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【つの版】度量衡比較・貨幣201

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は駿河国の続きです。

静岡県

◆どうする◆

◆家康◆


今川氏真

 永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が討死した時、嫡男の氏真は23歳の若者でした。今川を支えてきた重臣や国衆も混乱の中で討ち取られ、遠江や三河の国衆の中には離反する者も現れ始めます。ことに最前線の三河は対尾張の最前線として様々な負担がのしかかり、駿府で育った松平元康はさておき、地元の国衆や民衆には反今川の感情も根強かったのです。

 義元が討死した時、元康は19歳の若武者でした。彼の母方の叔父である水野信元は使者を遣わしてこれを知らせ、元康は物見を出して事実を確認したのち、翌日松平氏の菩提寺である大樹寺に入りました。あまりのことに自害しようとしますが家来たちに引き止められ、数日後に岡崎城から今川軍が撤退すると、元康はひとまず岡崎城に入ります。

 ここは父祖以来の松平氏の居城であり、西の矢作川を防衛線として織田勢の攻撃を防ぐ要地にあります。妻子も駿府に人質としているため、この時点では元康が今川氏を裏切ったわけではありませんが、駿府の氏真からは支援が届かず、三河は織田勢の侵略と調略に晒されました。同年8月末には長尾景虎(のちの上杉謙信)が越後から上野に侵攻し、北条氏康は娘婿の氏真に支援を要請します。やむなく氏真は援軍を派遣しますが、景虎は大軍を率いて武蔵・相模を南下し、翌年3月には小田原城を包囲するに及びます。

 これは武田信玄の援軍で撤退しますが、孤立無援となっていた元康は同年2月に室町幕府の将軍・足利義輝へ直接使者を派遣し、駿馬を献上しています。これで幕府の後ろ盾を得た元康は(おそらく信長の支援もあって)ついに今川氏を裏切り、同年4月に南東の今川氏の拠点である牛久保城(現愛知県豊川市牛久保町)を奇襲します。事前に国衆らを調略しておいたにも関わらずこれは失敗し、続いて岡崎城の南の東条城(現愛知県西尾市吉良町)にも攻め寄せますが大敗を喫します。元康の裏切りに激怒した氏真は「松平蔵人逆心」「三州錯乱」と称して反撃を開始しました。

 しかし元康の反乱に呼応して、三河・遠江の国衆たちは次々と今川氏に反旗を翻します(遠州忩劇)。氏真は彼らの人質を処刑しますが火に油で(築山殿は今川一門なので処刑されていません)、元康は足利義輝の手紙を駿府に送って牽制しつつ、永禄5年(1562年)織田信長と手を結びました(清洲同盟)。翌永禄6年(1563年)に今川家の重臣・鵜殿長照の子らとの捕虜交換で妻子を奪還すると今川氏からの自立を宣言し、義元の偏諱である元の字を捨てて「家康」と改名します。氏真は三河討伐のため領国から臨時徴税を行い、三河一向一揆が今川勢と結んで挙兵しますが、武田氏や北条氏からの援軍をあてにして関東に兵を送り、三河討伐は後回しにされます。

 松平家康は勢いに乗じて三河国を統一し、永禄9年(1566年)に朝廷より三河守に叙任されました。なお松平氏は祖父の清康の頃から清和源氏新田氏庶流の世良田(得川)義季の子孫と称していましたが、義季の子・頼氏が三河守になった前例があることから、家康個人は得川えがわ氏の末裔として「徳川氏」と改め、徳川家康と名乗ることとなります。

駿河侵攻

 織田信長は永禄8年(1565年)に尾張を統一し、同年11月には武田信玄と同盟を結び、妹の娘を養女として信玄の子・勝頼に娶らせます。信玄の嫡男義信は今川義元の娘を妻としていたため、同年10月に謀反を起こそうとしますが幽閉され、永禄10年(1567年)10月に30歳で死去しています。同年5月には信長の娘・五徳姫が家康の嫡男・信康に嫁いでおり、美濃を平定した信長は足利義昭を奉じて上洛の準備を進めていました。

