【つの版】度量衡比較・貨幣189
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。奥羽・関東・越後と見てきましたから、次は信濃です。広大かつ地理的・歴史的に複雑なのでいくつかに分けます。
◆信◆
◆濃◆
信濃略史
信濃国は現在の長野県にほぼ相当し、五畿七道のうち東山道に属し、東は上野・武蔵、南は甲斐・駿河・遠江・三河、西は美濃・飛騨・越中、北は越後に面する大国です。高い山に囲まれた内陸にあり、大小の盆地を千曲川や犀川、天竜川といった河川が繋いでいます。北東の長野(善光寺)、東の佐久、南西の伊那、北西の松本という4つの盆地(平)があり、中央には諏訪湖があって松本・伊那・佐久・甲斐を結んでいます。縄文時代より交通の要衝として栄え、また黒曜石の産地として重要でした。


信濃国/長野県は伝統的に北信・東信・中信・南信の4つに区分されます。北信は長野盆地、東信は佐久盆地、中信は松本盆地、南信は伊那盆地を中心とします。北信北部を奥信濃、東信を上田・佐久、南信を諏訪・伊那・木曽と分けることもあります。
神代には諏訪に建御名方神が来訪して鎮座したと伝え、崇神天皇の時に科野国造が派遣されたといいますが、古墳の分布などからして科野国造は北信南部の埴科郡・更科郡にあたる地域(現坂城町・千曲市・長野市南部)を治めていたものと推測されます。古墳時代から奈良・平安時代には百済や高句麗からの渡来人集団が開拓者として送り込まれ、各地に馬牧が設営されました。信濃は寒冷で土地が痩せ農耕には不向きでしたが牧畜には適しており、それらを経営し家畜や貢税を輸送・護衛するための集団が組織されました。やがてこの地は勇猛な騎馬武者たちを生み、諸国を脅かすに至ることとなります。なお信濃国府は当初上田盆地に置かれ、平安時代には西の松本盆地に移転したと考えられています。
平安時代後期には信濃に清和源氏の数流が定着し(信濃源氏)、木曽谷で育った木曽義仲は北信濃から越後を経て北陸道を抑え、平家を京都から西国へ追いやりました。しかし後白河院と対立して源義経・範頼らに討伐され、信濃は源頼朝率いる鎌倉幕府に制圧されます。信濃の武士たちは幕府の御家人となり、執権北条氏は越後ともども分家を守護として派遣し、諏訪大社は幕府や北条氏と結びついて軍神としての権威を高めました。
鎌倉幕府と執権北条氏が滅んだ後、諏訪氏は北条時行を匿って中先代の乱を起こさせ、鎌倉を奪還します。しかしこれは足利尊氏に鎮圧され、時行は伊豆へ逃げ延びた後、討幕の張本人ながら尊氏と敵対することとなった南朝の後醍醐天皇に従うこととなります。後醍醐天皇の子・宗良親王は時行らに奉じられて信濃国伊那郡に拠点を置き「信濃宮」と呼ばれました。信濃守護の小笠原氏はこれと対立しますが、やがて南北朝の動乱が落ち着くと、信濃の諸豪族は諏訪氏含めて室町幕府に恭順します。
ところが小笠原氏は幕府内の勢力争いに巻き込まれて御家騒動を起こし、分裂・衰退します。これに乗じて北信・東信では信濃源氏の村上氏が勢力を拡大し、南部では諏訪氏・木曽氏が割拠し、上野・越後守護職を兼ねる関東管領上杉氏も介入して、信濃は様々な中小の勢力に分裂します。
16世紀中頃、甲斐の戦国大名・武田晴信(信玄)は信濃へ侵攻し、各地の領主を調略・討伐して平定しましたが、長尾景虎(上杉謙信)は越後に隣接する北信濃の領有権を巡って信玄と対立し、12年にわたる「川中島の戦い」が繰り広げられます。両者の対決は5度ないしそれ以上におよびましたが、互いに疲弊して決着がつかず、謙信は北信北部の飯山城等を、信玄は東信・北信の大部分を得て停戦します。以後謙信は関東や越中に、信玄は駿河・遠江・三河に勢力を広げることとなりました。
元亀4年(1573年)に信玄が没すると、後継者の武田勝頼は遠江・三河への侵攻を継続しますが、織田信長・徳川家康の連合軍に長篠の戦いで敗れ、上杉謙信や後北条氏と同盟して信長に対抗しようとします。しかし天正6年(1578年)に謙信が急死し、甥の景勝と養子(北条氏康の子)の景虎の間で後継者争いが勃発します(御館の乱)。勝頼は景勝を支援して飯山城などを割譲されますが、後北条氏は景勝と手を切って家康・信長と手を結び武田・上杉同盟に対抗します。この動揺に信長がつけこみ、調略を行って武田氏を崩壊させ、天正2年(1582年)に勝頼を自刃に追い込んだのです。
