見出し画像

【つの版】度量衡比較・貨幣200

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。ついに200です。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は甲斐国の南、駿河国です。

静岡県

◆どうする◆

◆家康◆


駿河略史

 駿河国は現在の静岡県中部に位置し、五畿七道のうち東海道に属します。東は足柄峠を境として相模に接し、南東は狩野かの川を境として伊豆に面し、南は駿河湾に向かい、西は大井川を境として遠江に接し、北西は大井川の源流である赤石山脈(南アルプス)に遡って信濃に達し、北は富士山と富士川・稲子川の合流地点を境として甲斐に接しています。

 古くは富士川の東、伊豆半島の付け根の狩野川あたりまでを珠流河するがといい、北東は足柄峠と富士山南麓まで(後の駿東郡・富士郡)がその領域でした。現在の富士市浅間古墳は4世紀頃に築造されており、珠流河国造に相当する人物の墳墓と推測されています。富士川から西、大井川までは廬原いほはら国(後の廬原郡・有渡郡・安倍郡・志太郡・益津郡)といい、静岡市南部を中心とする廬原国造の治める領域でした。1世紀には静岡市駿河区に水田を伴う弥生時代の集落(登呂遺跡)が築かれています。日本武尊は尾張から相模へ向かう途中、焼津で賊に襲われたといいます。

 焼津の東には大崩おおくずれ海岸があり、崩落しやすい断崖絶壁が連なり通行できません。そのため古来内陸の日本坂(標高309m)が焼津から東との主なルートで、東海道もここを通っています。

 7世紀には珠流河国と廬原国が合併されて駿河国が成立します。『先代旧事本紀』国造本紀によると、これは孝徳天皇の大化の改新の時で、当初は伊豆を含んでおり、伊豆半島の付け根にある現沼津市大岡に国衙が置かれ、駿河郡駿河郷と呼ばれていました。『扶桑略記』によると天武天皇9年(680年)7月、駿河国から東部2郡(田方郡と賀茂郡か)を分けて伊豆国とし、駿河国の国衙は安倍郡南部(現静岡市葵区、駿府)に移転しました。

 移転後まもない天武13年(684年)には東海・南海トラフ沖を震源とする巨大地震(白鳳地震)が発生しており、駿河国も大きな被害を受けたと思われます。また延暦19‐21年(800-802年)には富士山が噴火し、駿河と相模の境で東海道が通っていた足柄峠が一時封鎖され、バイパスとして伊豆と相模の境を通る箱根峠が整備されます。また貞観6年(864年)にはまたも富士山が大噴火を起こし、富士北麓にあった湖が溶岩に飲み込まれました。その後も富士山はしばしば噴火しており、嘉保3年(1096年)には東海道沖で大地震が発生(永長地震)、駿河の寺社や民家400戸余が津波で流出しました。

 知承・寿永の乱(源平合戦)においては武田信義らが甲斐より富士川を下って駿河に攻め寄せ、富士川の合戦で平家の軍勢を敗走させて駿河を獲得します。しかし元暦元年(1184年)源頼朝により隠居させられ、源広綱(頼政の子)が駿河守に、頼朝の舅である北条時政が駿河守護に任じられます。これは時政の後妻が駿河国駿河郡大岡牧(現沼津市)を領した駿河牧氏の出身だったためで、その後も駿河守・駿河守護職は時政の子孫の北条氏がほぼ独占しました。ただ牧氏は時政の先妻の子・義時らと対立し、元久2年(1205年)に時政ともども失脚して没落しています。

 鎌倉幕府が滅亡すると、足利尊氏は後醍醐天皇より駿河と伊豆の守護職を授かり、親戚の石塔義房を守護代(のち守護)として派遣します。建武4年/南朝の延元2年(1337年)義房はこれを解任され、奥州総大将として陸奥へ派遣されます。代わって駿河守護となったのは今川範国でした。

