【つの版】度量衡比較・貨幣205
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は駿河の西、遠江編です。

◆盗◆
◆賊◆
遠江略史
遠江国は東海道に属し、現在の静岡県西部で、東は大井川を境として駿河国に接し、南は海に面し、西は浜名湖の西側に及んで三河国に接し、北は天竜川を遡って信濃国に達しています。古くは遠淡海(遠い淡水湖の)国といい、畿内から見て琵琶湖を近淡海、浜名湖を遠淡海としたことによります。明応7年(1498年)の明応地震で海と繋がり汽水湖になりましたが、名称はそのままです。
古くは浜名湖周辺から太田川まで(湖西市、浜松市、磐田市)を遠淡海国といい、その東に久努国、素賀国が存在し、7世紀に統合されました。国府は現在の磐田市に置かれています。南部には多くの河川が流れる平野が広がっていますが、天竜川をはじめ暴れ川が多く、東海道を通行する際の難所ともなっています。
源平合戦の時、平家の軍勢を撃退した甲斐源氏のうち武田信義は駿河の、安田義定は遠江の守護を称し、のち頼朝から追認されています。しかし平家や奥州藤原氏が滅ぶと安田義定は粛清され、鎌倉時代にはおおむね執権北条氏が守護・国司を独占しました。
鎌倉幕府滅亡後、遠江守護には今川範国が任じられ、駿河守護職を兼務して東国に重きをなします。範国の後も守護職は今川氏が継ぎますが、15世紀には室町幕府管領家の斯波氏が遠江守護職につきます。これを不満とした駿河の今川氏は応仁の乱に乗じて遠江奪還を図り、戦国時代の今川氏親の時には遠江を制圧し、三河・尾張まで侵攻するに至りました。
しかし桶狭間の戦いで織田信長に今川義元が討ち取られると、子の氏真は小田原北条氏と結んで駿河を保ちますが、三河・遠江は大いに動揺します。三河の松平元康/徳川家康が信長と結んで今川氏に反旗を翻すと、遠江の国人衆もこれに呼応して挙兵し、氏真はその鎮圧に奔走しました。結果的に遠江は保ったものの三河は今川の手を離れ、永禄11年(1568年)からの武田信玄による駿河侵攻を招きます。氏真は駿府から遠江国掛川城に逃亡し、家康は遠江に侵攻して掛川城を包囲、氏真を降伏させました。この時に遠江西部の曳馬城を攻め落として浜松城と改称し、三河岡崎城から移っています。
家康はこの2つの城を拠点とし遠江南部の平野を抑えますが、信玄は駿河および遠江北部の山地を掌握し、伊那谷から奥三河へと侵攻して家康を脅かします。北条氏も信玄と和睦しており、家康は信長との同盟を保ちつつ、武田と粘り強く戦い続けました。信長は畿内を掌握して天下人となり、美濃を脅かす武田勢を家康とともに撃退し、ついにはこれを滅ぼします。家康は遠江・駿河を制圧し、続く天正壬午の乱で信濃の大部分と甲斐も獲得します。
これに対し、信長の後を継いで天下人となった羽柴/豊臣秀吉は家康を政治的に屈服させ、小田原征伐で北条氏を滅ぼした後に家康を関八州と伊豆へと転封します。そして遠江掛川城には山内一豊(5万1000石)、浜松城には堀尾吉晴(12万石)を封じて家康への抑えとしました。ともに早くから秀吉に仕えた重臣でしたが、秀吉没後は家康に味方しました。特に一豊はいち早く掛川城を家康に提供すると申し出、諸将を家康に加担させた功績があり、関ヶ原の戦いの後は土佐一国20万石を賜っています。吉晴の子・忠氏は関ヶ原の戦いで武功をあげ、出雲・隠岐24万石に加増転封されました。
掛川藩政
藩主頻代
慶長6年(1601年)、掛川城主として家康の異父弟(母の再婚先の子)・松平定勝が3万石で入ります。定勝は6年後に伏見城代となり、子の定行が掛川の地を継ぎますが、元和3年(1617年)定勝が伊勢桑名11万石に加増転封されると、定行は掛川を幕府に返して桑名へ赴きました。定行は18年後に伊予松山15万石へ加増転封され、明治維新まで藩主家として存続します。
次いで安藤直次が掛川城主となりますが、2年後に紀州徳川家の附家老に任じられ、紀州田辺3万8000石を授かって移ります。続いて松平定綱が6年、朝倉宣正が9年、青山幸成が2年、松平忠重が4年、本多忠義が5年、松平忠晴が4年、北条氏重が10年と藩主が次々に代わり、万治2年(1659年)井伊直好(井伊直政の孫)が3万5000石で入ってからは井伊家が3代46年続きました。しかし子の直武、孫の直朝と暗愚な藩主が続き、直朝は宝永元年(1705年)に発狂して改易され、養嗣子の直矩は越後与板藩へ転封されます。
