【つの版】度量衡比較・貨幣248
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は近江国の続きです。

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本能寺変
安土築城が開始された天正4年(1576年)、備後国鞆に居を定め毛利輝元の庇護を受けた足利義昭の呼びかけにより、信長包囲網は再構築されます。これに応じて丹波の波多野秀治、但馬の山名祐豊らが離反し、武田勝頼は東方で勢力を拡大し、石山本願寺は上杉謙信と和睦・同盟しました。信長はこれらを鎮圧すべく東奔西走し、大和で裏切った松永久秀を自害させ、越前に柴田勝家、丹波に明智光秀、播磨には羽柴秀吉を派遣して防がせます。天正6年(1578年)に謙信が急死すると各個撃破して平定、天正8年(1580年)本願寺と和睦します。この間に信長は朝廷から右大臣に叙任され、足利将軍家より上位となりました。
天正7年(1579年)5月、安土城下の浄土宗の寺・浄厳院で「安土宗論」が行われました。これは安土の城下町で法華宗の信徒らが浄土宗の僧侶に議論をふっかけ、双方の僧侶が正式に議論を戦わせることになったもので、信長は望まぬことでしたが裁定役として立ち合います。裁定の結果法華宗側が議論に答えられなくなって負けと決まり、以後他宗を誹謗しないと証文を書かされ、張本人は騒動を起こしたとして処刑されています。信長は以前より法華宗の信徒であり、延暦寺や一向一揆とは対立していましたが、キリシタンも庇護して宣教を許可するなど宗教的には寛容で、特定の宗派を依怙贔屓はしませんでした。これにより浄土宗側は大いに面目を施し、浄土真宗の本願寺が態度を軟化させる一因にもなったのではないかと思われます。
またこの頃、近江高島郡を任されていた磯野員昌が信長の叱責を受けて高野山に出奔し、養嗣子であった信長の甥信澄がその所領を相続しました。彼は明智光秀の娘婿となり、信長・信忠とともに各地を転戦しています。
羽柴秀吉は天正5年(1577年)10月より播磨へ出向しており、長浜の所領は留守居役に任せていましたが、天正9年(1581年)に信長は堀秀政を代わって長浜城主とし、2万5000石を授けました。秀吉は代わりに播磨を与えられ姫路城主となり、但馬を平定した弟長秀とともに中国攻めにかかります。
天正10年(1582年)2月、信長・信忠は甲州征伐を開始し、信濃・甲斐を1か月ほどで討ち平らげ、武田勝頼を自刃に追い込みます。しかし同年6月2日に本能寺の変が勃発し、信長・信忠はともに京都で自刃しました。
明智光秀(天正3年7月に惟任と賜姓)は滋賀郡坂本城5万石を賜った後、各地を転戦しながら隣国丹波の平定を任されていました。天正8年には信長より功績を讃えられて丹波一国29万石を加増され、丹後・大和など畿内諸国の大名が与力につけられています。畿内近国に巨大な勢力を持ち、京都にほど近い坂本を本拠地とする光秀からすれば、油断した信長を排除しその敵と手を組めば天下を手に入れることができたわけです。また若狭の武田元明、江北の京極高次(高吉の子)・阿閉貞征は光秀に呼応し、堀秀政が中国攻めに出向いていて留守であった長浜城を制圧しました。秀吉の妻子らは急報を受けて避難し無事でしたが、このことが光秀の命運をわけます。
勢多城主として江南を領していた山岡景隆(和田惟政の外孫)は光秀から味方につくよう勧誘されますが、彼はこれに従わず、瀬田橋を焼いて甲賀郡に撤退しました。また安土城は蒲生賢秀が留守居役をつとめていましたが、防御力が低いため守り切れないと判断し、信長の妻妾らを率いて退去し、日野城に移って立てこもりました。ただし金銀財宝や名物などは「持ち去れば悪名をこうむるから」と持ち去っておらず、光秀は安土城を接収したのちに回収して家来や味方に分配しています。また安土城には娘婿の明智秀満を入れて守護させており、この時に安土城が焼失したわけではありません。
佐和山城主の丹羽長秀は土佐の長宗我部元親を討伐するため、神戸(織田)信孝や津田信澄とともに大軍を率いて堺にいましたが、急報を聞いて将兵には動揺と混乱が広がります。やがて光秀の娘婿である津田信澄が光秀と共謀しているのではないかとの噂が広がり、疑心暗鬼に駆られた信孝と長秀は信澄を襲撃して殺害、その首を晒しました。その後も混乱はおさまらず、信孝らは京都から最も近い場所にいながら積極的に行動して光秀を討伐することができませんでした。長秀の居城である佐和山城は、この頃に光秀の手勢の荒木氏綱・山崎片家らに接収されています。
