【つの版】度量衡比較・貨幣247
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は近江国の続きです。

◆安◆
◆土◆

叡山焼討
元亀2年(1571年)正月、岐阜に戻った信長は秀吉に命じて大坂と越前の間の交通を厳重に封鎖させ、本願寺と浅井・朝倉の連絡を遮断します。2月には孤立していた佐和山城主の磯野員昌が降伏し、信長は丹羽長秀を佐和山城主とします。磯野員昌には代わりに琵琶湖の対岸の高島郡が授けられました。5月には浅井勢が一向一揆と連合して姉川に進軍し、別動隊が鎌刃城を襲撃しますが、秀吉の支援により撃退されています。同月に伊勢長島の一向一揆を叩いた後、信長は8月から小谷城を攻めて宮部継潤を降伏させ、9月には柴田勝家らに江南の六角氏を攻撃させています。
江南の一向一揆の拠点であったのが金森(現守山市金森町)です。野洲川氾濫原の微高地にあって弥生時代からの集落や初期の古墳が存在し、中世には東山道と琵琶湖を繋ぐ街道の宿場町として栄えました。14世紀には土豪の川那辺氏が天台宗から浄土真宗に改宗し、惣道場(金森御坊)を中心として民家を環濠で取り囲んだ寺内町が形成されています。応仁の乱の直前に起きた比叡山による襲撃に対しても金森御坊を中核として付近の門徒が一揆を組んで抵抗し、戦国時代には隣接する三宅の蓮正寺と連携して拡大しました。六角氏はこれと手を結んで南から信長方を脅かしたのです。勝家・信盛は付近の寺院を焼き払い、村々に起請文を出させて和睦しています。
この頃、比叡山には朝倉勢がなおも匿われており、京都に対して不穏な動きを見せていました。時の天台座主である覚恕は正親町天皇の異母兄弟にあたり、当時は京都におりましたが、信長は9月11日に園城寺に入り、延暦寺からの講和の使者も追い返して比叡山への総攻撃を命じました。武家の叡山焼討は足利義教や細川政元も行っており、72年ぶり3度目となります。弟や家来も延暦寺のせいで討死していますから、報復の理由は充分です。
これを実行したのは明智光秀です。彼は越前にいた時から足利義昭に仕えた幕臣でしたが、信長に従って敦賀や姉川で手柄をあげ、志賀の陣の後に宇佐山城主となり、周囲の土豪の懐柔などを行っていました。『信長公記』によると、光秀は坂本の神社仏閣を焼き払い、山上へ逃げ込んだ僧侶や女子供数千人を皆殺しにし、戦後に滋賀郡5万石を賜って信長の家来となります。
近江坂本は古くから比叡山の門前町・外港として繁栄した町でしたが、光秀はその経済力を利用して巨大な坂本城を建設し、比叡山と京都に睨みをきかせました。これはいわゆる天主と呼ばれる望楼を持ち、後に信長によって建設される安土城に次いで立派なものであったとされます。延暦寺の寺領や日吉大社の社領は没収されて諸将に分配され、信長の生前には再興も許されませんでした。最澄以来800年近く続いた比叡山延暦寺は事実上滅んだのです。延暦寺が長年暴威を振るい腐敗堕落していたとはいえ、この所業は人々から批難され、覚恕らは武田信玄に支援を要請することとなります。
天魔信長
元亀3年(1572年)10月、武田信玄は多数の軍勢を集め、三河・遠江に侵攻しました。また美濃にも別働隊を向かわせ、信長との同盟を破棄します。信玄は遠江の大部分を支配下におさめ、三方ヶ原の戦いで徳川・織田連合軍を蹴散らしました。信玄勝利の報を聞いた義昭はついに信長を見限り、元亀4年(1573年)2月には反信長派の諸将に手紙を送って同盟を結びます。
同年正月、武田信玄は義昭の側近・上野秀政に書状を送りましたが、その中で信長が比叡山を焼き払った所業を挙げて「天魔波旬の変化(仏敵の化身)なり」と記しています。また同年3月19日(西暦1573年4月20日)の宣教師ルイス・フロイスの書状によると、信玄は信長に対して「天台座主沙門信玄」と署名した手紙を送り付けましたが、信長は「第六天魔王信長」と署名した返書を送ったといいます。これらの記述が本当かどうか定かではありませんが(信玄が天台座主と名乗るなど)、有名な逸話ではあります。
信長は3月末に岐阜を出立し、近江を経て上洛すると京都の広範囲を焼き払って義昭を脅しつけます。二条御所に籠る義昭はやむなく和睦しますが、六角承禎・義治は同年4月に愛知郡鯰江城(現東近江市鯰江町)に入り、城主鯰江貞景や一向一揆と結んで信長を脅かしました。信長は百済寺に陣を構えて城を囲みますが、百済寺が六角勢についたため寺を焼き払い、岐阜に帰還しています。信玄は兵を三河まで進めて家康を脅かしますが、進軍途中で体調を崩し、4月に甲斐へ撤退、その道中で死去しました。
しかし義昭は信玄の死を知らず、彼を頼りにして再び信長討伐を呼びかけます。怒った信長は同年7月に再び義昭を攻め、義昭は降伏したのち京都を去って河内へ遷りました。事実上の室町幕府の滅亡ですが、彼は将軍職を退いたわけではなく、西国の毛利氏らを頼ってなおも信長と対立を続けることになります。これまで見たように、足利家の将軍は尊氏以来京都から追放されてもちょくちょく返り咲いていますから、よくあることではあります。
元亀4年改め天正元年8月8日、信長は3万の兵を率いて出陣し、小谷城を包囲しました。浅井長政は5000の兵で籠城しますが離反が相次ぎ、朝倉義景に援軍を要請します。義景は自ら2万の兵を率い敦賀から近江に入りますが、小谷城の西を守る山本山城主の阿閉貞征が調略に応じて織田家に降伏し、織田軍は小谷城の北の砦に入った朝倉軍を奇襲して散々に打ち破ります。さらに越前へ撤退する朝倉軍を追撃して一色龍興ら多数の将兵を討ち取り、一乗谷まで追いかけて総崩れに追い込み、事前の調略もあって僅かな日数で滅ぼしてしまいました。
後ろ盾を失った小谷城はたちまち陥落、浅井久政・長政らは自刃します。浅井一族は多数が討死するか処刑され、亮政より3代50年続いた浅井家は滅亡したのです。お市の方が長政との間に儲けた茶々ら三姉妹は母ともども信長に引き取られ、数奇な運命を歩むことになります。鯰江城で反抗を続ける六角父子も同年9月に甲賀郡へ撤退し、翌年には信楽に移り、以後は義昭に合流したようです。ここに信長は近江一国をようやく平定し、丹羽長秀は佐和山城に加えて若狭を授かりました。
小谷城と浅井家旧領(浅井郡・伊香郡・坂田郡)は木下改め羽柴秀吉に与えられますが、信長は小谷城に代わって姉川の南、横山城の西の今浜に城を築くよう命じ、秀吉は信長から一字を拝領して今浜を長浜と改めます。ここは琵琶湖に面した水城で、美濃や北陸からの街道が交わる要衝にあたり、秀吉は小谷城の資材や城下町をここに移して、数年のうちに長浜城を建設します。浅井・京極・六角の旧臣たちは織田家や羽柴家・丹羽家などに仕官し、その実務能力は織豊政権を支える屋台骨となっていきました。
安土築城
信長は畿内の三好氏や越前・伊勢の一向一揆を滅ぼし、武田勝頼らを長篠の戦いで打ち破り、石山本願寺とも講和を結び、畿内近国をおおよそ打ち従えます。天正3年(1575年)11月には朝廷より権大納言・右近衛大将に任じられますが、同月に家督と岐阜城と美濃・尾張を嫡男信忠に譲ります。そして天正4年(1576年)正月、丹羽長秀を総普請奉行として近江国蒲生郡に安土城を築城させ、3年4か月をかけて完成させました。それまでは筆頭家老の佐久間信盛の屋敷を在所としていますが、自ら安土山の仮御殿に居を移して現場で普請の指揮をとってもいます。

