【つの版】度量衡比較・貨幣218
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は美濃の北、飛騨国です。

◆両面◆
◆宿儺◆
飛騨概略

飛騨国は東山道に属し、現在の岐阜県のうち北部の高山市・飛騨市・下呂市の大部分と大野郡白川村にあたります。東は飛騨山脈を隔てて信濃、南は美濃、西は加賀、北は越中に接し、面積では美濃の半分、岐阜県の1/3ほどを占めますが、大部分は雪深い山林地帯で、人口は多くありません。
飛騨と美濃・尾張を結ぶのが、木曽川最大の支流である飛騨川です。木曽川への合流点から遡っていくと、山々の間を曲がりくねりながら激しく流れており、舟や筏で往来することは下流まで行かねば難しく、川沿いの平地や支流の合流点などに点々と集落があります。温泉のある下呂を越えてさらに遡ると、牛臥山の南で無数河川、東で八尺川と合流し、源流部である東の乗鞍岳に達します。この八尺川を遡り、北西の宮峠(海抜782m)を越えれば飛騨一宮水無神社があり、近くに宮川が流れています。
この宮川は北に流れ、海抜560-600mほどに広がる高山盆地に達します。宮川はここで多くの河川を集めてさらに北上し、古川国府盆地を通り、山々の間を抜けて越中富山平野に到達し、神通川と名を変えて、富山湾で日本海に注ぎます。このため飛騨北部は美濃よりも越中との関係が深いのです。
神通川の西には、飛騨西部を北流して富山湾に注ぐ庄川(雄神川)が流れています。有名な白川郷はこの流域にあり、飛騨川・神通川流域とは山々によって隔てられているため、やはり越中との関係が強い地域です。
古代飛騨
飛騨国は、古くは斐太・斐陀などと表記され、飛騨(飛騨)と表記されるようになったのは奈良時代の和銅年間以後と考えられています。騨(騨)は野生の馬や葦毛の馬を意味する文字で、『続日本紀』によれば文武天皇の大宝2年(702年)4月に神馬を献じたといい、『万葉集』には「斐太の大黒」と歌われました。「ひだ」の地名の由来は判然としませんが、山や谷が多く衣の襞のようだから、とする説があります。
飛騨地方で最初に繁栄したのは、高山盆地の北の古川国府盆地です。縄文時代の遺跡が多数確認されており、飛騨最古の水田遺跡があり、飛騨で確認されている古墳の85%以上がこの地に造られました。また飛鳥時代から奈良時代にかけて築造された15の寺院のうち12がこの盆地に存在します。令制国の飛騨国府は高山盆地に置かれたようですが、令制国が置かれる前の斐太国造はここにいた可能性が高いでしょう。
『日本書紀』仁徳天皇65年条によると、飛騨国には「宿儺」という人が住んでいました。彼は一つの体に二つの顔(両面)を持ち、顔は互いに別々の方向を向いていました。頭頂部は合わさっていてうなじがなく、手足は合わせて四つあり、脚には膝がありましたが、ひかがみ(膝の裏のくぼみ)とかかとがないという異形でした。力は強く敏捷で、腰の左右に二振りの剣を佩き、四本の手で二つの弓矢を同時に扱うことができたといいます。
かように宿儺は武勇に優れていたので、天皇の命令に従おうとせず、人民から掠奪することを愉しみとしていました。そこで天皇は和珥臣の祖である難波根子武振熊を遣わして宿儺を誅殺したといいます。仁徳天皇65年というと、おおよそ西暦紀元5世紀前半と推定されますが、果たしてこんな化け物が飛騨に実在したのでしょうか。おそらくは飛騨国自体が分水嶺を境として南と北に面していたため、そこを抑えていた土豪たちを土蜘蛛めいた怪物とみなしたのでしょう。後世には飛騨土着の英雄とみなされ、観音菩薩の化身として崇められています。
