【つの版】度量衡比較・貨幣175
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には全国に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。前回は陸奥仙台藩について見てみましたから、今回はその北の盛岡藩・八戸藩・弘前藩について見てみましょう。
◆南◆
◆部◆

南部盛岡
盛岡藩主の南部氏は、清和源氏・新羅三郎義光の後裔にあたる名門です。義光の玄孫・光行は源頼朝の挙兵に従って手柄を立て、甲斐国巨摩郡南部牧(現・山梨県南巨摩郡南部町)に所領を賜り南部氏を称しました。元弘の乱では鎌倉幕府側と戦って武功をあげ、陸奥国糠部郡(現・岩手県北部から青森県東部全域)などを授かります。ここは北条得宗家が代官を派遣して統治していた地で、古来名馬の産地として知られました。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は義良親王を陸奥太守として派遣し、北畠顕家を鎮守府将軍に任じて輔佐させます。南部師行はこれに随行して陸奥に下向し、北条残党の反乱を鎮圧しました。足利尊氏が後醍醐天皇から離反して南北朝の乱が勃発すると、師行は顕家に従って南朝に味方し、河内まで遠征した末に戦死します。弟・政長とその子孫は南朝に従って北朝と足利氏に抗い続けますが、南北朝合一により降伏しました。彼の子孫は八戸の根城を拠点とし、八戸氏/根城南部氏と呼ばれます。
その後は糠部郡三戸(現・青森県三戸郡南部町)を拠点とした三戸南部氏が代わって勢力を広げ、安東氏を駆逐して津軽を制圧、16世紀には出羽国鹿角郡(秋田県北東部)まで進出します。第24代当主晴政の時、南部氏の版図は北上川中流域から下北半島の北端にまで及び、南北徒歩で半月近くかかるとして「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われました。しかし南の閉伊郡(北上山地)には閉伊氏、岩手郡と紫波郡には高水寺斯波氏、和賀郡には和賀氏、稗貫郡には稗貫氏が割拠して南部氏に対抗しました。
第26代当主・信直は養父の晴政とその実子・晴継を倒して家督を継ぎ、高水寺斯波氏を滅ぼして岩手・紫波両郡を平定します。さらに秀吉の小田原攻めに駆けつけ、閉伊・岩手・鹿角・紫波・糠部の5郡を安堵されます。ところが南部氏支流の大浦為信は先んじて秀吉より津軽3郡を安堵されており、信直は返還を求めました。翌年には九戸政実の乱を平定した功績により、津軽3郡の代替地として和賀・稗貫の2郡が加増され、7郡10万石となります。同年に三戸城から九戸城(岩手県二戸市福岡)に遷りますが、南に拡大した領国を治めるにはなお北辺に過ぎるとして、さらに南に遷ります。
浅野長政・蒲生氏郷らの推挙により選ばれたのは、領国のほぼ中央に位置する岩手郡仁王郡の不来方城でした。これは室町時代に南部氏の家臣・福士氏が築いたものです。信直はひとまず紫波郡の郡山城に移り、不来方城の改築・拡大を進めさせましたが、慶長4年(1599年)に没しました。息子の利直は徳川家康に従い、会津討伐・出羽合戦では最上義光らとともに上杉景勝と戦っています。元和元年(1615年)には不来方の名を改めて「森ヶ丘」とし、三戸から領民を移して城下町を整備しました。盛岡と呼ばれるようになったのは利直の子・重信の時からです。家名から「南部藩」あるいは「南部盛岡藩」とも呼ばれます。
盛岡は内陸とはいえ北上川の舟運で南は仙台藩と繋がり、石巻港を経て江戸まで海路が通じています。利直は藩独自の港として宮古港を整備し、沿岸部と北上盆地を街道で結びました。北西の鹿角郡とは鹿角街道で結ばれ、米代川沿いに大館・能代を経て日本海と繋がっていますし、北の海路は蝦夷地とも繋がっています。この交易路では何が運ばれたのでしょうか。
鉱山開発
南部領/盛岡藩領は広大でしたが、寒冷で火山性地質が広がり、表高は10万石に過ぎません。しかし古来の産物として、奥州藤原氏繁栄の源となった名馬(糠部馬/南部馬、閉伊郡の田鎖馬)があり、砂金が産出します。