 永禄11年(1568年)12月6月、信玄は「氏真が盟約に違反した」として同盟を破棄し、大軍を率いて駿河へ侵攻します。やり手の寿桂尼は同年3月に没しており、上杉・北条・織田は強敵ですから、衰退した今川を狙うのは当然です。事前に入念な調略を進めていたことにより今川方の家臣は次々と離反し、やむなく氏真は遠江掛川へ逃げ、侵攻開始から僅か7日で武田軍は駿府に入ります。北条氏は駿河・遠江へ援軍を送りますが、徳川家康は遠江へ侵攻して今川勢と戦い、激戦の末に信玄は一時甲斐へ撤退します。駿河のうち駿府は武田、富士・駿東は北条が抑えました。氏真は掛川城で徳川勢を防いでいましたが、翌年徳川と北条が和睦して開城が決まりました。

 氏真は妻の実家である北条氏を頼って伊豆から小田原へ移りますが、北条氏康の孫で氏政の子の国王丸(氏直、母は信玄の娘)を養嗣子として隠居、家督を譲らされます。氏康は信玄の背後を脅かす上杉輝虎(謙信)と同盟、一時は駿府を占領しますが、信玄は伊豆や関東の北条領を攻撃して駿河から北条軍を撤退させ、元亀2年(1571年)までには駿河一国をほぼ制圧しました。この間に家康は武田と遠江の領有権を巡って対立を深め、翌年信玄は遠江・三河へ進軍して家康と対決することとなります(西上作戦)。

 元亀2年に北条氏康が没すると、子の氏政は信玄と和睦し、氏直と氏真の養子縁組も解消します。氏真は翌天正元年(1573年)小田原から遠江浜松城に移り、ここを居城としていた家康を介して父の仇の信長と接触します。同年に信玄が没すると駿河奪還の動きを強め、天正3年(1575年)の長篠の戦いにも家康と同行して参戦し、遠江国諏訪原城(牧野城)に入って城主となっています。この頃に出家して宗誾そうぎんと名乗りますが、家康の客分として浜松で活動しており、北条氏との外交にも関与していたようです。

 対する武田氏は、永禄11年末に駿府を接収すると江尻城を築城し、山県昌景を城代としました。これは駿府の東、清水湊の近くにあり、巴川の水を濠に引き入れたもので、駿河・遠江・三河における軍政の拠点となりました。長篠の戦いで昌景が戦死すると武田家一門衆の穴山信君が城代となります。

駿府政権

 徳川家康は浜松城と掛川城を拠点として武田と戦い続け、天正9年(1581年)に遠江東部の要衝・高天神城(現静岡県掛川市土方)を陥落させます。翌天正10年(1582年)2月には織田信長・信忠率いる大軍が木曽から武田領信濃に侵攻し、家康はこれと呼応して遠江から駿河に侵攻、北条氏政も駿河や上野へ侵攻を開始します。家康は穴山信君(梅雪)を寝返らせて駿河を制圧、3月には甲斐に侵攻し、甲府で信忠と会見します。進退窮まった武田勝頼は自刃に追い込まれ、武田家はあっけなく滅亡したのです。

 信長は論功行賞と旧武田領の配分を行い、家康は遠江と駿河の領有を認められ、三河一国を併せて今川義元の全盛期に匹敵する大大名となります。同年6月に信長が本能寺の変で横死すると、河内にいた家康は近江・伊賀・伊勢を経て海路で三河に駆け戻り(同行していた梅雪は途中で客死)、遠江・駿河のみならず信濃・甲斐の諸将にも手紙を書き送って調略を行います。北条氏政・氏直は上野から信濃・甲斐に侵攻しますが、武田家遺臣と結んだ家康に撃退され、甲斐一国と信濃南部は家康に掌握されました。

