【つの版】度量衡比較・貨幣244
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は近江国の続きです。

◆六◆
◆角◆
呉越同舟
尾張で織田信長が生まれた4か月後の天文3年(1534年)9月、六角定頼の庇護のもと近江国桑実寺にいた将軍足利義晴は細川六郎と和睦して上洛し、定頼と六郎が協力して義晴を支える体制になります。しかし、この連立政権は呉越同舟そのものでした。
彼らの共通の敵となったのは一向一揆と法華一揆です。ともに戦国乱世にあって勢力を広げ、細川政元や六郎は一向一揆を支援して敵対勢力にぶつけていましたが、勢力を持ち過ぎた一向一揆は細川氏にも制御不能な化け物となり、全国各地に猛威を振るっていました。やむなく六郎は法華宗(日蓮宗)を支援して対抗させ、六角定頼とも協力して一向一揆の総本山である山科本願寺を陥落させますが、一向一揆は本拠地を大坂石山に移して反撃し、六郎は各地を転戦した末に天文4年(1535年)和睦します。また同年には将軍義晴から偏諱を授かり細川晴元と名乗りました。
この一向一揆との和睦は、法華一揆との衝突を招きます。晴元は六角定頼や延暦寺・園城寺とも手を結び、天文5年(1536年)京都で法華一揆と戦い壊滅させますが、これによって生じた火災は下京全域と上京の1/3を焼き尽くし、応仁の乱を上回る被害を出したといいます。晴元は同年に高国の弟晴国も討ち取って畿内を安定させ、翌年には右京大夫に任官され、前太政大臣三条実香の子公頼の娘を娶っています。この公頼の娘は六角定頼の猶子で、晴元は形式的にせよ定頼の娘婿となったのです。なお前年には公頼の次女が甲斐国主武田信虎の嫡男晴信(信玄)に嫁ぎました。
江北動乱
六角定頼は近江に在国し、領国統治を行いつつ幕政に介入する形をとっています。天文7年(1538年)江北の領主京極高清が79歳の高齢で没すると、子の高延(改名して高広)が家督を継ぎますが、高広の弟の高吉(高慶)は六角定頼と手を結んで家督相続を主張します。高広は浅井亮政に奉じられてこれに対抗しますが、佐和山城を攻め落とされて小谷城の下まで迫られ、9月には講和に追い込まれます。高広・亮政の政権は存続しますが、彼らの政敵である高慶と上坂定信が江北に戻され、江北は六角氏の覇権のもとに入ったのです。これを不満とした高広は天文10年(1541年)亮政に反旗を翻し、亮政は鎮圧に動きますが翌天文11年(1542年)正月に没しました。
子の久政はまだ17歳で、亮政の婿養子で後継者候補だった明政が補佐役となりますが、高広はこの混乱に乗じて勢力を広げ、江北の国人衆へ手紙を送って加勢するよう呼びかけます。またこの頃には細川晴元の家来の三好利長(のち長慶)と木内長政が摂津・河内で争っており、義晴が近江坂本へ逃れるなど畿内も混乱していました。木内長政の乱は3月に鎮圧されますが、天文12年(1543年)には細川高国の養子氏綱が晴元打倒の兵を挙げて堺を脅かし、定頼は晴元へ援軍を出していて江北までは手が回りませんでした。
伝承によると天文13年(1544年)、足利義晴と細川晴元は前年に種子島から紀州根来を経て伝来した鉄砲を手に入れ、近江国坂田郡国友の鍛冶師らに同じものを作成するよう命じました。鍛冶師らは同年8月に2挺の鉄砲を作成し、これを将軍に献上したといいます。未知の兵器を作成したにしてはあまりにも早いため、すでにいくらか伝来していたとは思われますが、これより国友は近江における鉄砲生産の拠点となります。根来や堺を掌握していた氏綱方はすでに鉄砲を使用していたと思われ、対抗するためには必要です。国友産の鉄砲は美濃や尾張、甲斐や坂東まで数年の間に広まりました。
国友は姉川の南岸にあり、浅井氏の居城である小谷城から6kmほどしか離れていません。伝承とはいえ六角氏の庇護下にあった義晴や晴元(の使い)がここまで来れたということは、ここは六角氏の領域にあり、姉川が京極氏/浅井氏との境界だったのでしょう。東へ向かえば伊吹山の南麓を経て関ヶ原を抜け、美濃に達します。この頃美濃は守護の土岐頼芸が有力家臣の斎藤利政(道三)に奉じられ、六角定頼と同盟していましたから、京極高広に味方するような状況ではありません。
管領代行
天文15年(1546年)9月、氏綱方の細川国慶が京都を制圧し、晴元は丹波に落ち延びます。義晴は東山慈照寺(銀閣寺)に退避しますが、11月には晴元が丹波から戻り京都に軍勢を集めます。12月、義晴はまたも近江坂本へ逃れ、嫡男菊幢丸を12歳で元服させて義藤と名乗らせました(のちの義輝)。この時に六角定頼は管領代として烏帽子親をつとめています。細川高国の没落後、幕府には管領がいなくなりましたが、定頼は晴元の妻の父という名分もあることから、ついにその代理として扱われたのです。
義藤の元服の翌日、義晴は将軍職を義藤に譲り、朝廷の勅使を招いて正式に将軍宣下を行わせます。しかし大御所として実権は握っており、同年末に慈照寺へ戻ると翌年正月に参内しました。ところが3月末に晴元と決別して氏綱に味方することを表明します。怒った晴元は偏諱を捨てて六郎に戻り、阿波に逼塞していた義晴の兄弟義維を再び擁立しました。