同年に本能寺の変が起きて信長も死ぬと、越後の上杉景勝、関東の北条氏直、三河・駿河・遠江の徳川家康が信濃へ攻め込んで相争います(天正壬午の乱)。秀吉の仲裁により家康が信濃の大部分を領有し、上杉氏は北信濃を抑えるにとどまりました。秀吉は小田原征伐で後北条氏を滅ぼすと家康を関東に転封し、信濃に家臣らを封じますが、秀吉没後に起きた関ヶ原の戦いで家康は信濃を奪還し、諸藩や幕府領を置くこととなります。
北信四郡
信濃国のうち高井・水内・更科・埴科の4郡を、室町時代には「奥四郡」と呼びました。畿内から見て信濃のうち最も遠いためです。上野へ向かう東山道を北に外れ、千曲川(信濃川)沿いに越後へ抜ける途上にあり、信濃川を下れば魚沼郡・蒲原郡へ、妙高山東麓の野尻湖岸を北へ抜ければ越後国府がある頸城郡(上越市)に達することができます。江戸時代には碓氷峠から東信・北信を抜けて上越に至る北国街道が整備され、越後と関東を繋いでいました。上州沼田から魚沼へ抜ける三国街道(最高標高1139m)よりは標高も低く(最高700mほど)、比較的通りやすい道です。
また松本盆地から流れ来たる犀川が千曲川と合流する地を「川中島」といい、北信・奥四郡を「川中島四郡」と呼ぶこともあります。松本盆地は諏訪に、諏訪は伊那や甲斐に通じていますから、この地を抑えれば越後・信濃・上野・甲斐を結ぶ物流を制することができます。県庁所在地が北東に偏った長野市にあり、科野国造がこのあたりに置かれたのも理由があるのです。
野尻湖畔や湖底からは旧石器時代の遺跡が見つかっており、縄文時代にも狩猟や交易の拠点として栄え、火焔型土器は中越・北信を中心に分布しています。しかし越後と同じく寒冷な豪雪地帯で稲作には適さず、蕎麦や栗、杏などが栽培されてきました。更科の蕎麦はことに有名です。
長野盆地を善光寺平と呼ぶのは、この地に7世紀頃から存在したという仏教寺院・善光寺によります。もとは水内郡の郡衙に隣接する寺であったとも推測されていますが、平安時代後期から東国で崇敬を集めるようになりました。また近隣の戸隠山は修験道の霊地とされ、鎌倉時代には戸隠の別当である栗田氏が善光寺別当も兼任して結びつきを強めました。
この栗田氏は、信濃村上氏の傍流にあたります。平安時代に河内源氏から分かれ、信濃国更科郡村上郷(現坂城町村上)を本貫とした武家で、保元・平治の乱や治承・寿永の乱(源平合戦)にも参加し、木曽義仲や源義経に従っています。鎌倉幕府成立後は御家人となり、執権北条氏の御内人となったものの、特に出世することなく北信濃の一領主として過ごしました。
軍記物語『太平記』などには、後醍醐天皇の皇子・護良親王の忠臣として村上義光なる武者が現れます。元弘3年(1333年)3月、吉野山に鎌倉幕府の軍勢が迫った時、親王の甲冑を纏って影武者となり、主君を逃がした後に奮戦した末、自ら腹を切って果てたといいます。これは他の史料にいう村上義日のことのようですが、『梅松論』『尊卑文脈』では討ち死にしたとあるだけです。同年5月に足利高氏(尊氏)・新田義貞らが後醍醐天皇に呼応して討幕の兵をあげ、鎌倉幕府はたちまちのうちに滅びました。
義光(義日)の弟・信貞は家督を相続し、兄の功績により後醍醐天皇から「信濃惣大将」の称号を賜りました。その後は足利尊氏に従い、中先代の乱に際しては信濃守護・小笠原貞宗と連携して北条時行ら北条氏残党と戦い、高師直・師泰の指示を受けて越前に新田義貞を攻め、恩賞として小県郡塩田荘を賜っています。しかし子孫は信濃守護職を求めて小笠原氏と対立し、その後ろ盾の幕府に疎んじられ、国人衆のひとつ程度の勢力に戻りました。室町時代には高梨氏が代わって勢力を広げ、北信から越後の一部にまで所領を持つようになりますが、長尾氏と上杉氏の争いに巻き込まれていきます。
戦国時代に村上氏は再び勢力を強め、16世紀の村上義清の時には埴科郡葛尾城(現坂城町北端)に居を置き、南は佐久郡・小県郡、北は水内郡・高井郡などを勢力下におさめ、東信北信一帯を支配する戦国大名となりました。松本盆地を拠点とする信濃守護の小笠原氏とは婚姻同盟を結び、北は越後長尾氏、東は関東管領上杉氏、南は甲斐武田氏と対峙して、武田晴信(信玄)の侵攻を幾度も撃退しています。これに対し、晴信は小県郡真田郷の小豪族・真田幸綱を用いて村上氏側の諸将に対する調略を行わせ、小笠原氏や仁科氏らを服属させて義清から切り離し、ついにこれを打ち破りました。