代わって松平忠喬が4万石で入りますが5年で摂津尼崎へ転封され、小笠原長煕が6万石で入ります。彼は大井川・天竜川の治水や新田開発を行って功績を挙げますが、隠居して家督を譲った婿養子の長庸は23歳で早世し、その子・長恭は延享3年(1746年)に陸奥棚倉藩へ移封されます。これは彼の領内を根拠地とする盗賊を取り締まれなかったという理由でした。
日本左衛門
この盗賊は浜島庄兵衛、号して日本左衛門といい、尾張藩の七里役(宿場町にいて公文書の取次等を行う下級役人)の子でした。享保4年(1719年)の生まれで若い頃から放蕩を繰り返し、やがて数百人の盗賊を率いる頭目となり、遠州豊田郡貴平村に拠点を置き、東は駿河・伊豆、西は三河・尾張・美濃・伊勢・近江の諸国を股にかけて押し込み強盗などを働きました。
彼の指名手配の人相書きによれば、身の丈5尺8-9寸(175cm)と当時としては長身で、面長色白かつ鼻筋が通り、頭に2寸半(5cm)ほどの傷がありました。黒皮の兜頭巾、薄金の面頬をつけ、黒縮緬の小袖に黒羅紗で金筋入りの半纏をまとい、小手と脛当ては黒繻子で銀造りの太刀を佩き、手には六尺の棒を持ち、腰には捕縛用の早縄をさげていたといいます。悪党ながら立派な風体で、知恵と度胸があり、もと武家ですから剣術など武芸にも長けていましたが、自分では手を下さず手下に働きを任せ、悪い商人から盗んだ金品を貧乏人に分け与えて人心を掴んでいました。
押し込み強盗の手口は大掛かりなもので、周辺の家や道筋には見張りを置き、50-60人余りに提灯を持たせて標的の家に押し込みます。そして家族を縛り上げて人質とし、金品の置き場所を案内させて奪い、領主の異なる土地を転々と逃走して追手を撒いたといいます。遠江には大名の所領や幕府領のみならず旗本の領地がいくつもあり、違う領主の領地には追捕の手を及ぼすことができませんでした。これにより日本左衛門の盗賊団は悠々と諸国を往来し、確認されているだけで14件の強盗事件を起こし、2600両(1両を現代の20万円として5億2000万円相当)を超える金品を奪ったと伝えられます。また非道はしないとの評判はありましたが、末端までは統制できず、女に乱暴狼藉する者もいたといいます。
豪商や豪農は掛川藩などに対応を願いますが、神出鬼没の盗賊たちは捉えられず、やむなく上級機関たる幕府へ報告します。事態を重く見た幕府は延享3年に御先鉄砲頭の徳山五兵衛秀栄を火付盗賊改頭に任じ、日本左衛門率いる盗賊団の追捕を命じました。幕府の命令ですから諸藩・旗本はこぞってこれに応じ、大捜査網が敷かれます。日本左衛門は美濃を経て大坂へ逃れ、さらに安芸へ逃走しますが、そこにも手配書が配布されていたので逃れられぬと決心し、翌年京都奉行所へ自首しました。
江戸に護送された日本左衛門は投獄され、市中引き回しのうえ獄門と判決が下り、29歳で徒党6名とともに処刑され、首は遠州見附に晒されました。享保の改革で倹約と重税に苦しんでいた民衆は、日本左衛門を反権力のヒーローとして密かに喝采を送り、後世には義賊「日本駄右衛門」として歌舞伎の世界でもてはやされることとなります。
太田藩政
小笠原長恭の転封後、5万石で掛川藩主となったのは太田資俊です。彼は室町時代の関東の名将・太田道灌の末裔にあたり、父・資晴は上州館林藩主や大坂城代をつとめました。以後太田氏は7代120年余にわたって掛川藩主となり、うち2人は老中に登っています。これまでの145年間に12家17君がころころと代わり、盗賊が跋扈したこともあり、太田氏は藩政の安定化を第一とし、警察力の強化と厳罰主義によって乱れた治安を改善しました。ただ小藩ゆえに財政は常に厳しく、旱魃や飢饉も相次ぎました。
浜松藩政
浜松藩も藩主家の入れ替わりが激しく、265年間に12家22君が交代しています。まず慶長6年(1601年)5万石を賜り浜松城主となった松平忠頼(母が家康の異父妹)は、慶長14年(1609年)に喧嘩に巻き込まれて横死し、子の忠重は幼少であったため改易されます。次いで駿府藩附家老の水野重央が2万5000石を賜って浜松城主となり、元和3年(1617年)に1万石の加増を受けますが、2年後に駿府藩主の徳川頼宣が紀州に国替えとなったため付き従い、紀州新宮藩に転封されました。