令制国としての飛騨には、中南部に国府のある大野郡6郷、北部に荒城郡(のち吉城郡と改名)7郷が置かれました。平安時代の貞観12年(870年)大野郡南部の2郷を分けて益田郡とされますが、3郡合計しても13郷に過ぎず、1郷1000人としても総人口は1万3000人ほどです。大宝律令では税である租庸調のうち庸(労役)と調(布帛)を免除される代わり、50戸(郷)ごとに匠丁(木工)10人が徴発され、宮殿や官衙の造営と修理に従事しました。これを「飛騨の工」といいます。山林ばかりの飛騨国では木材加工技術が高度に発達しており、都ではその技術が讃えられたといいます。
『今昔物語集』によると、平安時代初期に「飛騨の工」という人がおり、絵画の技に優れた中級貴族の百済河成(782-853年)と技術を競いました。ある時、飛騨の工は河成に「自宅に一間四面の堂を建てたので、壁に絵を描いてほしい」と呼び出しましたが、河成が堂に入ろうとすると開いていた扉が自動的に閉じ、別の面の扉が開きます。河成がそちらから入ろうとすると、扉は閉じて別の面の扉が開き、どうにも入ることができませんでした。悔しがった河成が数日後に工を自宅に招くと、工は部屋の中に腐乱死体が横たわっているのを見て仰天しますが、実は河成が描いた絵であったといいます。
中世飛騨
飛騨は人口が少なく農業生産力に乏しく、租税もほぼ免じられていたため令制国のうちでは「下国」とされ、流刑地としても扱われました。平安時代には公領の荘園化が進み、建久4年(1193年)には雅楽家の多好方が源頼朝より荒城郡荒城郷の地頭職を授かっていますが、鎌倉時代の飛騨についてはよくわかっていません。
南北朝時代の延文4年(南朝の正平14年、西暦1359年)には佐々木源氏の京極高氏(道誉)が飛騨守護職に任じられ、以後は代々京極氏が飛騨守護を世襲しました。しかし京極氏の本拠地は近江にあり、京都の足利将軍家を輔佐せねばならず、出雲・隠岐などの守護職も兼任していたため、飛騨には守護代や郡代が派遣されていました。
これとは別に、藤原北家小一条流庶流の姉小路家綱が飛騨国司に任じられています。任命の時期は明らかでなく、父氏綱が建武の新政の時に任じられていたとも、朝廷(北朝)に出仕しないことを理由に左中将を解任された貞治2年(1363年以降)ともされ、応安4年/建徳2年(1371年)には北朝方の斯波義高と「飛騨国司」が越中国新川郡で戦闘しています。
明徳元年(1390年)の家綱の没後、姉小路家は家綱の子の師言、家綱の弟頼時の子尹綱、庶流の家煕に分かれ、各々が飛騨国司を称しました。嫡流である師言は古川国府盆地の小島城(現飛騨市古川町)、尹綱はその南で宮川を挟んだ古川城、家煕は古川城北西の向小島城およびその西の小鷹利城に割拠し、それぞれ小島氏、古川氏、向氏(小鷹利氏)と呼ばれます。明徳の和約(1392年)で南北朝が合一すると、彼らは飛騨国司に任じられなくなりますが、伊勢国司の北畠家と同じく「飛騨国司」の通称を続けています。
向家煕は足利義満から右衛門佐に任官されて在国外様衆となりますが、古川尹綱は室町幕府管領で越前守護の斯波義将の後ろ盾を得て、飛騨の山科家領を横領していました。山科家は使者を派遣して抗議しますが止められず、将軍義持にもどうにもできませんでした。しかし応永17年(1410年)義将が没すると、義持は斯波氏の勢力を削ぐため小島師言と向家煕を支援して尹綱に圧力をかけます。応永18年(1411年)尹綱は挙兵して小島城と向小島城を攻撃し、義持は飛騨守護の京極高光に尹綱討伐を命じました。
