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【つの版】度量衡比較・貨幣220

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は飛騨の続きです。

岐阜県

◆前前◆

◆前世◆


金森長近

 天正13年(1585年)飛騨を平定した秀吉は、飛騨一国3万8000石を金森長近に与え、以後6代100年余にわたり金森氏が飛騨の国主となります。

 金森氏は美濃守護である土岐氏の傍流です。土岐成頼の次男定頼は美濃国山県郡大桑城に入り、のち子の定雄に譲って土岐郡大畑に移りましたが、定雄の弟の定近は近江国野洲郡金森村(現滋賀県守山市金森)に移住し、子の長近(幼名は五郎八、もとの名は可近)を儲けたのです。ここは近江南部の一向一揆の拠点として栄えた寺内町でした。

 天文10年(1541年)、18歳の可近は金森を離れて尾張に赴き、織田信秀に仕えました。信秀没後は10歳年下の信長に仕え、美濃攻略に功績をあげて関吉田に3000石を賜り、長篠の戦いで活躍し、信長から偏諱を賜って近と改名しています。続いて奥美濃から越前攻めに遣わされて功績をあげ、越前大野郡を授かり、柴田勝家の与力として北陸平定に活躍、甲州征伐では前述のように飛騨から信濃へ侵攻しました。子の長則は織田信忠の近侍として召し出されていましたが、本能寺の変の時に討死しています。

 同年に正四位下兵部卿に叙任されていた長近は嘆き悲しみ、剃髪して兵部卿法印素玄と号しました。清洲会議の後、長近は勝家に従いましたが、賤ヶ岳の戦いの折に前田利家ともども秀吉に寝返り、飛騨攻めの総大将となって飛騨を授かったのです。時に還暦を過ぎていました。

 彼は鍋山城に入りましたが、天正16年(1588年)から15年の歳月をかけて高山城を建設し、城下町を整備しました。養子で跡取りとなった可重は姉小路氏の拠点であった古川郷1万石を父から授かり、天正14年(1586年)増島城を築いて古川城から移っています。

 長近は禅や蹴鞠、茶の湯などに造詣が深く、千利休の弟子として古田織部らとも交流がありました。天正19年(1591年)に利休が秀吉から切腹を命じられた時、利休の嫡男の道安は飛騨高山に蟄居させられ、この地で茶の湯の手ほどきを行ったと伝えられます。また道安が赦免され堺に戻った文禄3年(1594年)頃、70歳の長近は秀吉の御伽衆をつとめるようになり、伏見城下の自宅に書院と茶室を作り、しばしば秀吉を招いています。

 彼は老齢になっても壮健で、朝鮮出兵の際は可重とともに兵800を率いて肥前名護屋城に在陣し、秀吉が有馬温泉で湯治を行った際は12歳年下の秀吉を背負って入湯したと伝えられます。秀吉の没後は家康に与し、慶長5年(1600年)に家康が会津の上杉景勝を征伐するため出陣すると可重とともに参戦し、東軍として関ヶ原の戦いに参加しています。この功績により、戦後長近は飛騨の本領を安堵され、美濃国武儀郡上有地こうずち等2万石、河内国金田郡3000石を加増されて6万1700石の領主となりました。

 慶長10年(1605年)、80歳を越えた長近は飛騨一国と高山城を可重に譲り、上有地を隠居領として移りました。翌年京都伏見の別邸に移り、家康・秀忠父子を招いてもてなしますが、同年に息子の五郎八(長光)が生まれています。80歳過ぎの老人とはいえ世継ぎを儲けることは不可能ではありませんが、すでに家督は養嗣子の可重に譲っていますし、自身の生い先も長くはありません。そこで彼には隠居領の上有地を相続させることとしました。なお長近には他に庶子がいましたが、秀吉の家臣であった伊東祐時の子・信直(治時)の養嗣子となり治明と名乗っています。慶長13年(1608年)8月12日、金森長近は84歳の高齢で逝去しました。

高山藩主

金森可重

 跡を継いだ可重は、永禄元年(1558年)美濃国垂井城主の長屋景重の子・喜蔵として生まれました。長屋氏は桓武平氏鎌倉氏流長江氏の末裔で、承久の乱の後に美濃国垂井に所領を授かり、のち土岐氏・斎藤氏に仕えました。織田信長が美濃に侵攻した際、景重は人質として喜蔵を出しましたが、天正8年(1580年)金森長近が越前大野城主になると23歳で養子となり、養父の旧名から可の字を授かって可重と名乗りました。またこの時、美濃郡上八幡城主の遠藤慶隆の娘を娶っています。2年後に本能寺の変で長近の嫡男長則が討死すると、可重は養子ながら金森家の家督相続者となったのです。

