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【つの版】度量衡比較・貨幣219

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は飛騨の続きです。

岐阜県

◆君の◆

◆名は。◆


姉小路家

 応仁の乱の後、飛騨南部の益田郡は飛騨守護職京極氏被官の三木重頼が抑えましたが、大野郡は「飛騨国司」を称する姉小路家古川基綱が掌握し、北部の荒城郡には江馬氏(江間氏)が割拠していました。江馬氏は北条時政の養子の子孫を称し、室町幕府政所執事・伊勢貞宗の庶子が養子に入っています。家格や官位では公卿(従三位以上)の基綱が一番上で、京では歌人として活躍し、天皇や将軍とも交友があったといいます。幕府は彼を牽制するため飛騨に武家を送り込みますが、飛騨守護職である京極氏は跡目相続争いで混乱・衰退しており、京に在住し権威ある姉小路家/古川氏の下風に立たざるを得ませんでした。

 明応8年(1499年)末、基綱は飛騨が飢饉であると聞き、天皇に奏上したのち飛騨に下向します。文亀4年(1504年)に従二位・権中納言に昇進しますが、同年4月に64歳で薨去しました。子の済継は京にとどまり、正三位・参議に叙任されて公卿に列し、官職を辞して出家したのち永正14年(1517年)飛騨に下向しますが、翌年48歳で急逝します。子の済俊が13歳で跡を継ぎますが官位は正五位下・美濃権介までにしか昇らず、大永7年(1527年)22歳の若さで逝去します。その弟で公卿・田向家の養子となっていた重継が13歳で跡を継ぎ、姉小路高綱と改名したとされますが、この頃には三木重頼の子直頼が美濃土岐氏の支援を受けて高山盆地の三仏寺城まで進出し、北の江馬氏、東の木曽氏と争うまでになっていました。

 三代にわたる姉小路家当主の死の裏には、被官の古川富氏の暗躍があったとも言われます。彼は幼い主君を傀儡として反対派を粛清しますが、古川基綱の娘婿で姉小路家宗主の小島時秀は三木直頼と手を組み、享禄4年(1531年)に古川城を攻撃します。敗れた富氏は討死し、直頼は時秀を支援して古川国府盆地を制圧しました。

 天文23年(1554年)6月、三木直頼は58歳で逝去し、子の良頼が35歳で跡を継ぎました。近年発見された永禄6年(1563年)の『補略』によると、9月には小島時秀の子・時親が従四位下・左中将、時親の子雅秀が正五位下・左少将、雅秀の弟・時光が従五位下・侍従に、古川済俊の養子・済堯が同じく従五位下・侍従、向貞煕が正五位下・左少将に叙任されていますが、姉小路高綱の名はありません。閏10月には姉小路家の間で争いが勃発し、良頼はこれに介入して、弘治2年(1556年)3月に高綱を屈服させました。

 良頼は近江国朽木に動座していた将軍・足利義輝や関白・近衛前嗣に働きかけ、弘治4年/永禄元年(1558年)には朝廷から従五位下に叙任され、屋号として「飛騨国司」を称することが認められ、19歳の嫡男光頼(母は姉小路家向氏の娘、妻は斎藤道三の娘)が飛騨介(副国司)に任官されます。翌永禄2年(1559年)10月には光頼改め自綱が姉小路家の一族と認定され、永禄3年(1560年)に良頼は従四位下・飛騨守(国司)、自綱は従五位下・左衛門佐に叙任されたうえ、済俊の子・秀綱の養嗣子として正式に姉小路家古川氏の名跡継承を認められます。

 下剋上ではありますが飛騨国司姉小路家を倒したのではなく、三木氏から姉小路家の一員となったのです。この頃義輝は京都に戻ったばかりで権力基盤が弱く、前嗣は長尾景虎を頼って越後府中におり、これは景虎の支援もあったと思われます。なお本拠地は三木氏の時から変わらず、益田郡下呂郷の桜洞城に置かれていました。

 三木改め姉小路良頼は、さらに朝廷への工作を続け、永禄5年(1562年)2月には従三位に叙せられ公卿に列し、近衛前嗣から偏諱を受けて「嗣頼」と改名しました(自綱は頼綱、前嗣は前久と改名)。嗣頼はかつての古川基綱を追い越そうと中納言の位を求めますが、相次ぐ越階により天皇から拒否され、永禄6年(1563年)参議に任官されたものの同年に解任されています。同年頼綱は侍従に任官され、嗣頼は中納言を自称しました。

飛騨統一

 この頃、甲斐の武田信玄は信濃に進出し、北信濃の川中島四郡や越中国を巡って越後の長尾景虎(この頃に上杉政虎/輝虎と改名)と争っていました。姉小路嗣頼は先の恩義もあって上杉氏に味方し、荒城郡の国人江馬輝盛も上杉方につきますが、輝盛の父ともいう時盛は永禄7年(1564年)弟の直盛とともに武田氏に味方し、信玄は飛騨・越中に出兵して時盛を支援します。

 武田方の山県昌景・木曽義昌の侵攻を受け、嗣頼は輝盛とともに降伏し、時盛に領土の一部を割譲するよう命じられます。同年に上杉輝虎が川中島へ侵攻すると武田軍は飛騨から撤退しますが、時盛・輝盛らは武田方について姉小路家に対抗し、武田氏の越中侵攻に味方して手柄をあげています。越中を巡る武田と上杉の争いは一進一退でしたが、やがて両者は和睦し、信玄は駿河へ、謙信は越中への進出を強めました。

