【つの版】度量衡比較・貨幣206
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は遠江の西、三河編です。

◆家◆
◆康◆
古代三河
三河国は東海道に属し、東は遠江、南は海、西は尾張、北は美濃と信濃に面しています。おおよそ愛知県の東半分で、東は梅田川水系の境川、西は三河湾北西部の衣浦湾と、そこに注ぐ境川を、北は矢作川上流部を境としています。古くは三川・参河・水河と表記され、矢作川と乙川、東の豊川という三つの大河があったことに由来するとされます。ただ豊川流域(豊橋平野)を含む東三河は古くは穂国といい、本来の三河国は西三河のみを指していたとも言われます。
西三河
矢作川は三河第一の大河で、濃尾平野の東に岡崎平野を形成し、三河湾に注いでいます。この川のあたりには矢竹が多く、矢を作る職能民・矢作部がいたことに由来するとされます。下流部に多くの河道を刻んだ暴れ川でしたが、度重なる河川改修により河口が西へ移されました。流域には西から碧海郡・幡豆郡・額田郡・加茂郡があり、これらを西三河と呼びます。
境川と矢作川の間には碧海台地があります。氾濫による水没の心配は少ないものの降水量が少なく、明治時代に用水が作られるまでは水に乏しく原野が広がり、谷間で小規模な稲作が営まれ、多くの溜池が作られました。また乾燥した台地は武蔵野と同じく馬牧には向いており、三州馬と呼ばれる在来馬が陸上輸送や武家の乗騎として用いられています。
東三河
律令時代の三河国の中心地は東三河(古代の穂国)でした。西から宝飯郡・渥美郡・設楽郡・八名郡があり、10世紀以前は設楽郡も宝飯郡に含まれていました。豊川は設楽郡に発して南に流れ、長篠で西から来る宇連川と合流し、豊橋平野を経て三河湾に注ぎます。宇連川以南・豊川以東を八名郡、豊橋平野のうち豊川以北を宝飯郡、以南を渥美郡とします。三河国府は宝飯郡に置かれ、現在の豊川市国府町にあったといい、周辺には国分寺・国分尼寺も存在しました。しかし中世には国府の活動が衰退し、三河の中心地は西三河に移っていきます。
奥三河
三河国北部の高原地帯(三河高原)を、近年は「奥三河」と呼びます。北は美濃・木曽・信濃、東は遠江に接し、おおよそ額田郡・加茂郡・設楽郡・八名郡にまたがります。最高峰の茶臼山は標高1416mで、他の山もさほど高くはなく、花崗岩からなる隆起準平原が広がり、矢作川や豊川など多くの河川の上流部が深い渓谷を形作ります。岡崎平野と豊橋平野はこの高原によって分けられており、農耕には不向きですが、河川交通によって木材などが運ばれました。近世には信州伊那から矢作川上流部沿いに岡崎へ向かう三州街道(伊那街道)が整備されており、信州南端の根羽村はかつては三河国加茂郡に属していましたが、武田信玄の侵攻により信州に組み込まれました。
中世三河
平安時代後期には藤原南家の藤原季兼が額田郡司として荘園開発を進め、子の季範は額田冠者と称して尾張国熱田大宮司を継ぎ、娘を源義朝に、孫娘を足利義康に嫁がせています。のち三河は平家の知行国のひとつとなりますが、平家が木曽義仲に都を追われた後、寿永3年(1184年)義仲の討伐に功績を挙げた源範頼(頼朝の異母弟)が三河守に叙任され、建久4年(1193年)に失脚するまでその任にありました。また頼朝は鎌倉と京都を結ぶ街道沿いに矢作東宿を設置します(現岡崎市明大寺町)。宝飯郡にあった国府は機能が停止していたため、以後はここが事実上の国府となります。
その後は頼朝の側近・安達盛長が三河守護に任じられ、承久の乱の後には足利義氏が三河守護となり、以後足利氏が代々世襲しています。義氏は源義家の玄孫にあたり、北条時政の娘を母に、北条泰時の娘を正室に持ち、源氏の名門かつ執権北条氏の血を引く者として鎌倉幕府で重きをなしました。
彼の庶長子・長氏は三河国幡豆郡吉良荘の地頭職を父から譲られて吉良氏を称し、矢作川の西(西条)の西尾城を居城としましたが、彼の子のうち国氏は父の隠居領であった幡豆郡今川荘を相続し、今川氏の祖となりました。義氏の嫡男・泰氏の子から足利尾張守家(後の斯波氏)、渋川氏、石塔氏、加古氏、一色氏、上野氏、小俣氏、麻植氏など多くの分家が出ましたが、このうち一色氏は吉良荘一色(現西尾市一色町)、上野氏は碧海郡上野荘(現豊田市南部)を領したことによります。
義氏の従兄弟である義実は三河国加茂郡広沢村に住んで広沢氏を称し、嫡男は額田郡仁木郷(現岡崎市仁木町)に移って仁木氏の祖となり、次男は同郡細川郷(現岡崎市細川町)に移って細川氏の祖となりました。三男は幡豆郡戸賀崎郷(現西尾市戸賀崎町)に移り、その子は荒河郷(現西尾市八ツ面町)に移って荒川氏の祖となりました。このように、足利氏の一門の多くの本貫地は三河国にあるのです。