代わって3万5000石で入ったのが高力忠房です。高力氏は三河松平氏譜代の家臣で、祖父の清長、父の正長ともども家康に仕えました。忠房は新田開発や検地など民政に積極的に取り組み、浜松藩政の基礎を築きましたが、その手腕を買われて寛永15年(1638年)肥前島原に国替えされ、島原の乱で荒廃した領内の立て直しを任されています。これはうまくいったものの、浜松は20年続いた名君を失うこととなりました。
その後は松平乗寿(6年)、太田資宗・資次(2代34年)、青山宗俊・忠雄・忠重(3代24年)、松平資俊・資訓(2代27年)、松平信祝・信復(2代20年)、再び松平資訓と子の資昌(2代8年)、井上正経・正定・正甫(3代60年)と続き、文化14年(1817年)に水野忠邦が6万石で入ります。のち彼が老中になると1万石の加増を受けますが、天保の改革に失敗して失脚し、子の忠精は出羽山形へ国替えされます。浜松藩は井上正甫の子・正春が継ぎ、その子・正直の時に明治維新を迎えました。
相良藩政
遠江国の西部、榛原郡相良(現牧之原市相良)には、宝永10年(1710年)本多忠晴が1万5000石で入って相良藩を開きました。彼の孫・忠如は、例の盗賊日本左衛門の取り締まりがなおざりであったとして延享3年(1746年)陸奥泉藩へ国替えされ、続いて板倉勝重が入りますが3年で転封となり、本多忠央が1万石で入ります。ところが宝暦8年(1758年)、美濃国郡上藩主の金森氏に連座して改易され、代わって田沼意次が藩主となります。
意次は将軍家治を後ろ盾として権勢を振るい、相次ぐ加増により石高は5万7000石に達し(遠江・駿河・下総・相模・三河・和泉・河内の7か国に分散)、老中・城主格に昇進して相良に城を築きました。彼は家訓で年貢増徴を戒め、領内の年貢を軽減し、養蚕・製塩など殖産興業を推進して領民を富ませました。また東海道の藤枝宿から相良に至る分岐道(田沼街道)や港を整備し、飢饉に備えて食糧を備蓄させ、火事対策のため瓦焼きにも助成金を出しています。老中として幕政を取り仕切るため相良に来たのは一度きりですが、城代家老に指示を出して善政を敷き、領民は名君として讃えました。
しかし田沼時代には浅間山の噴火や天明の大飢饉、天明の洪水など災害が相次ぎ、意次は災害復興のために奔走しますが、天明6年(1786年)将軍家治が薨去すると失脚します。嫡男意知は暗殺されており、その子の意明が家督を継ぎますが3万石を減らされ、さらに陸奥下村藩1万石に国替えされました。そのうえ相良城は取り壊され、相良藩は廃藩となり、幕府直轄領となりました。意次は失意のうちに没しましたが、36年後の文政6年(1823年)に意次の末子・意正が相良に1万石で復帰し、相良藩は復活しています。
横須賀藩
掛川城の南、横須賀城(掛川市西大渕)を居城としたのが横須賀藩です。この城は東の高天神城を武田氏から奪還するための拠点として、徳川家康が家臣の大須賀康高に命じて天正6年(1578年)築城させたもので、完成までに2年かかり、その翌年に高天神城の奪還に成功しました。康高は功績により松平の姓氏を賜り、その後も家康に従って転戦し功績を建て、天正17年(1589年)に没すると外孫の忠政が養子となって後を継ぎました。
しかし翌年家康は関東に移封され、忠政も上総国久留里城に移り、横須賀城には豊臣秀次の家臣・渡瀬繁詮が入って3万石(のち5000石加増)を賜ります。文禄4年(1595年)秀次に連座して改易となると、秀吉の命令により家臣の有馬豊氏が所領と家臣団を引き継ぎます。豊氏は秀吉没後は家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に与して戦功を挙げ、丹波国福知山6万石に国替えとなりました。
家康は横須賀城に再び大須賀忠政を封じ6万石を授けます。忠政は豊臣時代の重税を撤廃し、城下町の建設や検地を行って藩政の基礎を築きますが、慶長12年(1607年)27歳の若さで病没しました。子の忠次は3歳で家督を継ぎ、元和元年(1615年)上野国館林藩主・榊原氏の養子となります。横須賀6万石は一時幕府領となり、元和5年(1619年)に松平重勝が2万6000石で入りますが翌年没し、子の重忠は翌年出羽上山に国替えとなりました。
次いで老中の井上正就が5万2500石を授かり入りますが、寛永5年(1628年)江戸城内で殺害され、子の正利が後を継ぎます。彼は弟に5000石を分与し、石高は4万7500石となりました。正利は菩提寺の本源寺を建立し、城下町の整備を行うなどした後、正保2年(1645年)常陸笠間藩に加増転封されます。続いて井上正就の外孫の本多利長が5万石で入りますが、遊興に溺れ悪政を敷いて人心を失い、天和2年(1682年)に改易されます。