備中高松城を包囲中の羽柴秀吉は、本能寺の変の翌日深夜には急報をキャッチし、毛利方と和睦を結んで畿内へ引き返し始めます。6月5日には摂津茨木城主の中川清秀に書簡を送り、「上様(信長)も殿様(信忠)も無事に難を逃れ、近江国の膳所が崎(現大津市膳所)まで撤退された」と偽情報を流しています。これにより摂津勢は混乱し、光秀に呼応できなくなりました。
安土炎上
光秀は6月7日に勅使を安土城で迎え、京都の治安維持を命ぜられます。秀吉が畿内へ戻りつつあると知った光秀は、翌日安土を出発し、9日には宮中に参内して朝廷に銀500枚を献上、京都五山や大徳寺、勅使らにも銀を贈答しています。これらの銀は安土城から掠奪したものと思われます。同日には丹後の長岡(細川)藤孝とその子忠興に書状を送り、摂津か若狭かを与えるから味方するよう呼びかけました。
藤孝は室町幕府の幕臣出身で、足利義藤(義輝)から偏諱を賜り、義輝が討たれると弟覚慶(義昭)を奉じて奔走した人物です。明智光秀は彼の家来でしたが、ともに義昭のもとを離れて信長に仕えるようになり、光秀の与力の一人とされました。息子の忠興は光秀の娘を娶っており、関係からして光秀に味方してもおかしくはありませんが、藤孝はこの要請を拒否し、信長に弔意を示すため剃髪して幽斎玄旨と号し、忠興に家督を譲りました。
大和の筒井順慶も「洞ヶ峠」を決め込んで日和見し、光秀は備中から播磨と摂津を経て戻って来た秀吉らと山城南部の山崎で戦うことになります。6月13日に戦闘が始まり、池田恒興ら摂津衆の奮戦により明智軍は敗れ、光秀は近江坂本へ逃げる途中、伏見で落ち武者狩りに遭って落命しました。阿閉貞征は明智軍の先鋒でしたが捕縛され、一族郎党とも処刑されています。
これを聞いた秀満は翌14日未明に安土城を出て坂本へ向かい(『川角太閤記』では騎馬で琵琶湖を渡ったとしますが陸路か船でしょう)、坂本城に立て籠もります。同日に堀秀政に包囲されるとしばし防戦しますが、国行の刀などの名物が失われることを恐れて荷造りし、目録を添えて敵軍に贈りつけます。ただ郷義弘の脇差は「主君光秀公にお返しする」として渡さず、その夜に光秀の妻子と自分の妻を刺し殺してから切腹し、煙硝(火薬)に火を放って自害したといいます。
そして『兼見卿記』によると6月15日、安土城は出火により炎上、焼失しました。秀吉の晩年に編纂された『秀吉事記』によれば、これは明智秀満が安土城を出る時に放火したものとされ、『太閤記』などでもそう書かれています。一方イエズス会の記録では、伊勢から攻め込んだ北畠信意/織田信雄が明智の残党を炙り出すため城下町に放火し、強風で延焼したとあります。
明智の残党や盗賊との交戦により火が燃え広がった可能性はありますが、発掘調査によれば安土城の炎上は主郭部の天主と本丸にとどまり、二の丸・三の丸や城下町が燃えた様子はありません。そのため落雷によって一部だけが燃えた説があります。山崎の戦いがあった6月13日は雨であったといい、その2日後はユリウス暦7月4日で梅雨の最中ですし、ルイス・フロイスの記録では天正7年(1579年)にも落雷で本丸が燃えたとあります。標高198mの山の上に聳え立つ32mの天主ならば、落雷があっても不思議はありません。
清洲会議
明智光秀の敗死から14日後の天正10年(1582年)6月27日、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興らは尾張国清洲城に集まり、信忠の嫡男三法師を織田家の家督相続人とすることで合意し、今後の支配体制について会議を開きます。これにより尾張は信雄、美濃は信孝が相続し、三法師は近江のうち安土城と7郡20万石を相続、堀秀政が傅役として代官に任じられました。三法師の後見人は信雄と信孝がつとめ、秀吉・勝家・長秀・恒興の四宿老が輔佐し、家康ら諸大名がこれを支えることとなります。

丹羽長秀は佐和山城と周辺の領地を堀秀政に譲りますが、代わりに津田信澄の所領であった江西の高島郡と、その南で明智光秀の所領であった滋賀郡を授かり、高島郡に隣接する若狭を安堵されました。焼失した坂本城は長秀により再建されます。柴田勝家は江北の坂田・浅井・伊香郡と長浜城を割譲され、これらに隣接する越前を安堵されます。必然的に三法師と秀政は残る7郡、栗太・野洲・甲賀・蒲生・神崎・愛知・犬上を領有することとなりましたが、信孝は三法師を岐阜城にとどめて安土へ行かせず、柴田勝家と結託して秀吉たちと対立しました。
