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【つの版】度量衡比較・貨幣243

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は近江国の続きです。

滋賀県

◆戦◆

◆国◆


近江動乱

 復習しましょう。近江国は鎌倉時代より江南に六角氏、江北に京極氏が割拠していましたが、応仁の乱の時に六角氏当主の行高は西軍に与し、京極氏当主の持清(および行高の従兄の六角政堯)は東軍に与して相争います。しかし京極氏は持清の跡目相続を巡って東軍と西軍に分裂し、家臣の多賀氏も東軍と西軍に分かれて相争いました。

 この戦いで政堯は討死し、幕府は東軍方の京極政経および多賀高忠を支援しますが、行高は美濃や越前などから援軍を呼び寄せ、近江の大部分を制圧することに成功します。幕府はやむなくこれを承認し、六角行高(改名して高頼)を近江守護に任じますが、京極政経は守護領国である出雲へ逃れて勢力を蓄えました。対する西軍の京極秀綱と多賀宗直は、六角高頼と結託して江北6郡を領有することとなります。

東軍:京極政経
西軍:京極秀綱、多賀宗直、六角行高/高頼

 応仁の乱のそもそもの原因は、将軍足利義政が諸大名の御家騒動に介入して引っ搔き回し、弱体化させつつ自分に味方する勢力を増やそうとしたことにあります。武家の棟梁として自らの権力を強め、幕政を立て直そうとした目的はわかりますが、結果的に諸大名家を混乱させ、天下を二分する大戦を引き起こしたのです。それでも彼はなんとか大戦を終結させ、子の義尚よしひさに将軍職を継がせた後も大御所として実権を握り続けました。

 義尚はこれを不満とし、自らに権威と権力を集中させるべく、近江を制した六角高頼を打ち倒す計画を進めました。まず文明17年(1485年)京極政経の子経秀を侍所頭人(所司)に任命し、近江から駆逐され京都に隠棲していた多賀高忠を約20年ぶりに侍所所司代に任命します。ところが翌文明18年に経秀の家中で内紛が勃発し、高忠が自害するという変事があり、経秀も辞任に追い込まれました。これ以後侍所の所司と所司代は任命されず、次席の開闔という役職が事実上の責任者として侍所を管轄することとなります。

 同年、京極政経と経秀は出雲より上洛し、多賀宗直がこれに呼応して京極秀綱に反旗を翻します。秀綱は六角高頼が治める甲賀郡へ逃亡しますが、反撃して宗直を美濃へ追いやり、翌年5月に追い詰めて自害させました。しかしこれにより江北は動揺し、高頼を支援することができなくなります。

六角征伐

 長享元年(1487年)9月、義尚は「六角高頼が寺社領や奉公衆の所領を押領した」として高頼討伐の兵を挙げ、管領の細川政元や奉公衆・奉行衆、周辺諸国の守護大名、公家衆も率いて近江国坂本へ出陣します。集った兵は2万に及び、高頼は観音寺城(現近江八幡市安土町)を捨てて南の甲賀郡へと逃亡しました。義尚は本陣を栗太郡まがり(現栗東市)の安養寺に移し、幕府の政務を執り行いつつ高頼と対峙します。

 甲賀郡は近江国南部に位置し、東は鈴鹿山を隔てて伊勢国、南は伊賀国、南西は山城国に通じる内陸交通の要衝です。郡中には多数の地侍/土豪が割拠して各々が城砦を構え、談合による合議制で物事を決定していました。彼らは六角高頼に味方して幕府の大軍を相手にゲリラ戦を仕掛け、夜陰に乗じて敵陣に放火し、散々に翻弄して苦しめたのです。この戦いに参加した地侍を甲賀五十三家といい、特に重きをなしたのを二十一家と呼び、後の甲賀流忍術の中心となりました。伊賀の地侍たちも味方につき、諸大名も一枚岩ではなく、加賀では一向一揆が武装蜂起し、戦いは膠着状態に陥ります。

 延徳元年(1489年)3月、足利義尚は鈎の陣中で25歳の若さで没し、六角高頼討伐軍は解散しました。義政の甥で美濃にいた義材よしきが後継者となって上洛し、翌年義政が没すると足利将軍家を継ぎます。彼の父義視は義政の弟ですが、応仁の乱の時に西軍に寝返り、戦後は美濃に雌伏していた人物です。そのため旧西軍の高頼は罪を許されて近江守護職に復帰しましたが(義尚の近習で近江守護に任じられていた結城尚豊は高野山へ出奔)、押領した所領を返還しなかったため義材の怒りを買い、延徳3年(1491年)に朝敵として討伐を受けます。高頼は再び甲賀へ逃げますが、激しい追撃を受けて伊勢へ逃亡し、北畠氏にも討伐されてさらに逃げ隠れました。

 また京極政経はこの頃には京極秀綱を駆逐して江北を制圧し、近江守護職を授かっていましたが、明応元年(1492年)12月には義材により家督を取り上げられ、秀綱に与えられています。子の経秀は義材から偏諱を賜り材宗と改名していましたが、同じく失脚しました。