次いで西尾忠成が2万5000石で入り、以後明治維新まで8代180年余に渡り西尾氏が藩主として存続しました。西尾氏は三河吉良氏の末裔と称し、家康の重臣・酒井重忠の子が養子に入って家督を継いでおり、忠成はその養子の孫にあたります。彼は城下町の整備を進めますが、宝永地震で港が塞がるなど災難もあり、正徳3年(1713年)子の忠尚に家督を譲り隠居しました。
忠尚は奏者番、寺社奉行、若年寄を経て老中に昇進し、遠江国内に1万石の加増地を得て石高は3万5000石に増えました。彼は幕閣として江戸にとどまることが多く、藩政は城代家老らが取り仕切りましたが、江戸文化が導入されて横須賀城下は栄え、港が潰れたことから地場産業の街として発展していきます。養子として後を継いだ忠需は息子・忠移の正室に田沼意次の娘を迎え、ともに産業振興による藩財政の再建を行い、蘭学を好んで多くの文化人を招いています。また忠移は老中・牧野貞長の子・忠善を養嗣子としていたため、意次失脚後も縁者でありながら失脚はせず、相良城の破却をつとめました。
井伊谷藩
遠江西部、浜名湖の北に位置する井伊谷は、平安時代後期より井伊氏が治める地でした。井伊氏は藤原北家の末裔と称し、保元の乱では源義朝に付き従い、鎌倉時代にも御家人として幕府に仕え、南北朝時代には後醍醐天皇の皇子・宗良親王を迎えて北朝と戦っています。その後は遠江守護の今川氏に服属しますが、桶狭間の戦いで当主の直盛が戦死し、従兄弟の直親が家督を継ぎます。しかし家老・小野道好の讒言により謀反の疑いをかけられ、永禄5年(1562年)今川氏真に誅殺されました。
直親の子・虎松はわずか2歳で、氏真はこれも殺そうとしますが、氏真の家臣の新野親矩に引き取られます。翌年には直親の祖父・直平が虎松の後見人として井伊家を率いますが同年に没し、永禄7年(1564年)には新野親矩も討死します。やむなく直盛の娘(男子とも)で出家していた次郎法師が家督を継ぎ、井伊次郎直虎と名乗ったとされます。この間の経緯には諸説ありますが、混乱の中で井伊氏は勢力を弱め、他の国衆が勢力を強めました。
永禄11年(1568年)末に武田信玄が駿河に侵攻すると、今川氏真は遠州掛川に逃れ、小野道好に命じて井伊谷を横領させ、その兵力で加勢するよう命じます。数え8歳の虎松は隣国三河の鳳来寺に逃がされ、三河を平定していた徳川家康は、これを好機として遠江へ侵攻を開始します。東三河の国衆である近藤康用・菅沼忠久・鈴木重時は家康に呼応して道好を撃退し、井伊谷周辺に所領を授かりました(井伊谷三人衆)。この時に直虎は戦死したともいいます。家康はそのまま遠江南部を制圧して氏真を屈服させ、遠江の領有権を巡って武田氏と戦い続けました。
出家した虎松は天正2年(1574年)に菩提寺の龍潭寺を訪れ、父の菩提を弔いました。井伊氏の人々は相談して彼を家康に仕えさせることとし、虎松の母を家康の家臣・松下清景と再婚させ、彼を介して翌天正3年(1575年)に家康に虎松を謁見させました。数え15歳の虎松は家康の小姓とされ、井伊氏に復して万千代の名を授かり、父祖伝来の所領の領有を認められます。天正10年(1582年)22歳で元服すると井伊直政と名乗り、家康きっての猛将として数々の戦いで武功をあげ、家康が関東に移封されると上州に12万石を賜り、関ヶ原の戦いの後は近江国佐和山18万石の大名に封じられました。
この頃、井伊谷三人衆とその子孫らは、自分たちより出世した井伊直政とその家の家臣団として組み込まれていきます。近藤康用の子・秀用はこれに反発して出奔しますが、慶長7年(1602年)直政が没すると徳川家康の子・秀忠に召し出されます。彼は上州青柳に5000石、相模に1万石を授かって大名に列し、のち子の用可に5000石を分けて1万石となります。元和5年(1619年)に井伊谷を含む遠江国内に国替えされて井伊谷藩を立てますが、翌年子の貞用に3000石余を分知したため石高が1万石を割り、大名ではなくなります。寛永8年(1631年)に秀用が没すると遺領は一族に分割され、大名に次ぐ大身旗本として存続しました。
◆井伊◆
◆直虎◆
【続く】
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