また勝家は、清洲会議で秀吉ら諸将の承諾を得て信長の妹・お市の方と結婚しています。彼女は北近江を領した浅井長政に嫁いでいましたが、長政が自害したのち3人の娘(茶々・初・江)を連れて織田家に引き取られ、10年ほど岐阜城で暮らしていました。これには信孝の仲介があったとも、勝家をなだめるため秀吉が動いたとも言われます。すでに36歳ゆえ勝家の子を産む可能性は高くありませんが、信長の妹を娶った勝家は亡き信長の義弟として織田家中における権威を高めることとなりました。そして美濃の信孝と手を結び、織田家を牛耳ろうとする秀吉に対抗することとなります。
賤岳合戦
勝家は引き続き北ノ庄城を拠点として越前を統治し、近江長浜城には養子の勝豊を入れました。勝家は妹の子ともされる権六勝敏を養嗣子とし、姉が嫁いだ佐久間盛次(信盛の従兄弟)の子勝政(佐久間盛政の弟)らも養子としています。勝豊も勝家の別の姉の子ですが、実父は勝家の家臣吉田次兵衛とも渋川八右衛門ともいい、家督継承順位は高くありませんでした。秀吉はこの勝豊を調略し、勝家と対立させます。
さらに勝家の背後の上杉景勝、美濃西部の有力領主である稲葉一鉄らを味方に引き入れ、勝家から和睦の使者として送られて来た前田利家らも調略したうえで、12月に近江長浜城を包囲します。真冬の越前では大雪が降って近江へは出兵できず、勝豊は秀吉に降伏しました。秀吉はさらに美濃へ侵攻して岐阜城に籠る信孝を屈服させ、勝家が動けぬうちに戦況を有利とします。
天正11年(1583年)正月、滝川一益が柴田勝家に与して伊勢長島城で挙兵し、伊勢各地の城を調略します。秀吉は2月に京都から伊勢へ攻め寄せ長島城を包囲しますが、勝家は2月末(立春正月ゆえ新暦では4月下旬)に3万の大軍を率いて越前より近江へ出陣し、3月12日(新暦5月上旬)には近江国伊香郡柳ヶ瀬(現滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬)に布陣しました。ここは敦賀から南東へ20㎞弱のところにあり、長浜城までは南に50㎞ほどで、越前と近江の国境です。また勝家は備後国鞆の浦に亡命していた足利義昭に使者を遣わし、毛利輝元に出兵を督促させており、和泉や紀伊の雑賀衆、土佐の長宗我部元親も勝家に呼応して秀吉の後方を脅かしました。
秀吉は織田信雄と蒲生氏郷に1万強の兵を残して伊勢から近江へ転進し、3月19日には5万と号する大軍を率いて琵琶湖北東の伊香郡木ノ本(現滋賀県長浜市木之本)に布陣しました。柳ヶ瀬からは南に10㎞ほど離れています。両者の間には余呉川が流れ、その東西に盆地が広がり、余呉湖と琵琶湖の間には標高421mの賤ヶ岳が聳えています。
両軍はしばらく睨み合いつつ陣地や砦を構築し、丹羽長秀は敦賀や海津(琵琶湖北西部の港)へ出兵して勝家の背後を脅かしたため、戦線は膠着します。秀吉は弟の小一郎長秀(のちの秀長)らを木ノ本に留め置き、長浜城に入って伊勢と近江の両面に備えました。勝家や義昭は毛利輝元に出兵を督促しますが、毛利は動かず様子見を続けます。
4月16日に織田信孝が美濃で再び挙兵し、秀吉は翌日美濃へ向かいますが揖斐川が氾濫して岐阜城へ向かえず、大垣城で足止めを食ってしまいます。好機と見た勝家は4月19日より佐久間盛政に命じて大岩山砦を攻撃させ、守将の中川清秀を討ち取らせます。続いて岩崎山の高山右近も攻撃を受けて退却しました。盛政は勝家の撤退命令を無視して攻撃を続け、賤ヶ岳砦や木ノ本の本陣をも脅かします。
この窮地を救ったのは、琵琶湖を渡って駆け付けた丹羽長秀でした。賤ヶ岳砦から撤退しようとしていた桑山重晴は、長秀率いる2000の軍勢と合流して盛政に反撃を行い、砦を確保します。同日に大垣城を出た秀吉軍は木ノ本までの13里(53㎞)を5時間で移動し(美濃大返し)、弟の窮地に駆け付けました。盛政は負けじと奮戦しますが、秀吉は盛政の弟である柴田勝政の部隊を標的とし、加藤清正・福島正則らを率いて総攻撃をかけます。
この激戦の最中に、勝家の与力で5000ほどを率いていた前田利家が戦線を離脱します。秀吉の調略によるとも形勢不利と見て状況判断した結果だともいいますが、これにより柴田勢は総崩れとなり、金森長近・不破勝光らも撤退を開始します。やむなく勝家は越前北ノ庄城へ逃れますが、利家・長近らは秀吉に寝返って勝家を包囲し、追い詰められた勝家は4月24日に自害しました。彼の妻であるお市の方もともに自害し、3人の娘らは逃がされて秀吉に庇護されます。佐久間盛政は捕縛・斬首され、佐々成政は剃髪して降り、信孝は信雄に岐阜城を包囲されて降伏し(のち自害)、滝川一益は長島城で籠城を続けたものの開城して降伏し、剃髪して越前大野に蟄居しました。ここに北陸に割拠した柴田勝家の勢力は滅んだのです。
◆あく◆
◆らつ◆
【続く】
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