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【つの版】ウマと人類史:近代編19・黒船来航

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1842年、英国は清朝との戦争に勝利し、不平等条約を押し付けて開国させました。ロシアや英国の脅威に晒されていた日本は震撼し、幕府や諸藩は改革を迫られます。そして最終的に日本を開国させたのはアメリカでした。

◆米◆

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西部進出

 現代では超大国のアメリカ合衆国(米国)ですが、当時は西方拡大の真っ最中でした。1803年のルイジアナ買収でナポレオンから広大な領土を譲渡され、大きく北米内陸部へ広がった米国は、1815年に終結した米英戦争により英国から政治的・経済的独立を果たします。1819年には反米勢力の砦であったフロリダをスペインから奪って併合しました。1823年、米国大統領モンローは「欧州諸国の紛争に干渉しない。南北米大陸のさらなる属領化・植民地化は米国への脅威とみなす」との年次教書を出し、孤立主義をとります。

 これは欧州諸国による中南米植民地の独立運動への干渉を牽制することに加え、ロシアによるアラスカからの南下政策を牽制する意図もありました。米国は北米先住民であるインディアンを掃討して土地を奪い、1821年にスペインから独立したメキシコを承認しますが、メキシコの混乱につけこんで多数の移民を送り込み、1836年に北部のテキサスを独立させました。

 さらに1845年にはテキサス共和国を米国に併合し、反発したメキシコは翌年対米国戦争(米墨戦争)を開始します。米国はメキシコを散々に打ち破ってメキシコシティまで進軍、カリフォルニアなどを征服して太平洋まで到達しました。その北のオレゴンなども英国との交渉で獲得しています。

 アメリカ合衆国はついに北米大陸の覇者となり、大西洋から太平洋まで到達したのです。まもなく1848年にはカリフォルニアでゴールドラッシュが発生し、世界中から30万人もの人間が集まりました。急速に発展する新興国アメリカは、灯火や工業用の鯨油を求めて太平洋に捕鯨船を送り込みます。

 1835年、米国は東インド艦隊を設立し、太平洋の彼方のアジア諸国への干渉を公的に開始します。清朝が阿片戦争に敗れて英国に不平等条約を押し付けられると、米国もすぐさま清朝と望厦条約を締結しています。

万次郎譚

 米国と日本は、18世紀末には接触を持っていました。オランダ本国がフランスに征服されたため、出島のオランダ商館長は米国船をオランダ船に偽装させて出島に入港させていたのです。英国がこれを知ってフェートン号事件を起こしたり、米国船モリソン号が英国船と誤認され打ち払われたりもしていますが、日本が薪水給与令を発布した1842年以後は、米国船も米国船として日本に立ち寄ることが可能となりました。ただオランダは対日貿易を独占する意図から、これを1851年まで欧米やロシアに対し公表していません。

 天保12年(1841年)、土佐国の漁民万次郎ら5名が足摺岬沖で暴風に遭遇し、伊豆諸島の南の無人島・鳥島に漂着しました。彼らは海鳥や海藻を食糧としながら140日以上生き続け、米国の捕鯨船に発見されて救助されます。船長のホイットフィールドは万次郎らを保護しますが、日本が鎖国していて米国船は寄港できないと判断し(漂流民を送還することは可能でしたが)、彼らを連れて太平洋を東へ向かい、ハワイのホノルルに寄港します。

 ハワイは18世紀末に英国の支援で統一王国が樹立され、英国・米国などと友好関係を結んでいました。当時盛んだった捕鯨船の寄港地として栄えたものの、欧米からは多数の入植者が到来してトラブルも起き、王国は欧米人に乗っ取られようとしていました。14歳の万次郎はここで仲間たちと別れ、アメリカ本土に行きたいと船長に願います。船長は彼を気に入って捕鯨船員に加え、船の名ジョン・ホーランド号に因んでジョンの名を与えます。