明応政変

 義材は六角政堯の養子虎千代を近江守護にする予定でしたが、翌明応2年(1493年)4月の政変で管領・細川政元に廃位させられ、伊豆堀越公方の子で義尚の猶子であった僧侶の清晃が還俗させられて将軍に擁立されます(足利義高)。京極秀綱は彼から偏諱を賜ったのか高秀、のち高清と改名しますが、細川政元は六角氏傍流の山内就綱を近江守護・六角氏惣領とし、延暦寺とともに高頼を討伐させました。政経も復帰して高清を圧倒します。

 六角高頼と京極高清はまたも美濃を頼り、斎藤妙椿の養子・妙純の支援を受けて近江を奪還します。明応4年(1495年)には高頼が近江守護に戻りますが、斎藤家の内紛に反妙純側で関与したため怒りを買い、明応7年(1497年)には京極高清と妙純が組んで高頼・政経を攻撃しました。高頼は延暦寺などと手を結んで対抗し、妙純は美濃へ撤退を開始しますが、その途中で土一揆に襲われ討死します。高清は美濃へ逃げ、政経は江北を制圧しました。

 この頃、京都を脱出した足利義材は近江を経て越中に入り、放生津に拠点を置いて諸侯に味方につくよう呼び掛けていました。北陸の諸侯は彼に従ったものの上洛の動きは見せず、しびれを切らした義材は明応7年に越前朝倉氏に身を寄せて義尹と改名、翌明応8年(1499年)上洛を計画します。比叡山延暦寺も義尹に呼応し、管領細川政元は7月に兵を発して延暦寺を焼討しますが、畿内では混乱が広がって土一揆が蜂起し、京極高清は江北に戻って政経を出雲へ追いやります。同年は飢饉のため朝倉氏は兵を出せず、義尹は手勢数百を率いて敦賀から近江へ向かい、比叡山東坂本に陣取ります。

 この時、六角高頼は琵琶湖を渡って坂本を奇襲し、義尹は延暦寺を経て遥か周防へ逃げ延びました。京極政経の子の材宗は江北にとどまり、浅井氏ら国人衆を率いて高清と戦い続けますが勝てず、永正4年(1507年)自害に追い込まれます。政経も出雲から戻れず世を去り、高清は35年にも及んだ京極騒乱を最終的に勝ち残りました。しかし出雲・隠岐は守護代の尼子経久に、飛騨は守護代の三木直頼に押領され、高清に残ったのは江北だけでした。

永正錯乱

 永正3年(1506年)、50歳を迎えた六角高頼は、嫡男氏綱に家督を譲って隠居します。とはいえ氏綱はまだ18歳で、実権は高頼が握り後見役となりました。他の息子たちは出家させられて京都相国寺などへ送り込まれ、あるいは近江の幕府奉公衆の家に養子として送り込まれています。娘は京極材宗や公卿の今出川季孝、将軍足利義高(改名して義澄)らの側室となりました。

 翌永正4年(1507年)6月、管領細川政元が暗殺され、後継ぎを巡って細川家とその家中同士で内紛が勃発します。翌年には混乱に乗じた足利義尹が大内義興に奉じられて上洛し、義澄を追放して将軍に復帰します。義澄は細川澄元らとともに近江国へ逃げ込み、九里信隆が城主をつとめる水茎岡山城(現近江八幡市牧町)に入りました。

 ここは日野川河口の東に位置し、当時は北を琵琶湖、南を水茎内湖に囲まれた浮城で、琵琶湖水運を監視する難攻不落の要害でした。六角高頼と氏綱はやむなく彼を庇護しますが、永正8年(1511年)義澄が病没すると義尹に太刀・馬・銭を献じて忠誠を誓い、城に籠る九里氏を攻めています。

 しかしこの頃、近江守護代の伊庭貞隆が六角氏と対立します。貞隆は高頼が幼少の頃から仕えて輔佐し、国人衆を取りまとめた実力者でしたが、文亀2年(1502年)には山内就綱と結託して高頼に反旗を翻し、一時は観音寺城から追い出していました。この時は和解したものの、以後両者の間には対立が生じます。そもそも九里信隆は六角氏というより伊庭氏の被官で、義澄を庇護したのも近江国内で権威を高めようとした貞隆の意向であったらしく、両者の被官同士の争いもあって衝突は必至でした(諸説あります)。

 永正11年(1514年)、高頼は九里信隆を召し出して謀殺し、伊庭貞隆は江北へ逃れます。京極高清は六角氏との戦いに消極的でしたが、有力国人の浅井亮政が伊庭貞隆に協力し、高頼は蒲生貞秀を頼って南の音羽城へ撤退しました。永正15年(1518年)には六角氏綱が父に先立って27歳で病没し、高頼は出家させていた次男を還俗させて定頼と名乗らせ跡継ぎとします。

