わり、天正17年(1589年)市橋長勝が1万石で城主となりました。長勝は関ヶ原の戦いで東軍に与して1万石を加増され、慶長13年(1608年)伯耆国矢橋へ転封されます。今尾城はこの時に廃城となりました。

 代わって今尾に封じられたのは竹腰たけのこし正信です。竹腰氏は佐々木源氏の末裔といい、美濃斎藤氏の重臣でしたが、正信の生母であるは徳川家康の側室となり、のちに尾張藩主となる義直を産みました。このため義直が尾張に封じられると家老(のち執政)に任じられ、甲斐の所領5000石に加えて尾張今尾5000石を授かりました。彼は今尾城址を改築して陣屋とし、元和5年(1619年)加増を受けて3万石となり、以後10代250余年に渡り領主家として存続しています。1万石以上なので大名に相当しますが、あくまで尾張藩の家老であり、幕府の直臣ではありません。

高須藩主

 今尾の南、石津郡高須(現海津市海津町高須)には高須城がありました。ここは豊臣秀吉より高木盛兼が1万石で城主に任じられていましたが、関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易され、この城を謀略で落とした徳永寿昌が代わって城主となり、美濃・尾張の各地を合わせて5万石余を賜りました。子の昌重が跡を継ぎ5万3700石まで加増されますが、寛永5年(1628年)に大坂城石垣普請助役の任務遅滞を理由に改易・除封されます。

 以後12年間は笠松の美濃郡代が旧高須藩領を治めましたが、寛永17年(1640年)10歳の小笠原貞信が2万2000石で入り、50年の長きにわたり統治しました。彼は旗本交替寄合美濃衆の高木氏の生まれで、母方の実家である下総古河(関宿)藩主小笠原氏の後を継いだのですが、幼少ゆえ任地を守れぬとして父方の所領のある石津郡内の高須に転封されたのです。彼の時代には天下泰平が続き領内の整備が進んだものの、元禄4年(1691年)越前勝山に転封され、高須城は破却されて藩領は再び美濃郡代に没収されます。

 元禄13年(1700年)3月、尾張藩の御連枝である信州高井藩主の松平義行(義直の孫)は、所領3万石のうち半分(高井郡・水内郡1万5000石)を美濃国石津郡・海西郡内と交換されます。信州には伊那郡1万5000石の所領が残りましたが、本藩に近い高須に陣屋を移されて高須藩主となりました。義行には男子がなく、甥で尾張藩主の庶子の義孝が跡を継いでおり、彼にも跡継ぎがなかったため叔父(義行の異母弟)の義淳が跡を継いでいます。

 この義淳は本家の尾張藩主・徳川宗春が将軍吉宗に隠居させられた後、吉宗から再び所領を賜る形で尾張藩主を継ぎ、吉宗より偏諱を授かって宗勝と改名しています。子の義敏が高須藩主を継ぎますが、彼の時代には洪水が相次ぎ、幕府の許可を得て揖斐川の西の駒野に陣屋を移転しています。義敏の子の義柄は宗勝の子・宗睦の養嗣子となり、将軍家治の偏諱を受けて徳川治行と改名しますが、後を継ぐ前に没しました。その子・義裕は陣屋を駒野から高須に戻し、宗勝の子の勝当を末期養子としています。

 しかし勝当はすでに60歳で、後を継いで5年後に没し、養嗣子の義居(一橋治済の子)が跡を継ぎますが3年で没し、水戸藩主・徳川治保の子の保友(義和)が末期養子となります。義和の子で第10代藩主の義建には多くの子があり、次男の慶勝は尾張藩主、三男の武成は石見浜田藩主、五男の義比は第11代高須藩主を継いだのち尾張藩主を経て一橋家当主となっています。また七男の容保は会津藩主、九男の定敬は桑名藩主、十男の義勇は第13代高須藩主となりました。いずれも幕末に活躍しており、容保の子孫の恒孝は昭和38年(1963年)に徳川宗家を継承しました。血縁上は水戸徳川家の子孫ではありますが、義建以後の高須藩主の家系は意外に繁栄したのです。

大垣城主

牛屋城

 西濃の中心地である大垣城の原型は、明応9年(1500年)竹越尚綱によって揖斐川(牛屋川)東岸に築かれた牛屋城です。天文4年(1535年)宮川安定が大尻に築いたともされますが、これは牛屋川を外堀とし、本丸と二ノ丸のみを備えたものでした。「大垣」の地名は鎌倉時代から「大柿」として見え、村落の周囲に大きな垣根を築いたことによるものといいます。天文13年(1544年)この城は織田信秀に攻め落とされますが、5年後に斎藤道三が奪還し、竹越尚光を城主としました。

氏家三代・池田二代

 永禄2年(1559年)、一色義龍の家来・氏家直元(卜全)が城主となり、城の大規模な拡張を行いました。彼は義龍の子・龍興と対立し、永禄10年(1567年)織田信長に寝返ります。元亀2年(1571年)に卜全が討死すると子の直昌が跡を継ぎ、天正11年(1583年)直昌が没すると弟の行広が跡を継ぎます。同年行広は秀吉により近くの三塚城(大垣市三塚町)に転封され、織田家の重臣・池田恒興が大垣城主となって15万石を授かります。しかし恒興は翌年小牧・長久手の戦いで戦死し、子の照政(輝政)が継ぎますが、天正13年(1585年)岐阜城に拠点を移しました。

加藤光泰

 代わって大垣城主となったのは、秀吉の家来で美濃出身の加藤光泰です。彼は4万石を賜り、蔵入地(秀吉直轄領)2万石の管理も任されましたが、これを自身の給人地としたため同年9月に領地を召し上げられ、大和国郡山城主の羽柴(豊臣)秀長のもとに預けられて蟄居させられています。