 捕鯨船は南アメリカのホーン岬を経由して大西洋に入り、1843年にアメリカ東海岸のマサチューセッツ州に戻りました。万次郎はホイットフィールドの支援で英語や航海術を熱心に学び、1846年からは正式な捕鯨船の船員として世界各地を巡りました。1849年には帰国の資金を貯めるためカリフォルニアに渡り、金を採掘しています。これを元手にしてホノルルへ戻ると、ハワイに残っていた仲間のうち二人を連れ、知り合いの商船に同乗して日本へ向かうことになります。1851年(嘉永2年)、琉球・薩摩を経て長崎に到着した万次郎らは様々な事情聴取を受けたのち、翌年11年ぶりに故郷土佐へ帰国します。彼は土佐藩士に取り立てられ、藩校の教授として後藤象二郎や岩崎弥太郎らを教え、海外の情報を日本にもたらしたのです。

 この間、米国は何度か日本と接触しています。1845年には22人の日本人漂流民が米国捕鯨船マンハッタン号によって送還され、浦賀に入港しました。翌年米国の軍艦2隻が浦賀に来て通商を求めますが、拒否されます。1846年には択捉、1848年には西蝦夷地に米国の捕鯨船が漂着し、乗員は長崎へ送られてオランダ船経由で帰国しました。また1848年にはラナルド・マクドナルドなる者が漂流者を装って利尻島から日本に密入国し、長崎へ送られています。彼は長崎奉行に依頼されてオランダ通詞に英語を教えました。

黒船来航

 1851年、米国大統領フィルモアは東インド艦隊司令官オーリックに大統領からの親書を授けて日本へ派遣し、開国を求めることにしました。英国と対立関係にある米国にとって、太平洋の対岸に寄港地・友好国ができれば大変助かりますし、清朝などへ進出するにも足がかりとなります。しかしオーリックは途中でトラブルを起こして解任され、翌年マシュー・ペリーが東インド艦隊司令官に任命され、改めて日本へ派遣されることとなりました。

 ペリーは先に日本と接触した人々から情報を集め、1851年から日本遠征を独自に計画し、海軍長官に提出していました。彼は「任務成功のためには4隻の軍艦が必要であり、うち3隻は大型の蒸気軍艦とする。日本人が書物で蒸気船を知っていたとしても、実物を目の当たりにすれば驚くであろう。清朝を英国が軍事力で開国させたように、友好的に接するより恐怖に訴えた方が多くの利点がある。またオランダの妨害を避けるため、長崎ではなく首都の近くの港に直接向かうべきである」と主張しています。

 1852年11月、ペリー率いる米国東インド艦隊はバージニア州ノーフォークを出航、ケープタウンからインド洋に向かい、セイロン島やシンガポール、マカオ、香港、上海、琉球、小笠原諸島を経て、1853年(嘉永6年)7月に浦賀に接近しました。この1年前、1852年7月には、オランダ商館長クルティウスから長崎奉行に「米国の艦隊が日本に派遣されようとしている」との詳細な報告がなされています。幕府はこれを認識し、諸大名や奉行らに情報を伝えていますが、三浦半島の防備を多少強化しただけで、下々には特に伝えられていませんでした。そのため人々は「黒船来航」に驚き、大勢の野次馬が江戸からもやってきて見物したといいます。

 ペリーは合計73門の大砲を備えた4隻の軍艦を臨戦態勢で浦賀沖に投錨させ、高圧的な態度で「大統領の親書を携えてきた。最高位の役人に迎えさせよ」と告げます。また勝手に小型の船舶を派遣して測量を行い、江戸を脅かして交渉を有利に進めようとします。幕府は将軍の家慶が病床に臥せっており、老中首座の阿部正弘らは協議の末「国書(親書)を受け取って長崎へ退去させ、返事は一年後にする」と決定します。浦賀奉行らはペリーと会見しますが一言も話さずに国書だけを受け取り、ペリーはしばらく江戸を脅かしたのち、琉球を経て香港へ戻っていきました。

 砲艦外交そのものですが、この黒船来航によって日本は大きな岐路に立たされます。幕府は軍備を増強して侵略に備えたものの、その権威は失墜し、翌年には米国・英国などと条約を締結して開国を余儀なくされます。さらに各地の雄藩が国防意識を強めて独自に富国強兵を行い、やがて倒幕・王政復古へと歴史は大きく動いていきます。そしてこの頃、世界も大きな変革期を迎えていました。欧州では1848年革命やクリミア戦争、米国では南北戦争、清朝では太平天国の乱が勃発し、その影響は日本にも及ぶこととなります。

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【続く】

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