 慶長13年に父が没した時、彼はすでに50歳を過ぎ、正室・継室・側室との間に多くの子を儲けていました。慶長16年(1611年)に父の実子の長光が7歳で夭折しましたが、その所領は幕府領とされ、可重は相続していません。嫡男の重近は大坂の陣の時に父を批判して廃嫡され、京都で剃髪して宗和と号し、祖父・父以来の茶の湯を受け継いで文化人として活躍しました。

 大坂の陣において、可重は四男の可次、五男の重勝を伴って幕府方で出兵し、伊東治明の外孫にあたる岸和田藩主・小出吉英(秀吉の母方の従甥)を加勢しました。しかし元和元年(1615年)閏6月3日、58歳で京都伏見において逝去します。死因は定かでありません。

金森重頼

 家康の命令で可重の後を継いだのは、三男の重頼です。長男の重近は廃嫡されていますが、次男の重次は重頼ともども徳川秀忠の近侍となっていました。重近・重次の母は遠藤慶隆の娘ですがすでに亡く、重頼の母は那古野高久の娘で存命でした。また異説では、重頼の父は長近の庶子・伊東治明であり、可重の実子ではなかったためとされます。重次および弟の可次・重勝・重義は旗本とされ、重澄は家光の小姓となって寵愛を受け、酒井忠勝の家号を授かって2万5000石を賜りました。

 世継ぎとなった経緯はさておき、重頼は祖父と父が築いた高山藩政に力を注ぎ、新田や鉱山の開発などを行いました。しかし飛騨は慶長3年(1598年)の検地で3万8000石、慶長9-15年(1604-15年)の慶長郷帳でも3万8764石しかなく、美濃国の15分の1の石高しかありません。高山藩の経済を支えたのは鉱山や木材でした。

 飛騨では古くから金・銀・銅などが採掘されており、特に栄えたのが北東部の神岡(現飛騨市神岡町)です。奈良時代の和銅年間から採掘が行われていたとも伝えられ、金森長近が飛騨国主となってから開発が進みました。しかし僻遠の地であることから大規模な開発は進まず、実態は定かでありません。寛永の大飢饉に際して重頼が父の遺品である茶壷「雲山肩衝」を丹後国宮津藩主の京極高広に金3000両で売却し、藩士や百姓の救済にあてたとの逸話もありますから、当時はさほど豊かではなかったようです。

金森頼直・頼業・頼旹

 慶安3年(1650年)閏10月、金森重頼は55歳で没し、嫡男の頼直が跡を継ぎました。彼は領内の寺社の復興を行いますが、寛文5年(1665年)47歳で病没し、子の頼業が18歳で跡を継ぎます。

 寛文8年(1668年)、鉱山師の茂住宗貞の部下である宮島平左衛門が、高山城内で頼業により誅殺されます。宗貞は神岡の茂住鉱山を開発し、金森の名字を名乗ることを許されていましたが、権威をかさにきて贅沢に暮らしていたため憎まれたのだといいます。恐れた宗貞は越前に逃亡し、これにより鉱山経営は混乱して衰退を招きました。3年後の寛文11年(1671年)末、頼業は24歳の若さで没し、長男の万助(元服して頼時、改名して頼旹よりとき)が跡を継ぎます。

 万助は数え4歳、満2歳の幼児であったため、叔父の近供が後見人となります。彼も18歳の青年でしたが、越中富山藩との境界争いを勝訴に導くなど政治手腕に長け、万助が成人するまで国政を総攬しました。しかし頼旹は素行が悪く酒好きに育ち、貞享4年(1687年)には頼旹を諫めるため家士の田島藤五郎が自害するという事件も起きています。元禄2年(1689年)21歳で幕府の奥詰衆、ついで側用人に任命されますが、翌年4月に解任されました。

 時の将軍徳川綱吉と側用人の柳沢吉保は、頼旹の行状がよろしくないのに目をつけ、飛騨を幕府領にして財政を安定させようと図り、元禄5年(1692年)7月に頼旹を出羽国上山かみのやま(現山形県上山市)へ転封しました。石高は同じく3万8700石余ですが、長近以来6代107年続いた金森氏の飛騨統治はここに終焉することとなります。