駿府今川

 今川氏は足利氏の分家・吉良氏のそのまた分家にあたり、三河国幡豆郡今川荘(現愛知県西尾市今川町)を本貫としました。尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻すと今川氏もこれに従い、各地で戦功をあげます。しかし今川氏当主であった頼国は弟の範満ともども中先代の乱で討死し、残った範国は遠江守護に任じられ、次いで駿河守護職を兼任したのです。これより230年の長きにわたり、今川氏は駿府を拠点として駿河を治める守護大名となります。

 駿河今川氏は室町幕府の重臣として関東の鎌倉公方を牽制する役もあり、しばしば鎌倉に遠征して反乱を制圧しています。しかし遠江守護職は応永26年(1419年)より斯波氏に奪われ、分家にあたる遠江今川氏は衰退します。応仁の乱の時、遠江守護の斯波義廉は西軍に属したため、駿河今川家当主の義忠は東軍につき、遠江へ侵攻しますが討死しました。子の龍王丸はまだ幼く、父の従兄弟の小鹿範満が家臣団に擁立され、相模の扇谷上杉氏や伊豆の堀越公方(足利氏の分家)からも支持を集めました。

 これに対し、幕府は龍王丸の母の弟である伊勢新九郎盛時を駿河に派遣します。彼は龍王丸が元服するまで範満が家督を代行するという条件で和睦を成立させますが、龍王丸が元服して氏親と名乗った後も範満が家督を譲らなかったため、兵を率いてこれを討伐します。盛時は氏親の後見人として事実上の駿河守護代となり、堀越公方の直臣として伊豆に所領を授かりました。のち堀越公方が後継者争いを起こすと、盛時(この頃出家して早雲庵宗瑞)は伊豆へ侵攻して平定し、氏親とともに遠江に侵攻します。これにより遠江は今川氏の手に戻り、永正5年(1508年)には幕府から90年ぶりに遠江守護職を授けられました。さらに宗瑞は相模・武蔵、氏親は三河・甲斐へ勢力を広げ、両者は協力して東海道諸国にまたがる大勢力を築き上げます。

 大永6年(1526年)氏親が没すると、子の氏輝が跡を継ぎますがまだ14歳の少年で、彼の母である寿桂尼が後見人となって輔佐します。彼女は藤原北家勧修寺流の中御門家の出で、晩年病床にあった氏親を輔佐しており、氏輝が16歳になるまで公文書を発給し「尼御台」と呼ばれました。しかし天文5年(1536年)24歳の氏輝が急死し、次弟の彦五郎も同日に急死したため、寿桂尼は仏門に入っていた自らの三男・栴岳承芳を還俗させ、義元と名乗らせて擁立しました。義元の庶兄・玄広恵探は母の実家である福島氏に擁立されて挙兵しますが鎮圧され、17歳の義元が家督を相続します。

 氏親の最晩年である大永6年には東国最古の分国法『今川仮名目録』が制定されています。これは土地などに関する訴訟の裁定規準などを定めたもので、のち義元はこれに追加を行っています。

今川義元

 義元は家督相続の翌年、甲斐の武田信虎の娘を正室に迎えて和睦・同盟しますが、これは長年同盟を結んでいた早雲の子・北条氏綱を怒らせ、駿河東部(河東)への侵攻を招きます。また天文9年(1540年)からは尾張の織田信秀が三河に侵攻し、今川氏は東西から挟み撃ちにされます。氏綱は天文10年に没したものの、頼みの信虎は同年駿河へ訪問した際に嫡男晴信(信玄)に退路を塞がれ、義元は彼の身柄を預かりつつ晴信との同盟を継続します。

 天文14年(1545年)、今川義元は関東管領・上杉憲政、古河公方・足利晴氏と同盟し、北・西・東の三方から北条氏を攻撃します。氏綱の子・氏康は武田晴信を仲介として義元と和睦し、河東の地を今川氏に返還して関東方面へ戦力を集中させました。これにより東方を安んじると、義元は三河への進出を強め、西三河の松平広忠を支援して尾張の織田信秀に対抗しました。