慶長3年(1598年)、南部氏家臣の北十左衛門は領国の境を検分するため鹿角郡へ派遣された際、白根金山を発見しました。十左衛門は金山奉行に任じられ、利直はこれを家康に報告して金を献上しています。盛岡の南の紫波郡には赤沢女牛金山が古くから存在しましたが、元和8年(1622年)には佐比内に朴木金山が開発され、莫大な金を産出しました。藩政初期はこうした金山によって盛岡藩は繁栄したものの、17世紀後半には金産出量が減少し、銅山へと移行していきます。白根の近くに発見された尾去沢銅山は、出羽の阿仁、伊予の別子と並び、江戸時代の日本の銅産を支えました。
利直の没後は嫡男の重直が跡を継ぎますが、寛文4年(1664年)に没した時に実子がおらず養嗣子も定めず、将軍・徳川家綱に御家存続と後継者の選定を委ねていました。家綱は重直の異母弟・重信に南部家の家督と10万石のうち8万石を継がせ、別の異母弟・中里直好(南部直房)には八戸藩2万石を立藩させます。表高が減少すると家格(武家の序列)も下がり、周辺諸藩にナメられてよろしくありません。そこで重信は新田開発と検地を行って表高を10万石に戻しました。また増収分を藩士の俸禄に用い、枯渇した金山に代わって銅山開発を進め、北上川の水害対策を行うなど善政を敷いています。
重信の子・行信の代には飢饉が続いて数万人の餓死者が出、藩の財政は傾き始めます。行信は儒者らを登用して藩政改革に乗り出すも家臣団の反発で失敗し、隠居していた父の重信とも対立した末、元禄15年(1702年)に父ともども逝去しました。行信の子の代には銅の産出量も減少し、借財は10数万両に及びます。となると米を増産して買米を行い、江戸へ輸出して外貨を稼ぐしかありませんが、宝暦の飢饉、天明の大飢饉においては江戸への廻米を優先して数万人規模の餓死者を出す(飢餓輸出)有り様でした。加えて18世紀末からは蝦夷地の警備や家格上昇(10万石→20万石)による負担増が重なり、領民は重税に苦しんで盛んに一揆を起こします。盛岡藩の一揆発生件数は江戸時代を通じて130回以上に及び、全国ワースト1位でした。
しかし、盛岡藩領にはなお様々な資源がありました。藩は植林を奨励して木材を育て、牧畜を推奨して牛馬を殖やし、西国から技術を導入して製鉄を盛んならしめ、名高い南部鉄器を作成させたのです。鉄は金や銅より安価ですが農具や鉄銭の原料として重宝され、広く諸藩や江戸まで送られました。木材は製鉄のための木炭に、牛馬は輸送に用いられ、製鉄は一大産業として藩の財政を支えることとなりました。他にも漆・紫根(染料)・煙草・蝋・麻・綿・塗物・紅花・薬種など多様な商品作物が作られ、沿岸部では海産物が干物に加工されて輸出されました。
八戸法替

八戸藩は上述の理由で立藩され、現在の青森県南東部から岩手県北東部にかけての地域(飛び地として紫波郡の一部)を治めました。将軍の裁定により成立したことから盛岡藩の支藩ではないとされましたが、辺境の寒冷地の小藩ゆえ財政は常に苦しく、相次ぐ飢饉で深刻な打撃を受けました。
藩領は稲作に適さないため焼畑農業による大豆や雑穀等の生産が奨励されましたが、山から焼け出された猪が畑の作物を食らって異常繁殖し、寛延2年(1749年)には表高2万石のうち1万6654石が猪による損害を被ります。これによって餓死するものは人口7万余のうち数千人におよび、続く宝暦の飢饉、天明の大飢饉でも激甚な損害を受け、多数の民が領外へ逃散しました。この頃八戸城下にいた医師の安藤昌益は、為政者や儒者を「田畑を耕さずして食を貪る者」と痛烈に批判し、万人が耕作を行うべしと主張しています。
文政2年(1819年)、八戸藩主・南部信真は大目付の野村軍記を主任として「国政御主法替(藩政改革)」を断行します。まず領内産物の取引を牛耳っていた蔵元(御用商人)の七崎屋を取り潰し、大豆を藩の専売制として強制的に領民から買い上げました。また大野鉄山を藩の直営とし、西町屋に業務を委任しました。こうした強権的な手法により藩の財政はやや持ち直しますが、実態は七崎屋に代わって新たな蔵元が台頭したに過ぎません。
天保の大飢饉が発生すると、藩と蔵元は銀札や小切手を発行して食糧を買い占めようとしますが、物価高騰が進んで経済が混乱します。藩は「百姓は1人1日稗3合あればよく、残りは全て買い占める」と言い放ち、激怒した百姓は一揆を起こして城下に押し寄せます。藩はやむなく一揆の要求を呑み、野村軍記を獄死させました。一連の藩政改革は失敗に終わったのです。
津軽弘前