 5年後には飛騨の南の美濃国郡上藩へ国替えし、越前国大野郡内にも所領を授かって石高は維持されたものの、相次ぐ国替えで家中の財政は逼迫し、孫の頼錦の時には領民の一揆を招いて改易となります(郡上一揆)。金森氏は大名ではなくなりましたが、子孫や分家は上級旗本として存続しました。

大原騒動

 元禄5年(1692年)7月以降、飛騨一国は幕府の直轄領となります。幕府は関東郡代の伊奈忠篤に飛騨代官を兼務させ、高山城を破却して下屋敷を陣屋(代官所)に改めました。忠篤は飛騨の総検地を行って石高を4万4469石と計算し、山林・鉱山などを管理下におさめて年貢の減免などの諸政策を実施しています。以後は関東郡代の伊奈氏が3代27年飛騨代官を兼任しました。この頃には金銀の鉱脈は枯渇し、銅と鉛の採掘が中心となっています。

 正徳5年(1715年)旗本の森山実道が第4代の飛騨代官に任じられ、以後は兼任ではなく専任となります。享保11年(1726年)には美濃国の郡上郡・加茂郡・恵那郡にまで管轄範囲が拡大し、美濃国武儀郡肥田瀬村に出張陣屋が設けられました。3年後には加茂郡上川辺村に移転し、飛騨川を通る木材の管理などにあたることとなります。この頃の飛騨代官長谷川忠国は帳面外の不要木材を売却して10万両の利益を出し、子の忠崇は年貢の金納化や人別米の配布、地誌の編纂や史跡の維持啓発などに力を注ぎ、ともに名代官として慕われました。安永6年(1777年)には飛騨代官が飛騨郡代に昇格し、越前や加賀の幕府領も管轄することとなります。

 しかしこの頃、飛騨では大規模な百姓一揆「大原騒動」が断続的に発生しています。明和2年(1765年)飛騨代官となった大原紹正は、飛騨の村民の収入源であった御用木元伐の休止を宣告して恐慌を招き、年貢米のうち3000石を江戸で納めるよう命じ、町人や百姓から御用金を借り上げ、新たな労役を課すなど領民を苦しめたため、明和8年(1770年)末に代官に協力する者たちへの打ち毀しが勃発しました。大原はただちに鎮圧して首謀者を処罰し、労役を課すことを取りやめて米を配布するなど鎮撫につとめています。

 安永2年(1773年)には新たに検地を行って1万1500石の石高増加を計上し、年貢を2割5分以上も引き上げたため大規模な百姓一揆が勃発し、隣国諸藩にも出兵が命じられる大事件となります。この鎮圧時に百姓49名が死亡、300名以上が捕縛され、首謀者は磔・獄門などの処罰を受けました。大原は領内からの税収を増やした功績により飛騨郡代に昇格しますが、夫の非道を嘆いた大原の妻は自害し、彼自身も眼病を患った末に病死しました。

 さらに天明元年(1781年)、大原紹正の子である正純が飛騨郡代に任じられます。彼は父に輪をかけて私利私欲に走り、年貢米1俵につき30-50文を過納させて返金せず、村々から6000両もの金を借り上げます。時に高山大火や天明の大飢饉が発生し、幕府は年貢免除や御救金の下賜、凶作の保証金を払い戻すなどの対策を講じていましたが、大原正純はそれらを横領・着服し、逆らう役人や名主を免職する始末でした。

 天明7年(1787年)から寛政元年(1789年)にかけて、免職された役人や名主らはたびたび江戸に代表を派遣し、老中松平定信らに繰り返し訴状を届けます。さらに飛騨に来た巡見使にも訴状が提出され、正信は飛騨郡代の上司である勘定奉行に命じて調査にあたらせます。寛政元年8月、大原正純は江戸に呼び出され、吟味の結果八丈島に流罪となりました。正純に加担していた役人も処罰され、百姓側は駕籠訴を行った者のみ死罪とされています。以後の飛騨郡代は植林や殖産興業につとめて善政を敷きました。山岡鉄舟の父小野高福も晩年に飛騨郡代として赴任しています。

◆飛騨◆

◆高山◆

【続く】

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