 天正13年(1585年)、家康は少年時代を過ごした駿府の地に駿府城を建設し、翌年浜松城から移って領国の中心とします。今川氏の血を引く妻の築山殿は天正7年(1579年)に子の信康ともども横死していましたが、家康は育ての父たる義元の事実上の後継者として、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国に及ぶ巨大な領国を築き上げたのです。

 これを警戒した豊臣秀吉は、天正18年(1590年)に小田原征伐で北条氏を滅ぼすと、家康を関八州に国替えしました。空いた領国には豊臣派の武将が封じられて家康を牽制することとなり、駿河には早くから秀吉に仕えて数々の手柄をたてた中村一氏が封じられます。しかし秀吉没後は家康に味方し、関ヶ原の戦いの直前に病没したものの、弟で沼津城主の一栄が代理として従軍します。戦後に家康は一氏の子・一忠を11歳で伯耆国米子城主とし、一栄を後見人につけました。

 代わって駿府城主となったのは家康の異母弟にあたる内藤信成で、4万石を領しました。また中村一栄に代わって譜代の武将・大久保忠佐が沼津城主とされ、2万石を領しています。沼津城の北西の興国寺城には天野康景が1万石で入り、益津郡の田中城(現藤枝市田中)には酒井忠利が1万石で入っています。しかし慶長11年(1606年)に信成は近江長浜城へ国替えとなり、前年に将軍職を子の秀忠に譲って大御所となった家康自身が翌年駿府城に隠居として入ることとなります(駿府政権)。彼は東国の統治を江戸の秀忠に任せ、自らは駿府や二条城にあって朝廷や豊臣氏との政治交渉を担いました。

 同慶長12年(1607年)には天野康景が不祥事を起こして改易され、慶長14年(1609年)には酒井忠利が武蔵国川越城に移され、慶長18年(1613年)には大久保忠佐が没して無嗣改易となります。また家康は慶長14年末に駿府城主の座を十男の頼将に譲っています。彼は慶長7年生まれですからまだ数え8歳で、領国は駿河のみならず遠江と東三河を併せた50万石余にも及びましたが、実権は家康と家臣団が握り続けました。

 今川氏真は家康の関東転封後、妻子とともに京都へ移り住み、秀吉や家康から捨扶持を与えられて公家たちと交流しつつ穏やかに暮らしました。嫡男の範以が慶長12年に没した後、氏真は慶長17年に駿府で家康と面会し、江戸南部の品川に屋敷を与えられて晩年を過ごしました。そして妻を看取った後の慶長19年末(1614年)、77歳で大往生を遂げています。彼の子孫は江戸幕府に仕えて500石(のち1000石)の知行を食み、吉良家ともども朝廷と幕府の間を取り持つ高家旗本として尊重されました。しかし明治維新後は家禄のほとんどを没収されて没落し、明治20年に絶家しています。

 頼将は元和2年(1616年)4月に家康が薨去したのち頼信と改名し、元和5年(1619年)に紀伊・伊勢55万5000石に転封されて頼宣と改名、紀州徳川家の祖となりました。駿河は幕府直轄領となり、遠江・東三河の旧領には各地に諸侯が封じられます。

 寛永元年(1624年)7月、前年に嫡男家光に家督と将軍位を譲って大御所となった徳川秀忠は、家光の弟で甲斐国主としていた忠長に駿河と遠江東部(掛川藩領)を加増して55万石の大名とします。2年後に権大納言に叙任されたことから、彼は「駿河大納言」と呼ばれるようになりました。しかし傲慢で癇癪持ちの暗君であったため父から疎まれ、寛永9年(1632年)に秀忠が薨去すると改易となり、翌年切腹を命じられます。以後駿河は田中藩等を除いて幕府直轄領に戻され、幕末まで駿府城代が置かれて統治と維持管理を委任されることとなりました。家康が少年期と晩年を過ごした駿府は徳川家にとって聖地のひとつとなり、明治維新後は徳川宗家を継いだ田安家の家達が一時駿府(静岡)藩主に封じられています。

◆家◆

◆康◆

【続く】

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