しかし村上義清は越後へ逃れ、長尾景虎(のちの上杉謙信)に救援を要請します。長尾氏の本拠地である上越の春日山城から葛尾城まで100㎞余、信越国境の関川までは40㎞弱しかなく、武田氏が北信を制圧すれば存亡の危機ですし、長尾氏と姻戚関係にある高梨氏の所領もあるので捨て置けません。景虎は直ちに援軍を派遣するとともに自ら出陣し、北信濃を巡る12年にわたる攻防戦「川中島の戦い」が勃発しました。この戦いは上述のように決着がつかず、謙信が飯山城などを抑えるにとどまっています。謙信没後、甥の景勝は信玄の後継者である勝頼の支援を受けて後継者争いを制し、飯山城などを割譲して恩義に報いました。
海津城主
のち信長は武田氏を滅ぼすと森長可を北信濃4郡20万石に封じ、武田氏が築いた埴科郡の海津城を授けます。長可はそのまま北上して景勝を攻め、春日山城にまで迫りましたが、本能寺の変の報を受けて撤退します。さらに信濃の国人らは大部分が反織田派にまわったためとどまることもできず、長可はただちに松本に移動、木曽谷を通って美濃まで撤退しました。彼は2年後に秀吉に属して家康と長久手で戦い、戦死しています。
上杉景勝は国人らの要請に応じて南進し、北信濃を制圧します。北条氏直は上野から撤退した織田氏家臣の滝川一益を追って東信に侵攻しますが、明智光秀を討った秀吉は徳川家康に甲斐・信濃の平定を任せます。また真田幸綱の子で上田城主の昌幸は北条・上杉・徳川の狭間にあって独立を保ち、景勝も秀吉と手を結んで北信濃の領有を認められます。天正13年(1585年)、景勝は海津城代に須田満親を任じて川中島4郡を守らせました。
ところが慶長3年(1598年)、秀吉は景勝に陸奥会津等120万石への転封を命じます。景勝は越後の大部分と北信濃を失い、満親は海津城で自害しました。秀吉は川中島4郡9万石を蔵入地(直轄地)とし、北畠家庶流で蒲生家与力の田丸直昌が海津城主に任じられます。慶長5年(1600年)2月、森長可の弟・忠政が交代で城主となり、蔵入地は廃止されて13万7500石を賜ります。彼は「この地の領主となることを心待ちにしていた」と言い、海津城を「待城」と改名しました。すなわち現在の松代城です。
同年6月に家康が上杉景勝征伐のため関東へ向かい、7月に石田三成らが毛利輝元を大坂城に招き入れ、豊臣秀頼を奉じて家康を討とうと図ると、忠政は家康(東軍)を支持します。しかし南の上田では真田昌幸が反家康側(西軍)につき、関東から東山道を通って関ヶ原へ向かおうとする徳川秀忠を妨害しました。家康は東海道を通ったため妨害されず関ヶ原に到達できましたが、忠政は真田家を抑えるため動けず、戦後は加増されませんでした。
戦後、忠政は領内に総検地を行いますが、領民は圧政に反発して全土で一揆を起こし、徹底的な弾圧を受けます。もともと北信濃は国人・土豪の勢力が強く、森家が武田や上杉の遺臣に恨まれていたこともありますが、問題視した家康は慶長8年(1603年)に忠政を美作国に加増転封し、自らの六男・松平忠輝を川中島4郡12万石(のち14万石)に封じました。幼少のため家老の花井吉成が城代となり領内を整備し、忠輝が慶長15年(1610年)に越後へ転封された後も、元和2年(1616年)に改易されるまで忠輝の領地とされました。ただし飯山城と水内郡4万石は慶長14年(1609年)に没収され、堀直寄に授けられて独立の藩(飯山藩)となっています。
代わって松平忠昌が12万石で入り、海津城改め待城を「松城」と改めますが、彼も3年で越後高田へ転封されます。次いで酒井忠勝が10万石で入りますが3年後に出羽庄内へ転封され、真田昌幸の子で信州上田・上州沼田を領していた真田信之が13万石で入ります(うち3万石は上州沼田領)。以後は真田家が明治までこの地を治めました。幕府の命令により松代城と改名されたのは正徳元年(1711年)のことですが、それ以前を含めて近世に海津城を居城とした領主家の領地は「松代藩」と呼ばれます。
◆真◆
◆田◆
【続く】
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