一柳直末

 代わって大垣城主となったのは一柳直末です。彼は美濃国厚見郡西野村(現岐阜市西野町)の生まれで伊予河野氏の末裔と称し、元亀元年(1570年)より秀吉に仕えて数々の武功をあげました。天正13年に羽柴秀次が近江八幡山城主20万石に封じられると、直末は彼を輔佐する年寄(宿老/家老)の一人に任じられ、大垣城主として2万5000石を授かったのです。しかし同年11月の大地震で大垣城は倒壊・炎上し、直末は再建を行いますが天正17年(1589年)には本巣郡の軽海西城に移されて5万石(6万石)を授かり、翌年小田原征伐に先鋒として参加した際、銃弾に当たり戦死しました。

豊臣秀勝

 代わって大垣城主となったのは、秀次の弟である秀勝(小吉)です。彼は丹波亀山10万石の領主でしたが、天正17年に没収され、敦賀5万石、次いで大垣4万石に減転封されました。小田原征伐後は許されて甲府23万石に転封されますが、翌年には美濃岐阜城13万石に移されています。

伊藤盛景・盛正

 代わって大垣城主となったのは、美濃舟岡城主で小田原征伐で功績をあげた伊藤盛景(祐盛)です。彼は3万石(のち加増され3万4000石)を賜って大垣城を再建し、慶長元年(1596年)には三層の天守閣を築いたとされ、慶長4年(1599年)隠居して子の盛正に家督を譲り、ほどなく没しました。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際して盛正は西軍に与し、石田三成の要請を受けて大垣城を明け渡し、今村城に退去しています。のち市橋長勝と小早川秀秋に相次いで敗れ、本戦にも参加しますが戦後に改易され、福島正則に身を寄せます。元和6年(1620年)には加賀に移住して妻の実家である前田家に仕え、伊藤図書頭利吉と改名、2000石を賜りましたが3年後に没しました。子孫は引き続き前田家に仕えています。

大垣藩主

 代わって大垣城主となったのは石川康通です。彼は譜代の重臣・石川家成の子で、石川数正の従兄弟にあたり、家成の母は家康の母・於大の方の姉であることから家康との血縁関係もあります。康通は5万石を賜り、西国に備えて大垣城を改築しますが、慶長12年(1607年)没します。子の忠義は幼少のため、隠居していた家成が家督に復帰しますが2年後に没しました。

 石川忠義は未だ幼少で城主とするには危ういため、家康は28歳の石川忠総に後を継がせます。彼は譜代の重臣・大久保忠隣の次男ですが、母が家成の娘であるため、慶長5年に外祖父の養子となっていました。慶長18年(1613年)には大垣城に総堀を加えています。慶長19年(1614年)実父の忠隣が改易されると、連座して蟄居を命じられますが、すぐに赦免されて大坂の陣で活躍し、元和2年(1616年)には豊後日田6万石へ国替えされています。

 次いで大垣城主となったのは、家康の異父弟の子で久松松平家の忠良です。寛永元年(1624年)に彼が没すると、嫡男の憲良が5歳で跡を継ぎますが、幼少のため信州小諸へ国替えされました。続いて歴戦の武将である岡部長盛が大垣城主とされ、寛永9年(1632年)に彼が没すると子の宣勝が跡を継ぎますが、播州龍野へ国替えされます。代わって松平忠良の従兄弟にあたる定綱が大垣藩主となりますが2年で伊勢桑名へ国替えされます。

 寛永12年(1635年)、戸田氏鉄が大垣城主となり、以後11代235年にわたって戸田氏が大垣城主(藩主)をつとめました。戸田氏は室町時代後期に三河国渥美郡に勢力を広げましたが、氏鉄の父・一西は家康が三河を統一した際に家来となり、氏鉄も早くから家康の近習として仕えています。慶長8年(1603年)父の後を継いで近江膳所藩主となり、元和元年(1615年)摂津尼崎へ国替えされ、その20年後に大垣藩主となりました。石高は10万石で、尾張藩領12万石を除けば美濃国内では最大の大名です。

 天正4年(1576年)生まれのためすでに還暦近い年齢でしたが、寛永14年(1637年)の島原の乱では副将として功績を挙げ、藩政においては新田開発や治水・治山工事を行い、地方知行制を廃止し俸禄制度に改めて家臣団を再編し、修養を説いた儒学書『八道集』を著すなど教育にも力を注ぎました。また大垣城を整備改修し、本丸と二ノ丸を並べて三ノ丸で囲ったうえ惣構で囲い、天守は4重4階とし、複数の櫓と大小7つの門を設置しています。この城郭の中を東海道の宮宿/熱田と中山道/東山道の垂井宿を繋ぐ「美濃路」が通っており、大垣の城下町は宿場町として栄えました。

 慶安4年(1651年)15年大垣藩を治めた氏鉄が隠居し、子の氏信が家督を継いで20年間善政を敷きました。しかし氏信の子・氏西が家督を継ぐ頃には財政がかなり逼迫しており、不破郡の検地や藩札の発行、藩士の人員・給与削減などを行い経費節減につとめました。この藩政改革はあまり成功しておらず、以後も大垣藩は苦しい財政事情が続きます。

 第8代の氏教は老中・松平武元(水戸徳川家出身)の子で、戸田氏に婿養子に入りました。彼は18世紀末の寛政の改革の時代に老中となって幕政に携わり、老中首座まで昇って財政改革などを行いました。大垣藩政も改革して善政を敷いており、中興の名君と称えられています。

◆大◆

◆垣◆

【続く】

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