 永正17年(1520年)8月、六角高頼と定頼は管領細川高国と協力して反撃し、水茎岡山城を陥落させます。同年10月に高頼は65歳で世を去りますが、定頼は足利将軍家の後ろ盾の一人となって30年以上も江南を治め、六角氏の全盛期をもたらすこととなります。

浅井亮政

 浅井氏は京極氏の被官で、近江国北部の浅井郡を領したことからそう名乗りましたが、出自については諸説あります。藤原北家閑院流正親町三条家の三条大納言公綱が嘉吉年間に浅井郡に流され、そこで子を儲けたのが家祖であるとするご落胤説が知られていますが後世の創作と思われ、物部守屋の後裔とする説などもありますが取るに足りません。郡名から浅井氏を名乗る豪族は古くからいたようですが、戦国時代の浅井氏に繋がる人物が現れる最古の史料は文明12-13年(1480-81年)頃の『清水寺再興奉加帳』で、「江州浅井蔵人直種」の名が見えます。

 系譜類によれば、直種は浅井家初代重政の子で、兄が早世したためその子直政の後見人となりました。京極騒乱によって京極氏が弱体化すると、江北は高清の重臣上坂家信によって事実上支配されましたが、浅井直種は彼を除くべく文亀元年(1501年)京極材宗を奉じて今浜(現長浜市)で戦い、討死しました。直種の子亮政が跡を継ぎ、男子のなかった直政の娘蔵屋を娶って浅井家の家督を相続します。

 大永元年(1521年)上坂家信が没し、子の信光が跡を継ぎます。京極高清は還暦を迎えていましたが、彼の後継ぎを巡って家中の対立が深まります。高清は次男の高吉(高慶)を支持しますが、浅見貞則・浅井亮政らは嫡男の高延(高広)を支持し、大永3年(1523年)高清・高吉・信光らは尾張へ追放されました。一説には高吉は材宗の子で養子だったともいいます。

 しかし今度は浅見貞則と京極高延・浅井亮政らが対立し、亮政は翌年末に高清を呼び戻して貞則を失脚させ、これに取って代わって江北国人一揆の盟主となります。大永5年(1525年)5月には六角定頼が江北へ侵攻し、浅井氏の居城である小谷城を攻めますが、堅牢な守りに攻めあぐねている間に本国で伊庭貞説の乱が発生し、越前朝倉氏の仲介で和睦しました。ただし朝倉氏も六角氏に呼応して小谷城を狙っており、一時は高清・亮政ともども美濃へ亡命しています。六角氏と浅井氏の対立はその後も続きました。

足利義晴

 この頃京都では管領細川高国と対立した将軍足利義尹改め義稙が出奔し、堺・淡路を経て阿波で没しました。義澄の子で播磨の赤松氏に庇護されていた義晴が次の将軍として上洛します。しかし細川高国と敵対する細川六郎(のちの晴元)は阿波で義晴の弟義維を擁立し、堺に上陸して上洛を狙いました。大永7年(1527年)六郎方に敗れた高国は義晴を伴って近江坂本に逃げ、ついで蒲生郡武佐の真言宗長光寺(現近江八幡市長光寺町)に移って諸侯に支援を呼びかけます。六角定頼と朝倉宗滴がこれに応じ、義晴らは京都に戻って堺の義維・六郎と対峙しますが、交戦と交渉の末、享禄元年(1528年)には近江国高島郡朽木荘に移動しました。

鯖街道

 この地は安曇川上流の谷間にあり、北西は小浜、北は敦賀、東は琵琶湖、南は比叡山西麓を経て京都北東部へ通じる要衝です。佐々木氏の分家である朽木氏が鎌倉時代以来ここに割拠し、宗家の高島氏とともに郡内有力武家のひとつに数えられ、足利将軍家に仕えて偏諱を授かっています。当時の当主は朽木稙綱といい、義晴を歓迎しました。義晴はここに奉公衆・奉行衆らを集めて亡命政権を置き、六角氏・朝倉氏および若狭の武田氏、但馬の山名氏らを後ろ盾として京都奪還を目指します。また京極氏・浅井氏と六角氏との和解も仲介しようとしますが、これは失敗に終わりました。

 享禄4年(1531年)正月末、浅井亮政は晴元に呼応し、高島郡を攻撃しました。義晴はやむなく朽木を立ち去り、南の葛川、琵琶湖畔の堅田を経て坂本に遷ります。浅井氏は六角氏の反撃で撤退しました。細川高国はこの頃には摂津におり、播磨の浦上氏と手を組んで上洛を狙っていたため、義晴はこれに呼応して南下します。ところが高国は赤松氏の裏切りで自害に追い込まれ、義晴は長光寺を経て、翌年には観音寺城山麓の桑実寺に遷りました。

 六角定頼は義晴を後ろ盾として支え、京極氏・浅井氏とも和睦します。対する義維・六郎方では内紛が勃発して混乱しており、六郎はやむなく義晴と和睦して将軍に迎え入れることとしました。天文3年(1534年)9月に義晴は上洛し、細川六郎と六角定頼が協力して義晴を支える体制になります。

◆細◆

◆川◆

【続く】

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