現在の青森県の西部は古来「津軽」と呼ばれ、陸奥湾の沿岸部は日本の北端と認識されて「外ヶ浜」と呼ばれましたが、海を介して出羽や北陸、西国とも広く通じていました。平安時代後期には鼻和・平賀・田舎の津軽三郡が置かれ、奥州藤原氏が滅ぼされると北条得宗家の代官・曽我氏や安藤氏(安東氏)が派遣されて支配下に置かれました。安東氏は蝦夷との交易によって富み栄え、北は蝦夷ヶ島(北海道)から南は北出羽(秋田県)に勢力を広げましたが、15世紀中頃に南部氏の侵攻を受け、津軽を征服されます。安東氏は北出羽に遷り、戦国時代後期に秋田氏と名乗りました。
15世紀末、南部信時は津軽西浜の種里城に一族の光信を、外ヶ浜の堤ヶ浦に子の光康を配置し、光信は新たに大浦城を築いて嫡男の盛信を入れます。16世紀中頃には南部安信の弟・高信が石川城に、政行が大光寺城に置かれますが、大浦領は盛信の娘婿の政信、その子の為則が継ぎ、永禄10年(1567年)に為則の娘婿・為信が跡を継ぎます。
為信は南部氏の内紛に乗じて津軽で自立し、豊臣秀吉にいち早く接触、津軽3郡と外ヶ浜を安堵されました(ただし4万5000石のうち3万石は豊臣家の直轄領)。また摂関家の近衛氏にも財政支援を行って猶子となり、本姓を藤原、氏を津軽と改めています。文禄3年(1594年)には大浦城から羽州街道沿いの堀越城に遷り、関ヶ原の戦いでは家康に味方し所領を安堵されます。
為信の子・信枚は高岡(鷹岡)に新たな城を築いて遷りました。この城は寛永4年(1627年)に落雷と火薬への誘爆で爆発し、翌寛永5年(1628年)に天海僧正の提言で弘前と改名されました。以後の津軽氏の領国と家中を、歴史上は「弘前藩」と呼びます。また外港として外ヶ浜に青森港が開かれ、現在の青森市のもとになりました。
辺境の小藩とはいえ津軽は蝦夷地と出羽・北陸・西国を結ぶ要地にあり、領内には銀を産出する寒沢・尾太などの鉱山もあり、江戸時代前期は新田開発・殖産興業も行われ、藩財政は順調に発展しました。しかし17世紀末には銀が枯渇し、凶作・飢饉が続いて藩財政は傾き始めます。幸い享保年間には尾太で銅と鉛の大きな鉱脈が見つかり、鉱山は息を吹き返しますが、6代藩主・信著の代には先代の浪費に様々な天災が重なり、藩財政は危機的状況に陥ります。信著は享保の改革に則って藩政改革を進めたものの26歳で病没し、子の信寧が6歳で跡を継ぎました。
宝暦3年(1753年)、弘前藩は毛内義巧を勘定所総司に、乳井建富を勘定奉行に任命し、藩財政の立て直しを委ねました。毛内は公正で強硬な倹約策を、乳井は藩士からの借米の一部を棒引きし豪商への課税を強化するなどの改革を行い、宝暦5年(1755年)の飢饉に際しては諸税の免除や米穀の買い取り・配給など積極的な対策を講じました。これにより領民の餓死者は(報告書の上では)1人もおらず、藩主・信寧は喜んで乳井に「貢」の名を授けました。ただ毛内は乳井と対立し、閉門蟄居に及んでいます。
しかし宝暦の飢饉の被害は大きく、豪商からの借金も膨らんで藩財政は危機的状況となります。そこで乳井は宝暦6年(1756年)に「標符」という藩札の一種を発行し、これを用いた経済統制政策を実施しました。しかしあまりに急進的な改革であったため反発も大きく、標符は2年半程で廃止され、乳井も失脚して河原平村へ蟄居させられることとなります。
その後も弘前藩の借金は増える一方で、天明の大飢饉では10万人を超える餓死者を出しました。信寧は対策に追われる中で天明4年(1784年)に逝去し、跡を継いだ信明は毛内義巧の子・茂粛の助言も受けつつ藩政改革に乗り出しました。彼は倹約令を徹底して出費を削減し、義倉を設けて食糧を備蓄し、藩校を開設して教育を普及させるなど優れた業績をあげましたが、寛政3年(1791年)に30歳で急逝します。
養嗣子の寧親は信明の改革路線を受け継いだものの、幕府から蝦夷地警備を命じられ、その功績によるとして表高を10万石にまで引き上げられます。当時の実高は28万石ほどもありましたが、実際の加増はなく、家格上昇により幕府からの負担は増す一方となり、領民に重税となってのしかかります。また家格上で盛岡藩主より上座となったことから南部家中の恨みを買い、盛岡藩士にテロ未遂事件を起こされてもいます。同年に蝦夷地警備の任務からは解放されたものの、家格上昇による負担は返上できず、弘前藩を幕末まで苦しめることとなりました。
◆津◆
◆軽◆
【続く】
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