安土城は応仁の乱から百年に渡り六角氏の居城であった観音寺城の支城を大幅に拡大したもので、第二次世界大戦後に干拓されるまで大中湖という琵琶湖の内湖に面していました。観音寺城もこれを利用した水城で、平安時代から存在した観音正寺の境内に築かれ、取り込んだものです。六角氏が信長に敗れてから空き城となり、防御施設として再利用されましたが、信長はその地理的利便性に目をつけ、自らの居城に定めたのです。
実際岐阜城よりは各段に京都・畿内に近く、水運を利用して莫大な物資を動かすことができ、北陸や美濃に対しても睨みをきかせることが可能です。また明智(惟任)光秀の坂本城、丹羽長秀の佐和山城、羽柴秀吉の長浜城、磯野員昌の新庄城が安土城の支城として琵琶湖を取り囲み、水運を掌握できます。建物などを観音寺城から移築すれば経費も抑えられたでしょう。
信長は観音寺城を真似て安土城を総石垣とし、近江坂本の穴太から石垣職人の集団「穴太衆」を呼び寄せました。もとは延暦寺に仕えて寺院の基壇を築いていた人々です。鉄砲が普及すると銃撃を防ぐ堅牢な城壁が必要となり、それを支える基壇として石垣が築かれました。巨大な石は数千人がかりで引いたと当時の宣教師の記録にもあり、蛇石という巨石は幅5間(10m)、重さは3万貫(112トン)もあって、1万人が引いて運びましたが途中で綱が切れ、150人が圧し潰されたといいます。
安土城の大手門(正門)と大手道は南側にあり、左右を羽柴秀吉と前田利家の邸宅に護られていました。また城の南西部には百々橋があり、ここから安土山を登ると摠見寺という臨済宗妙心寺派の寺があります(現在は東に移築)。これは信長が建立したもので塔堂伽藍を備え、城郭の中にある宗教施設としては異例に大きなものです(観音寺城は観音正寺が本体で、城の拡張工事を行った際に寺は麓へ移されています)。寺をさらに登ると信長の嫡男信忠の屋敷があり、その上に主郭部があります。
主郭部には本丸・二の丸・三の丸と天主(天守)があり、信長が居住して政務を執り行いました。本丸御殿は京都内裏の清涼殿を模したもので建物は西を向いており、菊の紋章のついた瓦も出土していて、信長はここに天皇を迎える予定であったといいます。都を遷すとなるとおおごとなので、行幸した天皇をもてなす仮御殿ほどのつもりでしょうが。また三の丸には江雲寺御殿という迎賓館がありましたが、江雲寺殿とは六角定頼の法名で、信長が彼に敬意を払っていた証拠であるとも言います。