六角定頼は六郎/晴元の娘を義藤の正室にするよう提案し、両者の和解を画策しますがうまくいかず、やむなく7月には六郎/晴元とともに義晴・義藤の籠る将軍山城を包囲し、和解を求めました(御所巻)。進退窮まった義晴はこの要求を飲むしかなく、近江坂本へ退去します。同月には三好利長改め範長が氏綱に勝利し、義晴は定頼・晴元と和解、後ろ盾を失った義維は阿波へ戻りました。翌年4月、定頼は大和に入って氏綱派と晴元との和解を取りつけ、義晴・義藤は6月に京都へ帰還します。管領代かつ将軍の烏帽子親として将軍や大御所に代わり五畿内(天下)の和平につとめた定頼は「天下人」とでも呼ぶべき存在となりましたが、戦乱はなおも継続しました。
三好長慶
天文17年(1548年)8月、三好範長改め長慶は、細川晴元に父元長の仇である三好政長(宗三)らの誅罰を求めた書状を送ります。元長は晴元/六郎の重臣でしたが、木沢長政や三好政長と対立して主君と不仲になり、享禄5年(1532年)畠山義堯と結託して長政と交戦しました。これに対し六郎と政長は一向一揆を元長らにけしかけ、義堯・元長は自害に追い込まれたのです。長慶はこの時10歳で、2年後には一族の仲介で六郎と和解したものの、その勢力は戦乱の中で拡大し、主君や将軍を脅かすほどになっていました。政長や晴元との様々な確執もあり、これはいわば最後通牒でした。
晴元がこの書状を拒絶すると、長慶は敵であった細川氏綱、河内守護代の遊佐長教らと結託して10月に挙兵し、晴元に反旗を翻して河内・摂津を抑えました。晴元・政長は翌年摂津へ出陣し、六角定頼も援軍を派遣しますが、摂津国江口城に籠った政長らが猛攻を受けて討死し、晴元は義晴・義藤を伴って近江坂本へ撤退しました。長慶は氏綱とともに上洛して京都を制圧し、義晴は京都を奪還せんと近江国滋賀郡穴太へ移りますが、翌年5月に病没します。晴元は義藤を奉じ定頼と協力して京都奪還をはかったものの、江北の京極高広は長慶と結託して浅井久政と和睦し、江南を脅かしていました。
天文18年(1549年)12月21日、六角定頼は観音寺城の城下町の石寺新市が「楽市」である旨の文書を発行しています。これは「座人」として紙の専売権を持っていた枝村商人が、保内商人の紙商売について争った裁許状の写しで、「石寺新市は楽市であるので致し方ないが、それ以外の美濃・近江国内では座人以外の商売を禁じる」としたものです。この文書は楽市を新たに設定するものではなく、石寺新市が遅くとも天文18年末時点で楽市として認められていたことが明らかになるに過ぎず、石寺新市に楽市を設定した主体が六角氏であることを示すものでもありません。
天文19年(1550年)6月、足利義藤・細川晴元は京都東山へ出陣し、亡き義晴が建設した慈照寺裏山の中尾城に入りました。長慶の軍勢は東山に攻め寄せて小競り合いが起きましたが、この時三好方に与力した武士1名が「鉄砲に当たって死んだ」と当時の公家の日記『言継卿記』にあります。
小競り合いが数ヶ月続いた後、長慶は積極的な攻勢に出、東山の麓に放火して威圧します。また家来の松永長頼(久秀の弟)を近江国に遣わし、大津の松本などに放火させたため、背後を脅かされた義藤・晴元は中尾城から近江坂本へ、さらに北の堅田を経て朽木へ逃れます。
やむなく義藤・晴元らはゲリラ戦に転じ、翌天文20年(1551年)3月には長慶へ刺客を2度放ちます。これは失敗しますが、恐れた長慶は山崎へ南下し、この隙に丹波から晴元派の三好政勝(政長の子)らが京都に攻め込みます。政勝にとって長慶は父の仇ですから恨み骨髄で、5月には河内守護の遊佐長教が暗殺され、7月には相国寺に政勝が陣取りました。長慶は松永久秀と長頼に大軍を授けて上洛させ、相国寺を攻めて政勝を撃退します。
六角定頼は和睦の仲介につとめますが、天文21年(1552年)正月に58歳で没し、子の義賢が跡を継ぎます。六角氏としても近江や畿内が戦乱で荒廃するのは望むところではなく、義藤は同月のうちに長慶と和睦し、晴元を見限って上洛すると、氏綱を細川氏の家督継承者とし、長慶を将軍直臣の御供衆としました。晴元は出家しますが和睦は認めず、六角定頼の娘婿の一人である若狭守護の武田信豊を頼り抗戦を続けます。また幕臣の中にも上野信孝ら反長慶派は多く、翌天文22年(1553年)に長慶が暗殺の噂を恐れて淀へ動くと、3月に義藤は晴元と和解し長慶から離れ、東山霊山城に入りました。
しかし長慶は松永久秀らとともに各地の反乱軍を打ち破り、7月には上洛して東山に迫ります。義藤・晴元は戦わずして東山を立ち去り、またも近江朽木に逃走しました。三好軍は丹波・播磨・阿波をも制圧して将軍抜きに天下(畿内)の覇権を握り、義藤改め義輝は諸侯に呼びかけて対抗しますが劣勢を覆せず、永禄元年(1558年)11月に六角義賢(この頃出家して承禎)を介して長慶と和睦、京都に帰還します。晴元はその後も近江で抗戦を繰り返しますが勢力を回復できず、長慶は義輝・氏綱を奉じながらも実質的に幕府を牛耳り、畿内近国を領有する「三好政権」が成立することとなります。
◆義◆
◆輝◆
【続く】
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