泰氏の玄孫である足利高氏は、後醍醐天皇が西国で起こした乱を平定するため幕府の命令で上洛しますが、三河国八橋(現愛知県知立市八橋町)まで来たところで吉良貞義らに対し「天皇に御味方する」と打ち明け、同意を得ます。そして上洛するや幕府を裏切って六波羅探題を滅ぼし、同時に鎌倉を襲撃させて幕府を滅ぼしました。この功績により高氏は後醍醐天皇より偏諱を賜って尊氏と名乗りますが、やがて天皇をも裏切ることになります。
尊氏は執事・高師直の一族に三河など諸国の守護職を授けましたが、師直らが粛清されると仁木義長が授かり、彼の没後は一色範光が継いで、以後4代60年間三河守護職を独占します。応永6年(1399年)の河川改修により乙川が矢作川に合流し、付近の岡崎は東の山地から運ばれる木材の集積地となり、賑わっていきます。しかし永享12年(1440年)に一色義貫が暗殺されて三河守護職を細川氏に奪われ、勢力が衰えていきました。この頃、三河には松平氏という新興勢力が出現しています。
三河松平
松平氏は、三河国加茂郡松平郷(現愛知県豊田市松平町)を本貫地とする武家です。後世の系譜では清和源氏新田氏支流の得川氏(世良田氏)の後裔である親氏が松平郷の領主・松平信重の婿養子となって家督を継いだとしますが仮冒と見られ、その子ないし孫の松平信光から同時代資料に現れます。
信光ないしその父・泰親は南西の矢作川東岸にある額田郡岩津(現岡崎市岩津町)に岩津城を築いて新たな拠点とし、松平郷は信光の兄・信広が継承しました。信光は室町幕府政所執事である伊勢貞親の被官となり、京都に出仕して将軍家直轄領(御料所)の経営にも関わり、西三河の平野部に勢力を拡大して多数の分家を創設しました(のちの十八松平)。同時期には大給・大草の松平氏も独自の動きを見せ、近江では京極氏の代官・松平益親が三河から援軍を迎えて軍事行動をしています。これは将軍・足利義教が三河守護の一色義貫を暗殺し、細川持常を後任とした混乱によるものです。
その後も三河国の混乱は収まらず、一色氏・細川氏・伊勢氏・吉良氏などを奉じる土豪同士が相争い、関東の古河公方に呼応して幕府に反旗を翻す者まで現れます。彼らは各地の道路を封鎖して京都への貢税官物を掠奪したため、驚いた幕府は三河守護の細川成氏(持常の甥で養嗣子)に鎮圧を命じますが、松平信光や碧海郡の土豪・戸田宗光は彼の命令に従わず、成氏は彼らの上司である伊勢貞親に働きかけて一揆を鎮圧させました。翌年貞親が失脚し、その翌年に応仁の乱が始まると、信光・宗光はともに細川成氏に従って東軍に属し、三河奪還を図る一色氏らと戦っています。
しかし守護代の東条国氏は一色義直の攻撃により自害し、細川成氏も三河守護職を解任され、以後の三河には守護代も守護職もいなくなり、様々な勢力がしのぎを削る戦国時代に突入します。こうした中で信光は西三河へ進出し、戸田宗光は東三河の渥美郡に進出して三河湾沿岸を掌握し、両者は婚姻関係を結んで同盟しました。信光の三男・親忠は鴨田郷(現岡崎市鴨田町)に拠点を置き、その子・長親は碧海郡の安祥(現安城市)に移り、安祥松平家の祖となりました。彼の時代に駿河の今川氏親・伊勢盛時らは遠江を平定して三河に攻め寄せて岩津城を落とし、これを機に松平氏宗家の地位は岩津家を離れて安祥家に移ることとなります。
長親は天文13年(1544年)まで90歳もの長寿を保ちましたが、子の信忠は父の後見を受けたものの武将としての才能がなく、大永3年(1523年)34歳で嫡男の清康に家督を譲り隠居させられます。清康は期待通りの活躍を見せ、岡崎城を攻めとって拠点を移し、三河をほぼ平定して尾張へも侵攻しますが、天文4年(1535年)末に25歳の若さで家来に暗殺されます。子の竹千代(広忠)は数え10歳でしかなく、信忠も4年前に没しており、長親の黙認を受けた大叔父の信定(長親の三男)に追放されます。広忠は東条の吉良持広を頼り、次いで今川義元に支援を要請して岡崎城に帰還しますが、尾張の織田氏はこの混乱を好機として西三河に侵攻します。広忠は織田と今川の狭間で翻弄された末、天文18年(1549年)24歳の若さで没しました。
松平信光―親忠―長親―信忠―清康―広忠
広忠の子・竹千代は数え8歳で、尾張の織田信秀のもとに送られていましたが、駿河の今川義元は同年に信秀の庶長子・信広と交換で竹千代を手に入れ、駿府へ送って養育しました。のちの松平元康、すなわち徳川家康です。岡崎城などには今川氏から城代が送り込まれ、三河は今川氏の支配下に入ることとなります。
◆家◆
◆康◆
【続く】
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