諸記録によれば天主は高さ16間(32m)、地下1階と地上5階の望楼型で、礎石中央部には仏舎利を入れた壺が埋められており、おそらく宝塔が安置されて仏塔(五重塔)としての役割も兼ね備えていました。内外は白壁に黒漆が塗られ、豪壮華麗な障壁画が描かれ、地下から地上3階までは吹き抜けでした。地上5階は八角形の仏堂で柱は赤く塗られ、釈迦が説法する絵図が描かれていましたが、その上の最上階は三間四方で内外とも金箔が張られ、三皇五帝や孔子などチャイナの聖人賢者の絵図が描かれていました。信長は仏を凌駕する第六天魔王として、この城から天下に君臨したのです。

天主の高さは法隆寺の五重塔とほぼ同じで、足利義満が建立した七重塔は高さ360尺(109m)といいますから安土城天主より高くなりますが、安土山は標高198mですから合計すれば七重塔の倍以上の高さとなり、黄金の最上階は遠くからでもよく見えたことでしょう。また安土城には防御設備が乏しくて籠城には向かず、軍事的機能より政治的機能を優先させた城でした。
『信長公記』によると天正10年(1582年)正月、信長は家臣たちを安土城に出仕させる時に「銭10疋(100文)を礼銭として差し出せ」と命じましたが、自分で厩の入口に立って礼銭を徴収し、受け取るそばから後ろへ投げていたといいます。銭1文を100円とすれば100文は1万円程度で、天下人となった信長の収入からすれば1000人来ようと端金ですが、家来から直接礼銭を受け取って忠誠心を確認することの方が重要だったのでしょう。
◆安◆
◆土◆
【続く】
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