 松平氏は応仁の乱前夜頃から西三河の有力国衆として現れますが、天文4年(1535年)に松平清康が暗殺され、子の広忠が跡を継いだものの織田信秀の侵攻を受けて苦境に陥っていました。広忠は後ろ盾として今川氏を頼り、義元はこれを支援したのです。しかし広忠は美濃の斎藤道三と結んで自立をはかり、信秀と義元は一時的に手を組んで広忠を挟み撃ちします。広忠は嫡男の竹千代を信秀のもとへ送って和睦しますが、天文18年(1549年)に急死しました。状況的に暗殺された可能性もあるものの定かでありません。後世の話では竹千代はもともと義元のところへ送られる予定だったのを、家臣が裏切って信秀に渡したとされています。広忠が義元を裏切ったとなると外聞がよくないため、そう伝承されたのでしょう。

 同年に信秀の庶子・信広が今川氏の捕虜となり、彼と交換で数え8歳の竹千代が今川氏に引き渡されます。竹千代は人質として駿府に送られ、広忠の居城であった岡崎城には今川氏の城代が送り込まれ、松平氏は事実上今川氏の家来となります。義元は竹千代を厚遇し、天文24年(1555年)に14歳で元服すると偏諱を授けて松平元信と名乗らせました。後の徳川家康です。

 同年、義元の軍師・太原雪斎が没しました。彼は幼い義元の教育係をつとめ、家督相続にも尽力し、政治・軍事の両面で全面的に輔佐した人物です。天文23年(1554年)には武田晴信と北条氏康に呼びかけて甲相駿三国同盟を締結させています。これにより東と北の憂いをおさめた義元は、ますます三河・尾張への進出を強めますが、織田信秀の後を継いだ信長は三河の国衆を支援して反今川氏の火を煽り立てます(三河忩劇)。

 これに対し、義元は永禄元年(1558年)に松平元信改め元康らを三河に派遣して反乱を鎮圧させ、三河全土を支配下におさめます。彼は8歳から駿府で育てられ、15歳の時には遠江今川氏の一族・関口氏純の娘(築山殿)を娶っており、彼にとっては父祖の地である三河より、義元のもとで大いに栄えていた駿河・駿府の方が親しみ深い土地でした。

 駿河の石高は慶長3年(1598年)の太閤検地時に15万石しかなく、伊豆(7万石弱)の倍はあるものの、相模(19万石)・甲斐(22.7万石)・遠江(25.5万石)・三河(29万石)より少なく、尾張の57万石には遠く及びません。山がちで平地が乏しく、富士山麓で火山灰土が多いためですが、駿河・遠江・三河の三国を併せれば69.5万石で、尾張半国に満たない信長よりは上です。また沼津に大岡牧があったように馬牧には向いており、安倍郡の山中には古くから金山があり、駿河湾に面した清水湊を介して諸国との交易も盛んでした。これにより駿府は「東の都」と呼ばれるほど富み栄えたのです。

 同年、40歳の義元は21歳の嫡男氏真に家督を譲り、駿河と遠江の統治を委ねます。氏真は武田信虎の娘を母に、北条氏康の娘を妻に持ち、三国同盟を束ねる存在として次代を担える人物でした。義元は名目上隠居しますが実権は握り続け、新領土の三河の鎮圧と経営に力を注ぎ、さらに尾張への侵攻をもくろみます。信秀没後の内紛で尾張南部は今川氏についており、駿河・遠江・三河を抑えた義元が尾張へ侵攻すれば、織田氏は滅ぼされかねません。

 永禄3年(1560年)5月、呼号2万5000の大軍を率いて駿府城を出発した今川義元は、三河国池鯉鮒(知立市)を経て尾張国愛知郡沓掛城に入ります。目的は上洛ではなく、信秀が今川氏の分家を追放して奪った那古野城を奪還することであったようです。松平元康は織田軍に包囲されていた大高城に入り兵糧を届けますが、義元は大高城に向かう途中の桶狭間で織田軍の奇襲を受け、討ち取られます。おそらくは織田軍も義元がいたとは気づかず奇襲をかけたものと思われますが、総大将が敢え無く討死したことで今川方は総崩れとなり、19歳の元康は大混乱の中で生き残りの道を探ることとなります。

◆どうする◆

◆家康◆

【続く】

いいなと思ったら応援しよう!

三宅つの つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。