高光は病床の身であったため、弟の高数が総大将として領国の軍勢を率いて討伐に向かいます。また越前からは斯波氏の被官である甲斐氏と朝倉氏、信濃からは守護の小笠原持長が幕命を受けて出陣し、総勢5000に達します。対する尹綱は南の広瀬城主・広瀬常登の協力を得ていましたが、総勢で500にしかならず、幕府軍に敗れてともに討死しました。
尹綱の子・昌家(尹家)は義将の子・義重(義教)の庇護を受け、応永24年(1417年)上京して従五位上に叙されています。同年には小島師言が従三位・参議に叙任されて公卿に列しており、尹家は家綱の娘(師言の妹)を妻に迎えてその養子になったともされます。師言の子は将軍義持の偏諱を賜って持言と名乗り、子は将軍義勝の偏諱を賜って勝言と名乗っています。尹家は宝徳3年(1451年)に従三位、康正元年(1455年)正三位・参議に叙任され、同年に出家して子の基綱が跡を継ぎました。彼らはいずれも在京し、飛騨の所領は守護職京極氏、守護代多賀氏の庇護下に置かれています。
飛騨戦乱
飛騨の乱の後、京極高数は被官の三木正頼を飛騨国益田郡竹原郷(現岐阜県下呂市竹原村)の代官に任じます。正頼の子・久頼は京極家中で勢力を伸ばし、益田郡全域を差配するようになりました。応仁の乱が勃発すると京極氏は東軍につきますが、文明2年(1470年)に京極持清(高光の子)が没すると、跡目相続を巡って御家騒動が始まります。
持清の嫡男・勝秀は2年前に病死しており、勝秀の嫡男に孫童子丸、庶子には乙童子丸がいましたが、持清は乙童子丸の方を溺愛していました。さらに前者には持清の三男・政経と近江守護代の多賀高忠が、後者には持清の次男・政光と飛騨守護代の多賀清直が味方したため、家中が両派に分裂しました。嫡男である孫童子丸の方が有利には違いなく、ひとまず彼が家督を相続しますが、乙童子丸派は同年9月に西軍へ寝返り、六角高頼と和睦します。さらに翌文明3年(1471年)には孫童子丸が夭折し、政経は自ら京極家の家督相続を主張して乙童子丸派と争うこととなります。
飛騨守護代が西軍についた以上、飛騨の京極家中は西軍になります。この頃に小島勝言・古川基綱は京都から飛騨の所領に帰還し、向之綱とともに東軍(幕府)側についていたため、山科家の代官として多賀清直から所領を奪還せよと幕府に命じられます。文明3年9月、姉小路三家連合軍は京極軍を率いる三木久頼と戦い、これを討ち取りました。事態を重く見た乙童子丸派は西軍の土岐氏美濃守護代斎藤妙椿に援軍を依頼し、益田郡を確保します。
乙童子丸派は文明4年(1472年)9月に政経・高忠らを撃破して越前へ追いやると、乙童子丸に家督を相続させました。同年に政光が没すると清直・宗直父子が乙童子丸を輔佐して北近江を支配しますが、両派の争いは幕府も巻き込んで全国各地に波及し、最終的に乙童子丸改め京極高清が騒乱を終結させるまで34年もの長きにわたりました。この間に京極氏は出雲・隠岐を尼子氏に、飛騨を三木氏・姉小路氏に奪われ、残る北近江も浅井氏に事実上奪われてしまうことになります。
三木久頼の戦死後、後を継いだ重頼は小島勝言と手を結び、多賀清直の支援を受けて基綱と之綱を飛騨から追放します。これで大野郡は勝言が、益田郡は重頼が抑えますが、荒城郡には幕府より江馬氏が派遣されて国人となり割拠します。文明9年(1477年)西軍が消滅すると基綱は勝言と和睦し、上京して従三位・参議に叙任されます。文明13年(1481年)に勝言が急死して時秀が跡を継ぐと、基綱は時秀に自分の娘を娶らせて後見人となり、小島領を事実上支配下におさめました。これに対し幕府は遠山氏などを飛騨北部に派遣して牽制させ、飛騨には諸勢力が割拠する状況が続きます。
◆呪術◆
◆廻戦◆
【続く】
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