 永禄11年(1568年)、織田信長は足利義輝の弟義昭を奉じ、美濃から近江を経て上洛します。姉小路頼嗣は上杉謙信と通じつつ信長と手を結び、信長と同じく斎藤道三の娘を娶っていた嫡男頼綱を名代として、永禄13年(1570年)に上洛させました。元亀3年(1572年)11月に頼嗣が薨去すると、33歳の頼綱が家督を継承します。駿河を制した信玄は遠江・三河・美濃にも侵攻し、飛騨をも脅かしていましたが、翌元亀4年(1573年)に没しました。

 これにより武田氏は飛騨・越中への影響力を失い、謙信は信長に追放された足利義昭の呼びかけに応じて信長包囲網に参戦、天正4年(1576年)には越中・飛騨・能登を制圧、加賀にまで侵攻して織田軍を打ち破ります。ところが天正6年(1578年)3月に謙信が急死し、頼綱は信長との同盟を強化して越中侵攻などに加勢することとなりました。江馬輝盛は変わらず上杉氏につき、武田氏につこうとした時盛を殺害しています。

 翌天正7年(1579年)、頼綱は居城を益田郡の桜洞城から北に移し、大野郡の松倉城に遷りました。ここは高山盆地の南西に位置し、古川国府盆地に近くなります。桜洞城には嫡男の信綱を、東の鍋山城には弟の顕綱を置き、美濃北部の郡上八幡城に割拠する国人の遠藤慶隆には一人娘を嫁がせて同盟しており、支配体制を固めた頼綱は親上杉派を粛清しつつ越中の織田軍と結び、飛騨統一を進めていきます。

 天正10年(1582年)2月に開始された織田軍の甲州征伐に際し、信長の家臣・金森長近は飛騨から武田領への侵攻を命じられました。頼綱はこの時に長近への援軍を派遣しています。越中も織田軍にほぼ平定され、武田が滅ぼされたことで、飛騨はほぼ織田方につきました。ところが同年6月に本能寺の変が勃発し、飛騨ではこれに乗じて江馬輝盛が再び挙兵します。

 天正10年10月、輝盛は大野郡に侵攻し、古川・小島領に攻め寄せました。頼綱は反撃を行って輝盛を討ち取り、荒城郡を制圧します。ここに飛騨一国は西の白川郷を除いて姉小路氏により統一されました。

 白川郷は、応仁の乱の少し前に室町幕府から派遣された内ヶ島氏が治めていました。飛騨一向一揆を率いる照蓮寺を支配下に置き、鉱山経営で財を築き、帰雲城を拠点として小規模ながら自立しており、のち織田信長に帰順して越中にも出兵しています。

飛騨征伐

 この頃織田家は清洲会議により尾張を信雄、美濃を信孝が相続していましたが、信雄は秀吉と結んで信孝を圧迫し、信孝は柴田勝家ら北陸の織田勢と結んで対抗していました。越中を治める佐々成政は能登の前田利家、加賀の佐久間盛政ともども勝家の与力(軍事作戦時に指示を受ける立場)であったため、織田軍の越中制圧作戦に従っていた姉小路氏や内ヶ島氏は成政に、ひいては勝家・信孝に味方することとなります。天正11年(1583年)正月、桜洞城主の姉小路信綱は、叔父の顕綱とともに秀吉方に内通した嫌疑をかけられ、頼綱により誅殺されます。頼綱は次男の秀綱に家督を譲り、三男の季綱を鍋山城に遣わし、桜洞城は冬の拠点として残しました。

 同年3月に柴田勝家は利家・盛政らを率い越前から近江に侵攻しますが、成政は越中奪還を狙う上杉景勝への備えのため動けず、叔父が率いる兵600しか派遣していません。翌月には利家の寝返りで勝家は敗走、越前へ撤退した末に自害に追い込まれます。成政は剃髪して秀吉に降り、越中一国を安堵されますが、天正12年(1584年)に織田信雄が徳川家康と結んで秀吉討伐を呼びかけると、これに応じて挙兵しました。

 ところが成政は西の前田利家、東の上杉景勝に挟撃されて苦戦し、飛騨を経由して家康に支援を要請しますがうまくいかず、天正13年(1585年)8月に秀吉軍の侵攻を受けます。この時、成政の同盟者である姉小路氏と内ヶ島氏も追討の対象となり、美濃と越中の南北両面から金森長近・可重父子率いる討伐軍に攻め込まれました。

 この戦いで内ヶ島氏も成政も降伏し、姉小路氏は抵抗しますが多大な被害を出し、秀綱も落ち武者狩りに遭って死んだため、隠居していた頼綱はやむなく降伏します。彼は信長の親族かつ朝廷の公卿ゆえ助命されて京都へ送られ、剃髪出家して休安と号したのち、2年後に48歳で没しました。一族や子孫は生き残ったものの、ここに戦国大名・姉小路氏は滅亡したのです。

 内ヶ島氏は所領を安堵され存続しますが、同年11月末(西暦1586年1月)に発生した天正地震により、居城の帰雲城に祝宴のために集まっていた一族郎党が山崩れに巻き込まれて全滅しました。さらに土石流が庄川を堰き止めて洪水が起こり、300軒あった城下町の住民も全滅し、どこに城や城下町があったのかもわからなくなったといいます。

 秀吉は飛騨一国3万8000石を長近に与え、以後6代100年余にわたって金森氏が飛騨の国主となります。彼は鍋山城に入りましたが、天正16年(1588年)から15年の歳月をかけて高山城を建設し、城下町を整備しました。このため彼とその子孫の領国・政権を、後世には飛騨高山藩と呼びます。

◆白◆

◆川◆

【続く】

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